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本品は「鍬形石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。鍬形石の原形は,ゴホウラという奄美大島以南の海で採集される巻貝から作られた腕輪であると言われている。弥生時代の九州地方では,実際に身につけてその人の身分を示す装身具であったと考えられている。この貝製の腕輪が古墳時代には,材質が石へと変化し,実際に身につけるというよりは,所有することに意義を持つ宝物として副葬されるようになった。
本個体は,奈良県の巣山古墳から出土したと伝えられており,最大の特徴は中央部にある突起が左側にある点である。左側に突起がある例としては,奈良県島の山(しまのやま)古墳から出土した可能性がある一例に限られている。
鍬形石という名前は,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が命名したとされている。よって,古墳時代に何と呼ばれていたかは明らかでなく,その用途や作られた場所,さらには流通などについても謎の多い出土品である。
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玉は,古来,装飾品として世界中の人々に好まれてきた。日本においても例外ではなく,「美しい石」と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは,翡翠(ひすい)であろう。翡翠の透明感のある緑色は,時代を問わず人々を魅了している。写真の勾玉は,その翡翠(=硬玉)で作られたものである。
勾玉は縄文時代から作られ始め,弥生時代,古墳時代の多種多様な玉の中でも確固たる位置を占め続けた。本例は,写真では大きく見えるが,実際の長さはわずか8㎜足らずと非常に小さいものである。しかし,形を「C」字状に整え,孔をあけ,表面を磨くなど,小さいながらも丁寧に作られており,これが大きな特徴と言える。このような勾玉は,日本列島の中では,弥生時代の北部九州で盛んに作られており,一部は古墳時代にも継続して作られている。本例の出土地は山口県の西部に位置しており,地理的に隣接していることから,弥生時代か古墳時代のいずれかに九州から持ち込まれたものである可能性が考えられる。
なお,書陵部では「前田古墳」出土品として保管しているが,正確な出土場所はわからなくなっており,実はその場所が古墳であったかどうかも不明である。
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本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
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帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
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本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
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この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。
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この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
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本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
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本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
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本資料は,水晶(すいしょう)で作られた切子玉(きりこだま)である(写真左上の長さ1.5㎝)。切子玉とは,中位が最も太く上下に向けて細くなっていく形で,上下の斜面が多面体に加工された玉のことである。糸を通し,切子玉のみか,あるいは管玉などの他の種類の玉を交えて連ね,装飾品として身にまとっていたものと考えられる。
水晶は透明であるため,玉にあけられた孔の形を横から観察することができる(写真で,各玉の真ん中で白く濁っている部分)。本資料では,いずれの個体の孔も,写真上側から下側に向かって細くなっている。このような孔の形は,孔の太い側に穿孔具(せんこうぐ)の鉄製の錐(きり)や針を当てて回転させ,細い側に向かって,片側から孔をあけたことを示している。
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勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
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本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
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この資料は,鍬形石と呼ばれている腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)の一種である。上部に台形を呈する傘のようなものが削り出され,真ん中に卵形をした孔(あな)が開いている。その孔の右側,あるいは左側には四角形をした出っ張りがあり,下には長方形の板状のものが取り付いている。
この名称は江戸時代の弄石家(ろうせきか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が,この奇妙な形をした石を鍬形石と呼んだことが由来となっている。彼が兜の正面に取り付けられた鍬形をイメージしたものか,あるいは農具の鍬からとった名称なのかについては不明である。
現在ではこの鍬形石の原形は,ゴホウラという沖縄周辺の南海で捕れる大形巻き貝を縦に輪切りにして製作された腕輪の形であると考えられている。弥生時代においては,この貝製腕輪を,男性の腕を飾る装身具として使用されてきた。そしてそのような風習は北部九州を中心とした地域で,一つの社会規範となっていた。この弥生時代北部九州の規範を,古墳時代へどのように引き継がれたのか,あるいは貝から石への材質転換はどのようにしてなされたのかについては,まだ十分な回答は得られていない。
古墳時代においては,実際に腕に装着する装身具ではなく,持っていることが価値のあること,すなわち宝器のように取り扱われていたと考えられている。
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宮穴横穴墓群(熊本県熊本市)から明治期に出土した玉類である。
上段は勾玉で,1列目左から硬玉(翡翠(ひすい))製3点,滑石(かっせき)製1点,硬玉(翡翠)製1点,2列目は瑪瑙(めのう)製6点である。下段左側はガラス製の玉で,丸玉が7点に,左下が連珠玉1点である。下段右側は,左からガラス製棗玉1点,碧玉(へきぎょく)製管玉1点,碧玉製平玉2点,瑪瑙製丸玉1点である。
連珠玉は複数の丸玉を連ねた形状のものを,棗玉は樽のように胴が膨らんだ形状のものを,平玉は扁平(へんぺい)な形状のものを,それぞれそう呼び習わしている。
古墳時代後期の玉は,形や材質の種類が増えることが知られており,本資料の多様な玉からもそうした状況を窺うことができる。
横穴墓とは,斜面や崖面に横方向の穴を掘って埋葬施設とする墓制で,古墳時代後期以降に見られる。単独で造られることはなく,狭い範囲に多数が集中して造られることが特徴である。
(陵墓課)
古墳時代前期の日本列島内で鋳造(ちゅうぞう)された青銅鏡(せいどうきょう)である。鏡背面(きょうはいめん)にみられる文様は,同じ佐味田宝塚古墳から出土している中国製の神人車馬画像鏡(東京国立博物館蔵)を手本にしながら模倣したものと考えられる。
原鏡(げんきょう)とその模倣鏡(もほうきょう)が同一古墳に副葬(ふくそう)されていたことになるため,国内における鏡の生産と授受の過程を考えるうえで非常に重要な資料といえる。同様に神人車馬画像鏡を模倣したと考えられる類似鏡は岡山県正崎2号墳などでも確認されている。
佐味田宝塚古墳は墳長約111mの前方後円墳で,明治14(1881)年に家屋文鏡(かおくもんきょう)(当部所蔵)など多数の鏡を含む副葬品が出土したことで著名な古墳である。