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(選択を解除)(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
(陵墓課)
本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料の弓弭(ゆはず)(写真左側,長さ6.6センチ)は弓の両端に付けて弦(つる)を掛ける部品,矢筈(やはず)は矢の後端に付けて弦に引っ掛けるための部品で,ともに銅の鋳造品である。弓筈の表面はほとんどサビで覆われているものの,金色のメッキもわずかに残る。矢筈についても弦を受ける部分にごく少量のメッキが残ることから,作られた当初は黄金色であったと考えられる。
(陵墓課)
本資料は,持ち手に環が作り出されたと考えられ,そこから「素環頭剣」と呼ばれている。現存長は80.7センチで,刃部の断面形状は菱形であり,明瞭ではないが鎬(しのぎ)をもつようである。全体にわたって朱(しゅ)などが点々と付着していることから,石棺内に副葬されていたものと推測される。
その重厚長大な造りがほかに例をみない鉄製の剣(両側に長い刃部をもつ手持ちの武器)であり,剣本体は中国などからの輸入品であった可能性がある。
副葬時には鞘(さや)や把(つか)などの木製装具(そうぐ)が装着されていたようであるが現状ではその痕跡をわずかに確認できる程度しか残存していない。これらの装具については,その構造的特徴から判断して日本列島製と推測される。
なお,藤井寺陵墓参考地からは,同様の素環頭剣が少なくとももう1点出土している。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。