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明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
虫を題材とした55篇の漢詩1冊と,絵1冊の2冊から成り,一名『蠕蠕集』(ぜんぜんしゅう,蠕はうごめくの意)ともいう。明治39年(1906)に出版されたものである。
著者山本復一(またかず,1840-1912)は京都の人で,本草学者山本亡羊(ぼうよう)の孫。岩倉具視の秘書となり,明治維新後は太政官に出仕。修史局御用掛,維新史料編纂会委員などを歴任した。
絵はすべて,復一の叔父山本渓愚(けいぐ,章夫)が描いたものの模写である。渓愚もまた亡羊の影響を受けて博物学を修め,写生に優れた才能を発揮した。その作品の数々は,絵画を志す人々のために広く有益であろうと,巻末の識語にある。
(宮内公文書館)
横浜の人々による憲法発布を祝う祝詞。明治22年(1889)2月11日の憲法発布式典に合わせて,横浜では本町(ほんちょう)町会所で発布を祝う式典が催された。資料は高島嘉右衛門(かえもん)ら6人が,宮内省へ送った憲法発布と明治天皇の偉業を讃える祝詞である。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)の憲法発布式に際しては,居留外国人で構成される横浜商法会議所(会頭ジョン・トーマス)から祝文が送られた。憲法を発布した明治天皇の偉業を讃えるとともに,諸外国も天皇を信用するものであると記している。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)10月の観艦式における艦艇の配置図。この観艦式は,日露戦争終結直後に横浜沖で開催された。大きく六つの艦列が朱で記されており,165隻の艦艇が参加していることがわかる。明治天皇は巡洋艦「浅間」に乗艦され観艦式に臨まれた。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治7年(1874),横浜灯台寮への行幸啓関係書類。洋式灯台を天覧した翌日には,横浜の実業家高島嘉右衛門(かえもん)が創業した横浜瓦斯(がす)会社にも行幸啓があった。洋式灯台や瓦斯灯は横浜の文明開化を象徴するものであった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899),日本競馬会社から根岸競馬場への行幸を出願した書類。日本競馬会社社長アーネスト・サトウが英文で提出した。天覧競馬は計13回行われたが,不平等条約が改正された同年をもって,内外の社交場であった競馬場への行幸は最後となった。
(宮内公文書館)
明治43年(1910)・44年に行われた日本競馬会の入場チケットと番組表。根岸競馬場は慶応2年(1866)から昭和17年(1942)まで,近代競馬の中心的役割を果たした。明治天皇の行幸や優勝賞品の下賜(かし)など,皇室として競馬文化を積極的に奨励した。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。
(宮内公文書館)
本資料は,三条実美の事蹟編集の過程で収集された資料の一つ。当時開拓次官であった黒田了介(清隆)が,明治天皇に言上したのち,改めて文書にして明治3年(1870)12月29日に右大臣岩倉具視(ともみ)へ提出した意見書。戊辰戦争で新政府軍に抗戦し,箱館五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚(たけあき)の処分などについて述べられている。箱館で新政府軍を指揮していた黒田は,敵将であった榎本の才覚を高く評価し,罪を赦してその能力を新しい時代に活かそうとしたとされる。
(宮内公文書館)
本資料には,明治4年(1871)9月に薩摩藩出身の伊地知正治(いじちまさはる)の名前で提出された建言書2通が綴じられている。一部に修正した痕跡があり,「本書は西郷隆盛自筆也」とあることから西郷隆盛が代筆した草案であると考えられる。祭政一致や勧農,租税などについての意見が記されている。