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(選択を解除)(宮内公文書館)
文久元年(1861)4月,和宮は14代将軍徳川家茂との婚儀が整うと内親王宣下(せんげ)を受け,兄である孝明天皇から「親子(ちかこ)」の名前を賜った。10月20日に京都を出発し中山道を進み,11月15日に江戸に到着,御三卿(ごさんきょう)の1つ清水家屋敷に入る。図はその行列と供奉(ぐぶ)した公卿や役人を描いている。史料の表題には,絲毛御車とあり,牛車で江戸まで下ったことがわかる。絲毛御車とは,牛車の車箱(しゃばこ)を色染めのより糸でおおって飾ったもの。おもに内親王,更衣(こうい)以上が乗用した。
(宮内公文書館)
明治維新後,和宮は明治2年(1869)2月に上洛し京都に住んだが,明治7年に再び東京へ上り,同10年に薨去(こうきょ)するまで麻布市兵衛町の旧南部家の屋敷を住まいとした。史料は明治8年1月28日に宮中で催された月次(つきなみ)歌会で詠進(えいしん)した短冊を綴じたもの。「水辺若菜(みづのほとりのわかな)」を題目に詠んだもので,右端が和宮の歌。「沢水にそでハぬるともきみがためちよをわかなにつミてさゝげむ」とあり,明治天皇の治世が幾久しく続くように,と詠まれている。後述のように,同月31日には明治天皇,昭憲皇太后の行幸啓を受けており,皇室と和宮の交流の一端をうかがえる。なお,和宮の隣の短冊は有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)のものである。和宮と熾仁親王は,嘉永4年(1851)に婚約し許嫁のなかであったが,和宮が家茂に嫁ぐことが決まり,婚約が破棄されたという経緯がある。
(宮内公文書館)
明治8年(1875)1月31日に和宮邸へ行幸啓した際の関係書類。和宮は明治7年に東京へ戻ると麻布市兵衛町に居を構えた。正午に宮邸に到着された明治天皇は,先に到着されていた昭憲皇太后と合流し,昼食,酒肴(しゅこう)を取られた。橋本実麗(さねあきら)らの陪席もあり,午後5時に皇后と共に還幸された。また明治9年5月にも和宮邸へ行幸啓があった。その際には式部頭の坊城俊政(ぼうじょうとしただ)らが演じる能楽が催された。能楽は午後9時まで続き,その後は酒が供され,宮内卿徳大寺実則(さねつね)らの陪席もあり,午後11時30分に還幸された。また,各行幸啓の数日後には英照皇太后の行啓もあり,和宮と皇室の交流がうかがえる。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
平安時代末期に相撲節会(すまいのせちえ)が途絶えた後,武士の世においては,相撲は武術として奨励され,また興行相撲など娯楽としても流行した。本書は江戸時代の寛政3年(1791)6月11日に,江戸城内の吹上で行われた第11代将軍徳川家斉臨席による初めての上覧相撲の様子を書きとめたもの。本書は,陪観(身分の高い人に付き従い見物すること)を許された幕府の旗本であった成島峯雄が書いた記録で,この時の出場力士には小野川・谷風の両横綱や最強と讃えられた雷電の名も見える。
本書は,寛政6年,松岡辰方が人に依頼し書写させたもの。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税(ちから)など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記され,臨場感あふれる仕上がり。文政13年(1830)の写しで,100年以上前の討入りへの関心の高さを示す。