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(図書寮文庫)
室町時代以前には、大嘗祭を挙行する年の10月末に、天皇が賀茂川岸に行幸し、自ら身を清められる御禊行幸が行われていた。本資料は、延慶2年(1309)10月21日に行われた花園天皇(1297-1348)の御禊行幸について、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)が記した記録である。
洞院公賢はその邸宅「中園殿」(なかぞのどの)にちなんで中園太政大臣と称されたため、彼の日記は『園太暦』と呼ばれる。掲出画像冒頭に「愚記」とあるのは自らの日記を謙遜した呼称である。本資料所収の記事は一般に流布した日次記には含まれず、知られる限りでは最も古いものである。本書は図書寮文庫所蔵「大嘗会御禊行幸記」(415・307)と接続するもので、もともとは御禊行幸の部類記を構成する記録の1つであったが、極めて貴重な自筆の園太暦ということで旧蔵者により個別に装訂された。
洞院公賢は当時参議左大弁で、この日の御禊行幸に随従した公卿のうちの1人である。彼は河原に到着した後は幄舎(あくしゃ)で待機していたらしく、天皇の御禊儀に関する記述は伝聞によるものだが、行幸に供奉した官人の一覧を、行列次第の順に記しているのが注目され、当時の行幸のあり方を知ることができる点で興味深い。
(図書寮文庫)
本資料は、花園天皇(1297-1348)の大嘗祭に先立ち、延慶2年(1309)10月21日に行われた賀茂川岸への御禊行幸に関する記録を、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)がまとめた部類記である。
収録されている記録は順番に、良枝記(記主:清原良枝(きよはらのよしえ、1253-1331))、経親卿記(記主:平経親(たいらのつねちか、生没年未詳))、継塵記(記主:三条実任(さんじょうさねとう、1264-1338))で、本来は良枝記と経親卿記の間(掲出箇所)に図書寮文庫所蔵「園太暦」(415・309)が接続していたが、旧蔵者により分離されている。
御禊行幸は平安時代後期より上皇が沿道に御桟敷を設けて行列を見物されるのが通例となるが、この日は花園天皇の父・伏見上皇(1265-1317)と、兄・後伏見上皇(1288-1336)による御見物が行われた。平経親は伏見上皇の近臣として御見物に供奉しており、本資料は御見物の詳細を知ることができる貴重な記録といえよう。なお、この日の御見物は御桟敷を略して車中にて行われている。
(図書寮文庫)
令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(図書寮文庫)
本資料は、嘉永元年(1848)11月に行われた、孝明天皇(1831-66)の大嘗祭(大祀とも称する)の豊明節会で用いられた笏紙である。豊明節会とは、五節舞姫(ごせちのまいひめ)による舞などが披露される饗宴儀礼であり、大嘗祭の場合は通例4日目の午の日に行われた。
笏紙とは、儀式本番での失敗を防ぐため公家たちが用いた、一種の手控えである。掲出画像左側にあるものを見ると、笏の形に合わせて縦30㎝弱に切られた紙に、儀式の次第が書き連ねられているのが分かる。これを笏の裏側に貼ることで、参列者は儀式当日に笏を構えた際、儀式の流れを暗に確認できた。
本資料は鷹司家に伝来したもので、豊明節会の内弁(ないべん、儀式の進行を統括する役職)を務めた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ、1807-78)によって作成された。輔煕は念のため、天皇が出御した場合の笏紙(掲出画像の右)と、不出御となった場合の笏紙(同左)の2枚を作ったが、当日天皇は節会に出御したため、前者が用いられた。右の笏紙は次第を記した表面ではなく、裏面を掲出しているが、その上下端はわずかに変色している。これは当日、笏に貼り付けた際の糊跡である。
(図書寮文庫)
本文書は、九条家出身の僧慶政の作で九条家旧蔵の『金堂本仏修治記』の紙背に残された一通で、建長年間(1249-56)頃、大仏師運慶の孫康円(1207-?)が慶政に宛てた書状である。冒頭を欠くが、同門康清の死去を知らせるほか、「谷御堂」こと最福寺(京都市西京区、現廃寺)の五智如来像の修理が「一門越後房」に命じられたことを宛先の人物に抗議している。
康円は、運慶の次男康運の息子かとされ、康清(運慶の四男康勝の息子か)とともに伯父湛慶(運慶の嫡男)を補佐し、湛慶亡き後はその地位を継いで慶派の中心にあった仏師であった。京都三十三間堂の千体千手観音像(国宝)の一部や、東京国立博物館ほか所蔵の四天王眷属像(重要文化財)、同館所蔵の文殊菩薩騎獅像および侍者立像(国宝)などが作例として現存する。本書状は、その康円の墨跡を伝えるとともに、慶派内部の競合も示す、貴重な一通である。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地は奈良市に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、墳長は約270mである。当参考地では、令和2年に整備工事に先立つ事前調査が行われ、墳丘第1段平坦面における円筒埴輪列などが確認された(令和4年3月刊行『書陵部紀要』第73号〔陵墓篇〕に掲載)。また、この調査の際には、墳丘の裾部分において多くの埴輪片が採集された(令和6年3月刊行『書陵部紀要』第75号〔陵墓篇〕に掲載)。
本資料は、上記の調査が実施される以前に採集されたもので(詳細は不明)、鰭付円筒埴輪の口縁部~胴部にかけての破片である。鰭付円筒埴輪とは円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部(鰭)を取りつけたもので、古墳時代前期によくみられる円筒埴輪の一種である。本資料でみられる間隔の狭い口縁部や、三角形の透孔(すかしこう)も同様に古墳時代前期の埴輪にみられる特徴といえる。
しかし、当参考地の埴輪にみられるその他の製作技法(焼成方法や外面の調整方法)は古墳時代中期中頃の特徴を示すものであり、上記の外形的な特徴が盛行した年代とは齟齬をきたす。この点については、古墳時代前期における埴輪の外形的な特徴が復古的に採用されたと考えられている。
なお、本資料は外面に赤色顔料が塗布されており、欠損部分と比較すると本資料の完成時はかなり赤い色であったことが推測される。
(図書寮文庫)
『神今食行幸次第』は、毎年6月・12月の11日に禁中で行われた神事、神今食(じんこんじき)に天皇が臨席される際の式次第を書いたものである。もとは、4通の書状を横長に二つ折りし、折り目を下にして重ね右端を綴じ、横長の冊子の形で使用・保管されていた。江戸前期までに、折り目が切断され、式次第がおもてになるように張り継がれ、巻子(かんす)の形態に改められた。そのため現在、紙背の書状は上下に切断されて継がれ、紙数は8枚となっている。画像は、写真を合成して、もとの形に復元したものである。
その紙背文書のなかの一通である本文書は、鎌倉後期~南北朝期の九条家当主、九条道教(くじょうみちのり、1315-49)の花押が確認でき、自筆書状と判断される。 内容は、道教周辺の人物の出仕に係るものと考えられるが、詳細は知りがたい。他の3通の紙背文書から、年代は元弘年間(1331-34)前後のもので、九条家や同家に仕えた人々の家に集積された文書群と推定される。いずれも、『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)は直径約30mの円墳で、宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の飛地として昭和20年の終戦直前まで宮内省によって管理されていたが、進駐軍のキャンプ地に取り込まれたため、結果的に削平されて墳丘は現存していない。
築造されたと推定される位置から判断して宇和奈辺陵墓参考地の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる。大和6号墳は鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄の延べ板が昭和20年に削平された際に大量に出土したことで著名であり、しばしば教科書にも紹介されることがある。
本資料は、この大和6号墳から出土したと推測される鰭付円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪の一種の破片で、胴部から底部にかけて残存している。主墳(しゅふん)である宇和奈辺陵墓参考地とは古墳の形や規模が大きく異なるものの、使用されている円筒埴輪の形状や大きさが宇和奈辺陵墓参考地と同じ様相であり、大和6号墳の規模からすると大型なものが使用されている点が特徴的といえる。これは同時期における同規模の円墳では想定しがたい円筒埴輪の様相であり、主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)という関係を踏まえて埴輪の生産と供給を考える必要性をうかがわせる。
(図書寮文庫)
九条家旧蔵の『地蔵菩薩本願経』は、鎌倉時代の書状の裏を用いて写された経典一巻で(一部に室町時代の補写を含む)、その書状はいずれも同筆とみられることから、弔いのために故人の書状を集めて作成した消息経と考えられる。残念ながら、その故人の特定はできないが、すべて散らし書きで悠然と書かれており、九条家周辺の高貴な人物であったことをうかがわせる。
そのうちの一通である本書状は、陳状提出の催促や院の瘧病(おこり)のことなどとりとめのない内容だが、書き出し(中央右寄り)には「むくり(蒙古)の事にうつし心もうせて候つれとも」とあって、蒙古襲来による動揺が綴られている。さらに、権大納言中御門経任が伊勢神宮へ公卿勅使として遣わされることが記されていることから(左上)、弘安4年(1281)7~閏7月のことと推定でき、同年5月の弘安の役から間もないものであったことがわかる。また、全体に隣の書状の文字が左右反転して墨うつりしており(墨影、もしくは墨映)、これらの書状群が一括で水のばしなど紙背転用の処理がなされたことがうかがえる。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 定能卿記部類外』(宮内庁書陵部、令和6年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の中央に二匹の龍が向かい合って玉をくわえた表現が特徴的な環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことで、本資料は銅に金メッキされた金銅製品であり、彫金で細部の文様がほどこされている。龍の眼や玉は立体的に造形され、環には二匹の龍の胴体が表現されている。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。掲出した画像の縦方向の長さは8.4cmである。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種であり、6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。双龍環頭大刀は蘇我氏(そがし)によって生産され、各地に戦略的に配付されていたという説もあり、政治性の高い器物といえる。
(図書寮文庫)
一般には『紫式部日記』とよばれるもの。紫式部(生没年未詳)が、仕えていた藤原彰子(ふじわらのしょうし、一条天皇中宮、988-1074)の出産に関する日記的な記事と随想的な文章とを記した作品。彰子は藤原道長の娘で、寛弘5年(1008)9月に敦成親王(あつひら、のちの後一条天皇)、翌年11月に敦良親王(あつなが、のちの後朱雀天皇)を出産した。紫式部は、主家である藤原道長家の繁栄の様子をつぶさに記録している。
掲出箇所は寛弘5年11月1日、敦成親王の五十日(いか)の祝を道長の邸で行った折の一場面。宴席に控えていた女房たちのいるあたりで、藤原公任(きんとう、966-1041)が「此わたりに、わかむらさきやさぶらふ(この辺りに若紫はおいでですか)」と声をかけ、紫式部は “光源氏もいないのに、まして紫上(若紫)がいるはずがない”と心中で答える箇所である。当代随一の文化人である公任が、あなたの書いた光源氏と若紫の物語を知っていますよ、と戯れかけたのである。これが『源氏物語』について記録された最も古い記事で、平成24年(2012)制定の「古典の日」が11月1日であるのはこのエピソードによる。
なお、当該本は江戸期写本で、国学者である黒川家の旧蔵本である。
(陵墓課)
鍬形石とは、過去に当ギャラリーで紹介したことがあるが、本来は貝の腕輪をかたどって碧玉(へきぎょく)と呼ばれるきれいな緑色の石材で作られた権威を象徴する器物の一種であり、大きな古墳を築くことのできる、比較的地位の高い人物の所有品という側面をもっている。しかし、本資料は大半の部位を欠いているため、「残欠」という名称が付随しており、見た目の全体像もわかりにくい。掲出した画像で縦方向の現存長が7.9cm である。
考古学で扱う資料は、一般に「出土品」などと呼ばれるように、地中に埋没していたことで、壊れていたり、表面が磨り減ったりした状態で発見されることが多い。一方で、見た目も立派で全体像がわかる資料の方が、博物館の展示などでは重宝されるが、それだけでは資料の価値は決まらない。破片資料は、時には意図的に壊したりしたと考えられる状況で発見されることもあれば、壊れていることによって、外からでは見えない作り方や断面の情報が得られることがあり、無傷の資料では得られない情報を提供してくれることも多い。
能登半島で発見された本資料の場合は、近畿地方を中心に出土する鍬形石の分布域の東縁にあたり、古墳時代の王権の影響力が何らかの形で反映されたものと考えられ、それを示す重要な資料として位置づけられる。発見されてから既に100年以上が経過しているが、未だこの分布域より東での新資料の発見はない。いずれ、さらに東の地域で発見される時が来るかもしれないが、本資料が重要であることに変わりはない。
(図書寮文庫)
藤原宗忠(1062-1141)の日記『中右記』(ちゅうゆうき、宗忠が「中御門右大臣」と称されたことによる)の写本は多いが、九条家旧蔵の当該本は鎌倉初期の書写とされ、紙背には多くの文書等が残る。そのなかの1点がこの嘉禄2年(1226)仮名暦(かなごよみ)断簡で、現存する仮名暦としては石川武美記念図書館所蔵『請来六勘物』紙背の承元元年(1207)の断簡に次いで古いとされる。
日本の律令制下中務省に属した陰陽寮(おんようりょう)では、吉凶を判断するために様々な注記(暦注〈れきちゅう〉)を書き込んだ暦(具注暦〈ぐちゅうれき〉)を毎年作成・頒布したが、暦注を簡略にして仮名文字としたのが仮名暦。平安後期頃、宮廷の女性たちの求めに応じて作成され始めたといわれ、日常的に使う暦として簡潔でわかりやすかったことなどから、次第に民衆社会にも受容されていったと推定される。
鎌倉前期成立といわれる『宇治拾遺物語』収載の「仮名暦あつらへたる事」という話では、ある女房が若い僧侶に仮名暦を書いてもらっており、すでに身近なものとなっていたことがわかる。この仮名暦も11月6日・7日条に合点(がってん、確認などのために付けられた斜線)があり、実用の暦であったのだろう。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(陵墓課)
本資料は、福岡県京都郡苅田町に所在する御所山古墳から出土した碧玉製の管玉を首飾り状に連ねたものである。管玉とは、石材を円筒形に加工した玉類の一種で、縦方向に穿たれた孔に紐を通すことで装身具として使用された。
本資料は、計10点の管玉から構成されており、個別の長さは1.2~1.8cmである。管玉一つ一つに目を向けると、太さや色調は個体ごとに少しずつ異なり、一部には朱が付着しているようすを確認できる。勾玉のような特徴的な形はしていないが、写真のように連なることで、碧玉の美しい青緑色が強調され、目を奪われる。
本資料が出土した御所山古墳は、古墳時代中期の豊前(ぶぜん)地域を代表する墳長約120mの前方後円墳である。明治20年(1887)に実施された学術調査の記録によると、管玉などの装飾品は被葬者の頭部周辺に集まっていたとされ、本資料は装身具として被葬者が身につけていたと考えられる。
(図書寮文庫)
延喜式(50巻)は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。
本資料は壬生(みぶ)家旧蔵で、巻1から巻8と巻13を欠き、2巻ずつを1冊(巻14のみ1冊)とした21冊本である。各冊の表紙に「共廿五」とあることから、本来は25冊であったことがうかがえる。ただし巻14のみ1冊であることから、もとより巻13を欠いていたとみられている。8冊に壬生家の蔵書印である「禰家蔵書」(でいけぞうしょ)印が捺される。
書写に関する奥書等は存しないが、江戸初期の本とみられる。全体を通して付されている傍訓やヲコト点等、古い写本の流れを受け継ぐ他、巻17には他の写本にあまりみられない「弘」「貞」といった標注が見えている。
鈴鹿(すずか)文庫旧蔵(現在大和文華館所蔵)の延喜式板本に清岡長親(きよおかながちか、1772-1821)が文政3年(1820)に壬生以寧(みぶしげやす、1793-1847)所蔵本で校訂した旨の奥書が見えるが、その本が本資料に当たるとみられる。
(陵墓課)
愛媛県松山市に所在する波賀部神社古墳から出土した金環である。金環とは古墳時代の耳飾りのことであり、本資料は垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)ともいわれるタイプの耳飾りの一部である。垂飾付耳飾は主環に垂飾(垂れ飾り)が付属したものであるが、本資料は垂飾が失われており、主環に連結された小さな銀製の遊環が残るのみである。主環の平面形はやや楕円で幅約20㎜、断面形は正円で直径3.5㎜である。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料の主環は、純金特有の黄色みが薄く、破断面も銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金をほどこした銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品であった可能性がある。このことは、蛍光X線分析で銅と銀が強く、金と水銀がわずかに検出されたことからも裏付けられる。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。