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本資料は,明治2年(1869)8月26日に北沢正誠(まさなり)(乾堂(けんどう))が,木戸孝允に提出した建言書。北沢は,松代(まつしろ)藩の出身で佐久間象山に学び,廃藩後太政官に出仕した。本建言書では,同年7月に実施された版籍奉還後の国家のあり方について藩の体制,人材登用などの面で「旧習」を「御一新」するための構想が長文にわたって論じられている。本資料からは,地方の藩の一藩士が抱いていた国家構想がわかる。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(図書寮文庫)
江戸時代の宮廷行事を記録するために,岩倉具視の命により中山忠能(なかやまただやす)らが編纂した儀式書並びに折帖の附図よりなる。明治20年(1887)完成。恒例・臨時あわせて169の行事を記録し,39の行事を絵画化した。図は北小路随光(きたこうじよりみつ)・樋口守保(ひぐちもりやす)らの手になる。画像は豊明節会(とよのあかりのせちえ,新嘗祭に付随する行事)の五節舞姫(ごせちのまいひめ)の様子。
(図書寮文庫)
「群馬県関係写真」は,明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸の際,群馬県を訪れた明治天皇に県内の様子を知っていただこうとして撮影されたものである。写真には官庁や学校などの建築,養蚕業を中心とした各種産業,文化や自然の風景などが収められている。当時の県令(現在の知事)は楫取素彦(かとりもとひこ)で,群馬県の発展の基礎を作った人物として知られている。楫取は長州藩の出身で,吉田松陰の信頼が厚いことでも知られ,その妹である久子(ひさこ)(寿(ひさ):次女)を娶り,久子が没した後には同じく妹の美和子(旧名 文(ふみ):四女)と再婚した。
(図書寮文庫)
明治20年(1887)頃の写真で,那覇を中心とした沖縄の風景や人物が撮影されている。沖縄を写した写真としてはかなり古く,明治12年の琉球処分からそれほどの歳月を経ていないだけに,琉球国時代の雰囲気が色濃く残るものとなっている。
(宮内公文書館)
松ヶ岡開墾場は明治5年(1872)から旧庄内藩士族3千名によって開拓された。明治14年の明治天皇東北巡幸時,同所に差遣された北白川宮能久親王(よしひさしんのう)が写真を持ち帰り天皇にお渡しした。蚕室の構造は,富岡製糸場で有名な群馬地方から導入した上州式(二階建ての上に換気用屋根がある)である。また,開墾場では多くの女性が働いていたことも写し出されている。開墾当初は農作物の収獲は見込めないことから,女性たちの養蚕による収入はまさに生命線だったのである。なお明治41年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)が同所に行啓された際,当時と同じ写真が再び献上された。今回のギャラリーではこの時の写真を使用している。
(図書寮文庫)
「琵琶湖疏水工事之図」は,明治20年(1887)に明治天皇が京都府庁に行幸された際,府知事北垣国道(きたがきくにみち)より献上された絵図である。京都府画学校教諭で洋画家の田村宗立(そうりゅう)の指導のもと,学校の優等生徒10名が分担して写景に当たったもので,全3巻,計40図からなる。第一巻・第二巻には工事現場の見取り図が,第三巻には工事竣成後の予想図が収められている。工事における困難や,疏水完成後の姿が期待を込めて美しい彩色によって描かれている。掲載した図は,第一トンネル入口付近の京都側の工事場面を描いたものである。
(図書寮文庫)
明治43年(1910)11月14日,岡山県の岡山孤児院に派遣された侍従が持ち帰った写真帖である。同院は明治37年以降,明治天皇・皇后(昭憲皇太后)から下賜金を賜わるなど,皇室からも注目される慈善活動を展開していた。写真帖には子供達の食事の様子や授業風景の他,著名な会社の寄付で建造された建物(ライオン館),ロシア人や朝鮮人孤児の写真も含まれており,広範な慈善活動の一端が垣間見える。
(宮内公文書館)
日本のスキー発祥の地は新潟県上越市とされている。これは明治44年(1911)1月に,同地でオーストリア国陸軍のレルヒ少佐が日本兵にスキー技術を指導したことに由来する。レルヒ少佐によるスキー指導を記録した写真は,この状況を視察するために派遣された侍従武官が持ち帰ったものと思われる。「雪艇(スキー)」という単語や,ストックが1本だったことなど,新技術として導入されて間もない時期ならではの情報が含まれる。ちなみに上越市のゆるキャラ「レルヒさん」も,先のソチ五輪ノルディックジャンプ男子団体銅メダルメンバー清水礼留飛(れるひ)選手の名前も,レルヒ少佐に由来している。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。
(図書寮文庫)
富士山を各地から撮影した写真。もともとは大正天皇の御手許写真であったものが昭和12年(1937)に書陵部に引き継がれた。画像はさったトンネル(現在の静岡市清水区)から富士山を写したものである。写真に写っている鉄道の線路が単線であることが窺えるため,線路が開通した明治22年(1889)から複線となる明治31年7月までの間の写真であると推測される。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治10年(1877)から同13年までのイギリス留学中に収集したロンドンの写真。画像はシティの証券取引所で,現在は高級ショッピングモールになっている。