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桂宮初代智仁親王(としひと,1579-1629)が慶長13年(1608)・17年,元和5年(1619)・7年,寛永元年(1624)・2年・5年に旅先などで詠じた和歌や発句,狂歌を書き付けた資料。
掲出画像は,親王による江戸下向の際の富士山詠。親王は生涯で二度,元和3年と寛永2年に当時の将軍であった徳川秀忠・家光へ挨拶のため江戸へ下向している。これは二度目の時の詠である。なお,この下向を親王自身が記録した『江戸道中日記』(桂・42)が残っている。これによれば寛永2年3月20日条にこの富士山詠が記されている。「ふしにて から人の歌に有ともミせはやなまことのふしの山のすかたを」「発句 ふしのねもきぬもてつゝむ霞哉」。和歌では富士山の雄大な姿は実見しなければ実感できないであろうとし,発句では春霞がかかった優美な富士山をまるで衣で包んだようだとして面白く詠じている。なお,この二首を含む下向の際に詠じた一連の句を「将軍家」へ見せたことが『江戸道すがらの歌』(457・177)の奥書によって知れる。
ふだん遠出をすることのない親王が,道中の景勝地で和歌を詠じ,時には興に乗って狂歌を詠んだことなどから,二週間程度に及ぶ江戸への長旅を楽しんだことが本資料からはうかがえる。
(図書寮文庫)
固関(こげん)とは,古代において天皇の崩御や譲位などの重大事に際し,畿内に通じる主要道に設けられた三関,すなわち伊勢国鈴鹿関(すずかのせき),美濃国不破関(ふわのせき),越前国愛発関(あらちのせき,平安遷都後ほどなくして近江国逢坂関(おうさかのせき)にかわる)を封鎖する儀である。この儀では木契(もっけい)と呼ばれる割符を使用し,片方を関に赴く使者に携行させ,後日封鎖を解除する際に別の使者にもう片方を持参させ,現地で合わせて正式な使者であることを確認させた。
本資料は宝永6年(1709)東山天皇から中御門天皇への譲位儀に際して行われた固関儀で用いられたと推定される木契の実物で,その寸法は長さ約9.2㎝,両片を合わせた底面は約3㎝四方である。江戸時代には既に三関は廃絶していたが,固関儀は古式にのっとり引き続き行われていた。本資料は上卿を務めた九条輔実(すけざね,1669-1729)の手元に残され伝わったと考えられ,伊勢国あての左右と美濃国・近江国あての右片が現存する。当時の宮中儀礼の実像を知ることのできる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
詔書とは,国家の重要な案件について,天皇の意志を伝えるために作成される文書である。掲出の資料は,安政3年(1856)8月8日,九条尚忠(ひさただ,1798-1871)を関白に任じる際に作られた詔書の原本である。
内容は,尚忠を関白に任じる旨の命令を,修辞を凝らした漢文体で記したものである。文章の起草・清書は大内記(だいないき,天皇意志に関わる文書の作成を職掌とする)東坊城夏長(なつなが)が担当し,料紙には黄紙(おうし)と呼ばれる鮮やかな黄蘗(きはだ)色の紙が用いられた。また,文書末尾の年月日部分のうち,日付の「八」のみ書きぶりが他と異なるが,これは自らの決裁を示す孝明天皇(1831-66)の宸筆であり,この記入を御画日(ごかくじつ)という。
尚忠は関白就任後,幕末の困難な政治情勢下において,江戸幕府と朝廷の間の折衝役として尽力した。しかし,日米修好通商条約の締結などをめぐって孝明天皇や廷臣の支持を得られず,最終的には文久2年(1862)に関白を辞任した。
なお,この時の関白任命にあたっては,いくつかの関連文書も共に作成されたが,図書寮文庫にはそれらの原本も所蔵されている(本資料のもう一点「随身兵仗勅書」および函架番号九・1638「九条尚忠関白・氏長者・随身牛車宣旨」)。
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本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。
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本資料は,貞享4年(1687)に行われた,東山天皇(1675-1709)の大嘗祭に関連する儀式で実際に使用された文書である。室町時代後期より中絶していた大嘗祭は,東山天皇の代に至り,約220年ぶりに再興された。
掲出の画像は,例文(れいぶみ)と呼ばれる文書である。左の2巻は,大嘗祭の実務を取り仕切る役職である,検校(けんぎょう)と行事(ぎょうじ)を任命する儀式で用いられた。右の1巻は,神宮・石清水・賀茂の三社へ大嘗祭の挙行を告げる,三社奉幣使(さんしゃほうべいし)と呼ばれる使者を任命する儀式で用いられた。
例文とは,かつてその役職に任命された人物が記された文書のことで,元々は人物選定の参考として儀式で使われていた。その機能はこの頃すでに形骸化していたが,儀式の再興にあたり,古式に則り例文が作成されたのである。例文には直前の例を記すのが一般的だが,この時は直前となる文正元年(1466)の大嘗祭ではなく,吉例であるとの理由により,更にその前,永享2年(1430)に行われた大嘗祭の例が記された。
題籤軸(だいせんじく)を伴う装丁など,儀式で用いる文書の特殊な形態を知り得る,貴重な資料である。
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御挿頭(おかざし,「御挿華」「御挿頭花」とも)とは,大嘗祭後の饗宴の際天皇に献上される花(冠に挿す造花)のことで,それを載せる飾り台を洲浜(すはま)という。
御挿頭と洲浜は,それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つが作られ,花の選定や洲浜のデザインには天皇の長寿延命を祈念する意味が込められることが多い。
掲出画像は文政元年(1818)の仁孝天皇(にんこう)の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案。梨の花が描かれ,造花にする際の各部位の材質も判明する。「御治定」(ごちてい)の裏書きはこの案が採用されたことを示しており,御物(ぎょぶつ)として現存する御挿頭の実物と形状・色彩が一致している。
「御挿頭花洲浜伺絵形」は全10紙からなり,第1紙から第4紙までが文政度大嘗祭の御挿頭と洲浜の決定図で,第5紙から第10紙までは嘉永元年(1848)の孝明天皇の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案である。特に第5紙以降は決定案である第6紙の梧桐(あおぎり)のみならず,不採用案(第5紙の芝草(しそう)・第7紙の大椿(だいちん)・第8紙から第10紙の芝草)も判明する。
御挿頭の花と材質が検討された経緯が視覚的にわかる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
「あづま路の道の果てよりも」の冒頭文が有名な菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ,1008-?)の日記。
「日記」と呼び慣わされているが,平安時代の女性の「日記」は現代でいう回想記に当たる(女性に仮託した紀貫之の土左日記も含む)。『更級日記』も夫である橘俊通(1002-58)の死を契機に我が身を振り返り,13歳で父の任地であった上総国を離れることになってからの約40年間を記した。『源氏物語』に憧れる少女の頃の文章は教科書などにもよく引用される。
『更級日記』は藤原定家(1162-1241)筆本が現存し(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵),この図書寮文庫蔵本はそれの精密な模写本である。図書寮文庫本には「寛文二臘六日一校了」と後西天皇の書き入れがあるが,後水尾天皇ご所蔵の定家筆本の写しを後西天皇が求められたとわかる。
なお定家筆本は錯簡(綴じ間違い)があり,明治時代以前の写本・版本はみなこの錯簡の影響を受けていることが知られているが,図書寮文庫本によって錯簡の時期が寛文2年(1662)以前とわかる。
(図書寮文庫)
家仁親王(やかひと,1703-67,桂宮第8代)が古歌を書き,京都の絵師狩野正栄(かのうしょうえい,近信,生没年未詳)がそれに合った絵を描いた帖。桂宮旧蔵本。家仁親王は和歌にも入木道(じゅぼくどう,書道)にも力を注いだ。当文庫には家仁親王が詩歌を書き正栄に絵を描かせたものがこのほかにもある(『四季月帖』〈F4・155〉など)。
なお,この帖に描かれる月は満月と下弦の月である。満月は7首目「鐘の音もきこえぬたびのやま路にはあけゆく空をつきにしるかな」(画像)のように月の入りは朝,下弦の月は夜に月が出て朝に南中となるので5首目「やすらはでねなまし物をさよふけてかたぶくまでの月をみしかな」のように描かれる。昼に見える上弦の月が歌(和歌・短歌)に詠まれるのは明治以降になる。
(図書寮文庫)
悠紀主基屏風は,大嘗会に際して卜定(ぼくじょう,占いによって決定される意)された悠紀・主基両国郡の名所風俗を絵に描き,悠紀・主基それぞれ六曲一双(6面で一隻の屏風2隻を一組としたもの)として制作されるもので,大嘗会毎に新調されるのを例とした。また,両国郡に因んだ和歌が詠進され,色紙形(しきしがた)とよばれる料紙に万葉仮名で書かれて屏風に貼られた。完成した屏風は,大嘗会後の節会で披露された。
大嘗会は応仁の乱(1467-77)以降行われなくなり,江戸時代前期の第113代東山天皇御即位の時(貞享4年,1687)に再興されたが,大嘗会の和歌詠進は,第115代桜町天皇の元文3年(1738)の大嘗会にようやく復活した。
掲出の図書は,その時の詠進者2名―悠紀国(滋賀県):烏丸光栄(からすまる みつひで),主基国(京都府):日野資時(ひのすけとき)―がそれぞれ18首ずつの和歌を自筆で記した懐紙原本である。詠進者の烏丸光栄・日野資時は共に日野一流で,当時著名な歌人として知られた公家であった。
文中にみえる六帖とは,1年12ヶ月を2ヶ月分で1回,月次和歌(つきなみわか)3首として詠進するため,その回数を6回(12ヶ月÷2ヶ月)と考えることによるもの。和歌は,悠紀・主基各18首(3首×6回)となる。もと外記局に伝来。
明治時代以降は歌数に変化があったが(明治各2首,大正以降各4首),令和度においても悠紀主基屏風は,名所が描かれた屏風一隻ごと(合計4隻)にそれぞれ和歌2首(合計8首)の色紙形が貼られ,大嘗宮の儀のあとに催された大饗の儀で披露された。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(図書寮文庫)
八条宮智仁親王(としひとしんのう,1579-1629)が長岡藤孝(細川幽斎,1534-1610)から相伝された『古今伝受資料』のうちの1点。包紙に智仁親王御筆で「幽斎より相伝之墨」とある。
墨には「〈祁邑葉璲精造〉金壺清」「〈東岩主人督製〉金壺清」との銘があるが,「祁邑(きゆう)」は中国山西省の祁県(きけん)の古称で,「葉璲(しょう・すい)」「東岩主人(とうがんしゅじん)」は職人の名・号と考えられる。
附属の幽斎自筆の書付によれば,九州平定のため羽柴秀吉に従って長門国(山口県)まで下向した幽斎が,宿泊した同地の妙栄寺の住職から,大内義隆の旧蔵品の「からすミ(唐墨)」として贈られたものという。幽斎の『九州道の記』には,天正15年(1587)5月11日,妙栄寺に到る前に義隆終焉の地である大寧寺に立ち寄ったことが記されており,贈られたことはそれと関係があるかもしれない。
大内義隆は日明貿易に積極的に関与し,天文年間に2度貿易船を明に派遣している。当時遣明使節の幹部だった禅僧策彦周良(さくげん・しゅうりょう)の記録『初渡集』『再渡集』に,中国で墨を購入したり,中国人から贈られたりしたことが確認されるので,そのようにして入手したうちの1点である可能性はあろう。いずれにせよ,明代に我が国へもたらされた墨は残存例が少ないので,極めて貴重である。
(図書寮文庫)
本書は,奈良期に舎人親王等によって編纂された『日本書紀』神代巻を,慶長4年(1599),第107代後陽成天皇(1571-1617,御在位1586-1611)の命によって木製の活字によって印刷したものである。印刷された時期や天皇の命によるものであるところから,慶長勅版と称される。天皇は,朝鮮半島よりもたらされた銅活字の印刷技術を参考とし,木製活字を作らせこの事業を行ったという。『日本書紀』のほかにも『大学』『職原抄』など15種類の図書を刊行した。それらは100部程度印刷され廷臣に下賜された。本書は蔵書印から,公家の野宮家に伝来したものであったことがわかる。以降,江戸初期には,活字による印刷が盛んに行われるが,その端緒がこの勅版の刊行によるものとされる。江戸初期に活字で印刷された図書を,特に古活字版と称す。
(図書寮文庫)
本書は,西洋の『イソップ物語』の邦訳を,江戸初期の寛永頃(1624-44)に木製活字によって印刷・刊行されたものである。戦国期に来日したキリスト教の宣教師は,布教のため日本語習得に努めたが,その材料として『平家物語』などのローマ字版の作成・刊行を行った。これらはキリシタン版と称される。本書は,キリシタン版から派生したと考えられるもので,邦訳された物語本文を木製活字によって印刷されている。邦訳を誰が担ったかは不明であるが,西洋文学を,初めて我が国に伝えたものとして特筆すべきもの。蔵書印の存在から,国学者屋代弘賢(1758-1841)の所蔵を経て,阿波国の大名蜂須賀家(阿波国文庫)の蔵書となった。
なお,掲出の中巻「十三 犬ししむらの事」は,犬が肉をくわえて橋を渡った際に,水に映った自分の姿を見て,自分がくわえている肉よりも水に映った肉のほうが大きいと勘違いし,その肉を食べようとして自分がくわえていた肉を川の中に落としてしまうという欲望を戒めるあの話である(現在のイソップ童話では,「犬と肉」あるいは「欲張りな犬」と題されることが多い)。「ししむら」とは,一片の肉の塊をいう。漢字では,肉村又は臠と書く。
(図書寮文庫)
本書は,江戸後期の蘭学者杉田玄白(1733-1817)らがオランダ語訳の医学書『ターヘル・アナトミア(解剖図表)』を翻訳し,安永3年(1774)に刊行したものである。玄白らは明和8年(1771)刑死人の解剖に立ち合い,『ターヘル・アナトミア』所載の挿図が正確なことに刺激を受け,同書の翻訳を思い立ったとされる。その苦労の様子は,玄白の著『蘭学事始』に記される。また秋田蘭画の小田野直武(1749-80)の手になる挿図模写は,原書と比較しても精巧であり,本書の価値を一層高めている。本書の出版法は,整版によっている。整版は,再版や訂正がしやすいというメリットがあり,江戸中期以降はほとんど整版法によっている。本書は,江戸幕府の儒官を務めた古賀家の旧蔵書。
(図書寮文庫)
あまがつ(天児)の由緒や作り方を示した,伊勢貞丈(さだたけ,1717-84)の著作。あまがつとは,人間の代わりに災厄を引き受ける人形のこと。祓えに用いられる使い捨ての人形と異なり,子の誕生と同時に新調され,一定期間その子の側に置かれた。伊勢流の礼法故実を伝える貞丈によれば,男子は15歳まで所持し,女子は嫁入りの時までも携帯すると説かれている。松岡家旧蔵本。
(図書寮文庫)
剣豪として知られる宮本武蔵(1584?-1645)自筆と伝えられる肖像画。伝来は不明だが,明治期に皇室に献上されたものと考えられる。武蔵の伝記については不明な点が多いが,武道修行のため諸国をめぐり,のち二天一流(にてんいちりゅう)兵法の祖となった。巌流島での佐々木小次郎との決闘は著名。肥後藩に仕え兵法書『五輪書』(ごりんのしょ)を著している。本図はよく知られる二刀流の姿を描き,武蔵の独特の風貌を伝えている。
(図書寮文庫)
新井白石(1657-1725)は江戸時代中期の儒学者・政治家。久留里(現・千葉県君津市)藩士の子として,江戸に生まれる。名は君美(きんみ),白石は号。師である木下順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊に仕えた。綱豊が家宣と改名して6代将軍になると将軍侍講として活躍。7代家継の代にわたって7年あまりの間,幕政の改革にあたった(正徳の治)。白石の著作として自伝『折たく柴の記』や,日本に密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問した『西洋紀聞』などがある。
本図に見える威儀を正した白石の姿は,武士として,また儒者としての威厳を感じさせるものとなっており,新井家所蔵本の模写本ながら見事な出来栄えといえよう。有職故実で名高い松岡家旧蔵本のひとつ。
(図書寮文庫)
但馬国(現在の兵庫県)の人で,蚕の買い付けや品種改良に携わった上垣守国(うえがきもりくに,1753-1808)が著した養蚕技術書。品種,道具,技法,起源や伝説など,蚕にまつわるさまざまな事柄を網羅している。享和3年(1803)に版木で印刷され出版された。以後,国内では明治期に至るまで出版が続けられたロングセラーで,シーボルトによって国外に持ち出されたことでも有名。後に,フランス語訳・イタリア語訳も出版された。
(図書寮文庫)
本図は,寛政11年(1799)に出版された京都の名園案内書に描かれた蹴鞠の風景。本文の説明には,当時は七夕を恒例の開催日として,飛鳥井・難波両家で蹴鞠の会が開催されたとある。この両家は,蹴鞠が貴族社会に受け入れられていく中で,技術・故実(作法)を蓄積した家として成長し,いわば蹴鞠の家元として指導的な立場に立った。画像から鞠場の周囲に柵が設けられ,競技者と観覧者とが明確に分けられていることがわかる。技術の高度化・複雑化によって,蹴鞠は遊戯から競技として鑑賞・観覧の対象に変化していったと考えられる。
(図書寮文庫)
平安時代末期に相撲節会(すまいのせちえ)が途絶えた後,武士の世においては,相撲は武術として奨励され,また興行相撲など娯楽としても流行した。本書は江戸時代の寛政3年(1791)6月11日に,江戸城内の吹上で行われた第11代将軍徳川家斉臨席による初めての上覧相撲の様子を書きとめたもの。本書は,陪観(身分の高い人に付き従い見物すること)を許された幕府の旗本であった成島峯雄が書いた記録で,この時の出場力士には小野川・谷風の両横綱や最強と讃えられた雷電の名も見える。
本書は,寛政6年,松岡辰方が人に依頼し書写させたもの。