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(選択を解除)(図書寮文庫)
「皇女和宮」(かずのみや)として名高い静寛院宮親子内親王(ちかこ,1846-77)の御直筆の日記。画像は,日記冒頭の慶長4年(1868)1月9日,12日条。徳川慶喜やその周辺の様子を時々刻々記されている。親子内親王は孝明天皇の妹,明治天皇の叔母にあたる。夫である江戸幕府第14代将軍徳川家茂を亡くし,皇女であり,かつ将軍家御台所でもあった複雑な立場で,時代が激しく移り変わる明治初期を記されており興味深い。全5冊。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,幕末維新期,薩摩藩の大立者であった小松清廉(1835-70)の明治元年(1868)閏4月17日付の木戸宛の書簡。文中に「徳川御所置(=御処置)」の文言があり,画像にも「家名相続は徳川亀之助(家達)」「秩禄高百十万石」「移封の地は駿府」と見える。別に「徳川御所置」という文言を含む書簡もあるので,木戸・小松という薩長首脳部の間で,当時慶喜隠居後の徳川家の処遇をめぐる議論がなされていたことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。