時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日に新橋鉄道館で開催された鉄道開業式の様子を写した写真である。明治2年(1869)11月,鉄道の敷設が決定されると,東京・横浜間の工事が始められた。開業式に先立つ,明治5年(1872)5月7日には,仮開業として品川・横浜間の旅客営業が開始されている。明治天皇も,7月12日に中国・西国巡幸の帰途,開業式に先駆けて横浜から乗車された。
鉄道開業式は,重陽の節句にあわせて9月9日に開催の予定であったが,雨天のため9月12日に延期となった。写真の右奥に写る建物が新橋鉄道館である。『明治天皇紀』によれば,当日は「霖雨(りんう)全く霽れ(はれ)、快晴にて微風(びふう)なし」とあり,晴天のもと大勢の人びとが,線路に沿って集まっている様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
ロシア太公キリル・ウラジミロウィチが来日した際の集合写真である。有栖川宮威仁親王,伏見宮貞愛親王,閑院宮載仁親王の皇族方のほかに,内閣総理大臣大隈重信,内務大臣板垣退助,元帥山縣有朋ら政治家も映っている。明治31年(1898)7月10日,宿泊先として滞在した芝離宮で撮影された。皇室による外国人貴賓の接待では,当初浜離宮延遼館が主に用いられたが,やがて老朽化のため取り壊されると,それに代わって用いられたのが芝離宮であった。
本写真を収める「外賓接待写真帳」には,接待の場となった芝離宮で撮影された外国人貴賓との集合写真が数多く収録されている。明治12年(1879)から大正15年(1926)までの全3冊で,写真自体は,明治14年(1881)以降外国人貴賓の接待事務を主管する宮内省の担当部局(式部寮・外事課・式部職等と変遷)で保有されてきた。昭和29年(1954)になって写真帳として仕立てられた。
(図書寮文庫)
彦根城(滋賀県彦根市)は,徳川家康の重臣井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の戦功として佐和山城(同市内,石田三成の旧居城)を拝領したのち,その息子直勝(なおかつ)が彦根山に移転して築城を開始し,その弟直孝(なおたか)の代に完成した城郭である。琵琶湖に臨んで水運に長じたほか,中山道にも近く,西日本への抑えとなったといわれている。大老など江戸幕府の重職を担った井伊家の居城として幕末まで続き,現在は現存の天守が国宝に指定されている。
掲出の写真は,城北東の大洞(同市内)から松原内湖(戦中・戦後の干拓により消滅した琵琶湖の入り江)をはさんで彦根城の本丸を望んだもの。中央に天守の上層階が見えるほか,右端に西の丸三重櫓,左端にやや下がって天秤櫓が見える。かつての彦根城の姿をとどめた貴重な写真といえるだろう。撮影年代は定かでないが,他の写真のキャプションに記された施設名などから明治30~40年代に編まれたアルバムと推定される。
(宮内公文書館)
本資料は,青山練兵場(現在の明治神宮外苑)内に生えていたヒトツバタゴ(俗称ナンヂャモンヂャ)の写真で,明治41年(1908)4月,東京帝国大学農科大学教授であった白井光太郎氏より明治天皇へ奉呈されたものである。江戸時代以来,同地に生えていたヒトツバタゴは,長くその名称がわからず,「ナンヂャモンヂャ」と呼ばれていた。
ヒトツバタゴの自生する一帯は,明治19年(1886)に青山練兵場とされるが,同木は保存され,さらに大正13年(1924)に天然記念物にも指定されている。しかし,昭和8年(1933)に老木ということもあり枯れてしまう。現在,聖徳記念絵画館の前に残されている木は,白井氏が接ぎ木した2代目であるという。また,写真の背景には,近衛兵や軍馬,建物なども写り込み,当時の青山練兵場の様子をよく伝えている。
明治天皇には,全国からこうした写真や報告書など多くの文書が奉呈されており,それらは「明治天皇御手許書類」として,宮内公文書館に所蔵されている。当館では,これら資料のデジタル化を進め,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムにて,順次公開している。併せて御参照いただきたい。
(図書寮文庫)
明治30年代の岡山市の市街地を写した写真。左に写る高層の建物は,現在の北区天神町にあった亜公園(あこうえん)の集成閣。後楽園に亜(つ)ぐ公園として名付けられた亜公園は,明治25年(1892)に開園したテーマパークで,集成閣を中心に娯楽施設や商店が並んで賑わったという。写真の奥(南)には,工場の煙突や煙りも写っている。
同じ写真帖には,後楽園や津山城(鶴山城)址などの県内の名所のほか,第六高等学校(明治33年開校)や県立女子師範学校(同35年開校)など教育機関の写真も収められている。そのうち江戸時代に設立した閑谷学校(しずたにがっこう:現在の岡山県備前市に所在)は「私立閑谷中学校」と題されており、その名称が使われていた明治36~37年頃にこのアルバム『岡山県名勝写真』が編まれたことがわかる。
明治・大正期には,地方の実情を伝えるものとしてこうしたアルバムが各地で数多く作られ,皇室に献上された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。