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この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この資料は,鍬形石と呼ばれている腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)の一種である。上部に台形を呈する傘のようなものが削り出され,真ん中に卵形をした孔(あな)が開いている。その孔の右側,あるいは左側には四角形をした出っ張りがあり,下には長方形の板状のものが取り付いている。
この名称は江戸時代の弄石家(ろうせきか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が,この奇妙な形をした石を鍬形石と呼んだことが由来となっている。彼が兜の正面に取り付けられた鍬形をイメージしたものか,あるいは農具の鍬からとった名称なのかについては不明である。
現在ではこの鍬形石の原形は,ゴホウラという沖縄周辺の南海で捕れる大形巻き貝を縦に輪切りにして製作された腕輪の形であると考えられている。弥生時代においては,この貝製腕輪を,男性の腕を飾る装身具として使用されてきた。そしてそのような風習は北部九州を中心とした地域で,一つの社会規範となっていた。この弥生時代北部九州の規範を,古墳時代へどのように引き継がれたのか,あるいは貝から石への材質転換はどのようにしてなされたのかについては,まだ十分な回答は得られていない。
古墳時代においては,実際に腕に装着する装身具ではなく,持っていることが価値のあること,すなわち宝器のように取り扱われていたと考えられている。
(陵墓課)
奈良県桜井市に所在する倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した壺形埴輪である。
平成10年の台風7号は近畿地方を縦断して大きな被害を与えたが,大市墓においても墳丘上の樹木が多数倒れる被害が出た。本品は,その倒木の根起きによって出土したものである。
外見からは,通常の土器である「土師器(はじき)」の壺と区別することが難しいが,実は,焼き上げる前から底に孔があけられている。「貯める」という,壺の基本的な機能が否定されていることから,最初から「埴輪」として作られたことがわかる。
大市墓では昭和40年代にも壺形埴輪が出土しており,それと考え合わせると,前方部頂上の平坦面に,多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
古墳時代前期の日本列島内で鋳造(ちゅうぞう)された青銅鏡(せいどうきょう)である。鏡背面(きょうはいめん)にみられる文様は,同じ佐味田宝塚古墳から出土している中国製の神人車馬画像鏡(東京国立博物館蔵)を手本にしながら模倣したものと考えられる。
原鏡(げんきょう)とその模倣鏡(もほうきょう)が同一古墳に副葬(ふくそう)されていたことになるため,国内における鏡の生産と授受の過程を考えるうえで非常に重要な資料といえる。同様に神人車馬画像鏡を模倣したと考えられる類似鏡は岡山県正崎2号墳などでも確認されている。
佐味田宝塚古墳は墳長約111mの前方後円墳で,明治14(1881)年に家屋文鏡(かおくもんきょう)(当部所蔵)など多数の鏡を含む副葬品が出土したことで著名な古墳である。