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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治27年(1894)3月9日,明治天皇と昭憲皇太后の御結婚満25年を祝う式典が挙行された。天皇・皇后は鳳凰(ほうおう)の間に出御(しゅつぎょ)し,有栖川宮熾仁親王をはじめとした皇族方や,内閣総理大臣伊藤博文ら200余名の拝賀を受けた。その後,在日外交官を通じて外国元首からの祝賀を受けられ,青山練兵場にて観兵式(かんぺいしき)に臨まれた。還御(かんぎょ)後,豊明殿(ほうめいでん)にて祝宴が催され,さらに正殿にて舞楽を御覧になっている。
絵画は舞楽のうち,太平楽を御覧になっている場面で,記録に基づいて祝典当日の模様を再現描写したものである。正面中央の台座に着席された天皇の右側には皇族男子,及び宮内大臣をはじめとする高官・外国使臣とその夫人が,一方,皇后の左側には皇族女子が陪席している。舞楽の陪覧者は男子1072人,女子136人に上った。
(図書寮文庫)
立雛図は明治期に活躍した日本画家川端玉章(1842-1913)画。有栖川宮熾仁親王が御讃(その図画にちなむ詩や文のこと)を添えられている。玉章の印は「源玉章印」「子文」。この形の印章が用いられたのは玉章40歳代の頃と推測されることから,明治20年代前半の作と思われる。御讃は雛図に寄せた和歌で,「花の名の ももとせかけていもとせの かみこそあつき ちきりなりけれ」。有栖川宮家旧蔵。
(図書寮文庫)
本図に描かれた有栖川宮熾仁親王(1835-95)は,幕末から明治にかけての皇族の一人で政治家・軍人でもあった。明治天皇の信頼も篤く,戊辰戦争において東征大総督をつとめ,以降,兵部卿,福岡藩知事,元老院議長,逆徒征討総督,陸軍大将を歴任し,博愛社(後の日本赤十字社)発足にも深く関わった。和宮親子内親王との婚約解消(和宮は徳川家茂に降嫁)の一件や「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節)の「宮さん」として人々に知られている。
肖像画の作者威仁親王(1862-1913)は熾仁親王の弟にあたり,皇子女に恵まれなかった熾仁親王の後継者となった。明治12年(1879)にイギリス海軍「アイアン・デューク」に乗組み,約1年間艦上作業に従事,その後英国に留学。元帥海軍大将で生涯を終えられた。
熾仁親王は明治28年1月15日薨去,その前後に菊花章頸飾・功二級金鵄勲章を授与されているが,この肖像画はそれらを帯びた姿であるので,薨去後,追善のために威仁親王が筆をとったものと考えられる。有栖川宮旧蔵。
(宮内公文書館)
明治8年(1875)1月31日に和宮邸へ行幸啓した際の関係書類。和宮は明治7年に東京へ戻ると麻布市兵衛町に居を構えた。正午に宮邸に到着された明治天皇は,先に到着されていた昭憲皇太后と合流し,昼食,酒肴(しゅこう)を取られた。橋本実麗(さねあきら)らの陪席もあり,午後5時に皇后と共に還幸された。また明治9年5月にも和宮邸へ行幸啓があった。その際には式部頭の坊城俊政(ぼうじょうとしただ)らが演じる能楽が催された。能楽は午後9時まで続き,その後は酒が供され,宮内卿徳大寺実則(さねつね)らの陪席もあり,午後11時30分に還幸された。また,各行幸啓の数日後には英照皇太后の行啓もあり,和宮と皇室の交流がうかがえる。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
虫を題材とした55篇の漢詩1冊と,絵1冊の2冊から成り,一名『蠕蠕集』(ぜんぜんしゅう,蠕はうごめくの意)ともいう。明治39年(1906)に出版されたものである。
著者山本復一(またかず,1840-1912)は京都の人で,本草学者山本亡羊(ぼうよう)の孫。岩倉具視の秘書となり,明治維新後は太政官に出仕。修史局御用掛,維新史料編纂会委員などを歴任した。
絵はすべて,復一の叔父山本渓愚(けいぐ,章夫)が描いたものの模写である。渓愚もまた亡羊の影響を受けて博物学を修め,写生に優れた才能を発揮した。その作品の数々は,絵画を志す人々のために広く有益であろうと,巻末の識語にある。
(宮内公文書館)
横浜の人々による憲法発布を祝う祝詞。明治22年(1889)2月11日の憲法発布式典に合わせて,横浜では本町(ほんちょう)町会所で発布を祝う式典が催された。資料は高島嘉右衛門(かえもん)ら6人が,宮内省へ送った憲法発布と明治天皇の偉業を讃える祝詞である。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)の憲法発布式に際しては,居留外国人で構成される横浜商法会議所(会頭ジョン・トーマス)から祝文が送られた。憲法を発布した明治天皇の偉業を讃えるとともに,諸外国も天皇を信用するものであると記している。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)9月28日の暴風雨による横浜港被害写真。横浜市真砂町(まさごちょう)に写真館を構えた鈴木真一による撮影。資料は4枚の写真で構成され,写真は「横浜港北水堤之部甲」と題されたもの。横浜港灯台までの堤防が崩壊するなど,甚大な被害の様子がわかる。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)10月の観艦式における艦艇の配置図。この観艦式は,日露戦争終結直後に横浜沖で開催された。大きく六つの艦列が朱で記されており,165隻の艦艇が参加していることがわかる。明治天皇は巡洋艦「浅間」に乗艦され観艦式に臨まれた。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治7年(1874),横浜灯台寮への行幸啓関係書類。洋式灯台を天覧した翌日には,横浜の実業家高島嘉右衛門(かえもん)が創業した横浜瓦斯(がす)会社にも行幸啓があった。洋式灯台や瓦斯灯は横浜の文明開化を象徴するものであった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899),日本競馬会社から根岸競馬場への行幸を出願した書類。日本競馬会社社長アーネスト・サトウが英文で提出した。天覧競馬は計13回行われたが,不平等条約が改正された同年をもって,内外の社交場であった競馬場への行幸は最後となった。
(宮内公文書館)
明治43年(1910)・44年に行われた日本競馬会の入場チケットと番組表。根岸競馬場は慶応2年(1866)から昭和17年(1942)まで,近代競馬の中心的役割を果たした。明治天皇の行幸や優勝賞品の下賜(かし)など,皇室として競馬文化を積極的に奨励した。