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(選択を解除)(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税(ちから)など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記され,臨場感あふれる仕上がり。文政13年(1830)の写しで,100年以上前の討入りへの関心の高さを示す。