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(図書寮文庫)
森鷗外(もりおうがい、森林太郎〈もりりんたろう〉、1862-1922)が宮内省図書頭だった時代に編纂され、神武天皇から明治天皇に至る歴代天皇の諡号(しごう)の由来、出典について考証したもので、大正10年(1921)に宮内省図書寮から100部が刊行された。図書寮文庫には、大正10年刊行の2点のほか、草稿2点(原本・副本)、校正刷1点の、計5点を所蔵する。草稿原本(272・206)は、鷗外が朱書や墨書で書き込みを行い、草稿副本(272・204)は、草稿原本の鷗外筆校正を別の人物が丁寧な形で書き直し、鷗外が朱書や墨書で更なる加筆修正を施している。掲出図版は校正刷であるが、全体を通して朱墨、墨書、朱ペン等、複数の筆記具による書き込みが見られ、その大部分が鷗外筆と認められる。書き込みの内容は、誤字脱字、出典文献、引用本文の加筆修正、体裁の修正や指示等、多岐にわたっており、刊行に至るいずれの段階においても鷗外自身が全体の構成から細部に至るまで積極的に関与していることが分かる。
(陵墓課)
本資料は、奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した、「三角縁神獣鏡」に分類される鏡である。直径22.1㎝。
三角縁神獣鏡とは、鏡の縁の断面が三角形で、主な文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙、聖獣、その他の図像に、それぞれ、数、組合せ、表現などの違いがあるほか、主文様を配する内区(ないく)の外周に文様や銘文(めいぶん)を配するかどうかなどの違いがあり、ひとくちに「三角縁神獣鏡」と呼ばれていても、その文様の構成はバリエーションに富んでいる。
本資料は、円錐形(えんすいけい)の乳(にゅう)によって6分割された内区に、神仙像と聖獣像を交互に3体ずつ配置する、「三神三獣鏡」の一種に分類されるものである。
内区の外周にも乳によって10分割された文様帯(もんようたい)があり、ここにも、画像上方から時計回りに、カエル、四つ足の獣(けもの)(青龍(せいりゅう)か)、四つ足の獣(白虎(びゃっこ)か)、2匹の魚、カエル、カメ(玄武(げんぶ)か)、ゾウ、鳥(朱雀(すざく)か)、1匹の魚、四つ足の獣と、様々な図像を見ることができる。
三角縁神獣鏡の文様の中に、本資料のゾウや、以前に本ギャラリーで紹介した仏など、当時の日本列島在住者には描くことができないと思われるものが含まれていることは、その製作地、製作者を考えていく上で見過ごせない点である。
(図書寮文庫)
尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)が、北朝第4代、後光厳天皇(ごこうごんてんのう、1338-74、御在位1352-71)に向けて、書道の入門書として意見をまとめたものである。その成立は、奥書より文和元年(1352)11月15日と知られるが、当時15歳の天皇は、この日に読書始(とくしょはじめ)を行われており、読書始に続けて行われる手習始(てならいはじめ)のために進覧されたものと考えられる。筆、紙、墨といった用具、手本の選び方や稽古の心構え等が20項目にわたってまとめられている。「入木」の語は、書道や習字を意味し、東晋の王羲之(おうぎし、303-361)の書いた字の墨が、木板に深く染み込んでいたという故事に基づく。末尾には、朝野魚養(あさののなかい、生没年不詳)から尊円親王までの能書23人の略歴を記す。安永9年(1780)4月18日、尾崎積興(おざきかずおき、1747~1827)の書写奥書がある。有栖川宮本。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の内部に一匹の鳳凰(ほうおう)の首を表現した環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことである。金銅製品(こんどうせいひん)の一種であり、銅の鋳造で成形された後にタガネ彫りで文様が表現され、金メッキされている。
中心飾の鳳凰に着目すると、両個体のモチーフには若干の違いがあり、左の個体は崩れた冠毛(かんもう)と角が環と一体化して目の表現は省略される。右の個体は冠毛が短く、角が環と一体化しており、目が表現される。両個体ともに、環には二匹の龍の頭部・胴部・前足・後足がみられ、表裏で二匹の龍が反転するように配置される。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種である。単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は日本列島内で200例近い事例が知られており、本資料は6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。諸外国との外交時に佩用(はいよう)された大刀であるという説もあり、政治的価値が大きい器物であったと考えられる。
(図書寮文庫)
鎌倉時代中期の公卿、世尊寺(せそんじ)家第9代経朝(つねとも、1215-76)の説く書道の故実を、68項目にわたってまとめたものである。ここでいう「右筆」は、書道や書芸を意味する。元亨2年(1322)12月15日、世尊寺家第11代行房(ゆきふさ、生年不明-1337)によると思われる奥書には、経朝が文永12年(1275)関東下向の折、安達泰盛(あだちやすもり、1231~85)に伝えた内容の書き残しの条々を部類立てしたものとあり、成立の経緯が窺える。世尊寺家は三蹟(「三跡」とも、さんせき)の一人、藤原行成(ふじわらのゆきなり、972-1027)を祖とし、代々朝廷の書役を務めたが、鎌倉幕府の中枢にあった安達泰盛への伝授は、関東との関係をも有していたことが分かる。筆、紙、墨といった用具や願文、額の書様といった故実に加え、「自関東被進京都御教書幷事書様」(掲出図版第2項目)もあり、鎌倉幕府を意識した内容も盛り込まれている。
なお行房は、別掲『入木抄』(有栖・5180)の著者、尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)へも伝授を行っている。
(陵墓課)
本資料は、琴柱形石製品と呼ばれる。この名で呼ばれる石製品の形は多様であり、字面のとおり楽器である琴の弦を支える「琴柱」の形に近い形態(アルファベットの「Y」のような形)がある一方で、まったく違う形のものも存在する。弦楽器としては縄文時代から琴の原型があり、古墳時代には埴輪に表現されることもあるが、実際に発掘された資料で琴に付随したと考えられるものはないため、現在の研究からは元々「琴柱」を象(かたど)ったものは少ないと考えられている。
本資料は、奈良県奈良市に所在する巨大古墳がひしめく佐紀古墳群に含まれる瓢箪山古墳(前方後円墳:墳丘77m)の前方部から3点が出土したものである。大正2年(1913)に土砂採取で出土したため、中央と右端の1点は欠損部があるなど(中央は補修している)、納められていた細かい状況は不明である。また、形が「琴柱」とは異なっており、漢字の「工」に似ることから「工字型」や横軸を翼に見立てて「飛行機型」と呼ばれたこともある。いずれにしても琴の一部と考えることは難しい。
同じ形態のものが別の古墳から調査によって出土しているが、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などと連なる状況が知られており、実際の使用方法としては、首飾りなどの一部を構成する玉の一種のようなものであったと考えられる。石材は、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれるやや灰色がかった色味のやわらかいものが使用されている。この形態のものは数が少なく近畿地方の古墳から出土することが多いが、新潟県糸魚川市(いといがわし)笛吹田遺跡(ふえふきたいせき)では建物跡から出土しており、古墳以外からの出土事例も知られている。
(図書寮文庫)
江戸時代の幕末に描かれた、蓮華峯寺陵の図である。蓮華峯寺陵は、京都の北嵯峨に所在する陵墓。後宇多天皇及びその母后の御陵であるとともに、亀山天皇以下3方の分骨所でもある。図の右側には、御陵の中核をなす大型の石造五輪塔1基と、小型の石造五輪塔2基が描かれる。これら3基の石塔は、実際には木造の覆い堂の中に安置されている。左側に描かれている建物がそれである。
掲出図は、図書寮文庫が所蔵する「文久山陵図(草稿)」という資料の一部。資料名にみえる「文久山陵図」とは、幕末に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。本資料はこの「文久山陵図」作成時の草稿(下図)に相当するものと考えられている。本資料には、「文久山陵図」と画題・構図を異にする図がいくつか収載されており、掲出図もその一つである。蓮華峯寺陵を描いた図は、本資料中に3点ある。そのうち、掲出図を除く2点は「文久山陵図」収載の図と酷似する。しかし、掲出図のような覆い堂と石塔のみを描いた図は、本資料独自のものである。
(図書寮文庫)
本書は、永正9年(1512)4月26日に行われた知仁親王(ともひと、1496-1557、のちの第105代後奈良天皇〈御在位1526-57〉)御元服の記録で、紀伝道家の公卿東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが、1460-1530)の日記『和長卿記』の別記である。内容は「永正九年若宮御元服記」(『続群書類従』公事部所収)として知られているものではあるが、本書は室町後期写の善本である。知仁親王は第104代後柏原天皇(御在位1500-26)の第二皇子で、この年4月8日に親王宣下があって知仁の名を賜り、26日に小御所において元服の儀が行われた。時に親王17歳。元服は加冠とも称され、理髪(成人の髪に結う)・加冠(冠を被せる)が行われ、成人となる儀式である。これ以降、髷(まげ)を結い日常的に烏帽子(えぼし)ないし冠を身に着ける。儀式の中心である理髪の役は頭右中将正親町実胤(おおぎまちさねたね、1490-1566)、加冠の役は関白九条尚経(くじょうひさつね、1469-1530)がつとめた。本書が九条家に伝来したのはこのあたりに理由があろうか。和長は当日、童形装束の儀に参仕し、故実への関心より小御所の室礼の図などを含めて、元服の儀全般にわたって詳細な記録を残したのである。ちなみに本書には『続群書類従』本と同じく永正9年の持明院基春(じみょういんもとはる、1453-1535)の元奥書、さらに寛永20年(1643)の九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の一見奥書がある。九条家本。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土したと伝えられる水鳥形埴輪である。現在は首から頭部にかけてのみ残存しているが、本来は、嘴(くちばし)や胴部もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約32.5cmである。
水鳥形埴輪は、ガン・カモ類などの水鳥をかたどった埴輪を指し、本資料は、首が長いことから、白鳥を現しているとの意見もある。
頭部の両側面には穴があけられており、嘴の近くには竹管による表現が2箇所見られる。一見すると、目と鼻孔を現しているように見えるが、水鳥形埴輪の鼻孔は、扁平な工具を刺突して細長く表現することが多い。また、本資料の目は低い位置にあり、写実的とはいえない。
一方、両側面の穴で耳孔を、竹管を押しつけて目を現した事例も存在する。耳孔を穿つ事例としては鶏形埴輪があり、本資料の表現は酷似しているが、鶏冠の表現や痕跡はない。水鳥形埴輪でも耳孔を表現した事例は確認されているが、穴ではなく工具の刺突や竹管による表現が多い。
本資料は見方によって印象が変わる、魅力と謎の多い埴輪である。
(図書寮文庫)
本書は、三条西実隆(さんじょうにしさねたか、1455-1537)による『未来記』『雨中吟』注の自筆の草稿本である。『未来記』『雨中吟』は鎌倉時代に作成された藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162-1241)仮託の歌学書。本来は別々の書であるが、流布する過程で一具の書として扱われた。両書は和歌を詠じる際に避けるべき風体を示した書として、穏当な歌風を旨とした二条派歌人に重んじられた。室町時代に入ると、解釈についての講釈がなされるようになり、本書もそのために作成されたものと推測される。注内容は、東常縁(とうのつねより、1401-84頃)の講釈を基として宗祇(そうぎ、1421-1502)がまとめた『遠情抄(えんじょうしょう)』におおよそ拠っているが、実隆による独自の注が散見される。
なお、実隆の息子、三条西公条(さんじょうにしきんえだ、1487-1563)による講釈を書き留めた『三条西公条講未来記雨中吟聞書』が京都大学中院文庫に所蔵される。本書と比較すると実隆による注が反映されていることが分かる。本書は草稿本ではあるものの、実隆から公条へなされた講釈がどのようなものであったかを示す貴重な資料といえる。
(陵墓課)
京都府京都市右京区の宇多野福王子町から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から金環としているが、金環と書かれる場合には銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、材質には様々な可能性があり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に,蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。
この耳飾りは、直径31㎜ほどの大きさで、断面の厚さは7.1㎜から7.4㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形はほぼ正円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本品はその形と大きさから古墳時代終わりごろの遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
「日本医学中興の祖」とされる曲直瀬道三(まなせどうさん、1507-94)が編纂した医学入門書。全3巻。『十五指南編』(じゅうごしなんへん)・『医工指南編』(いこうしなんへん)・『医学指南編』とも。医学・用薬・治療など15項目について、様々な医書の説を引用したうえで、道三の主義主張を述べたもの。道三没後、慶長年間(1596-1614)には活字化され、承応2年(1653)に刊行されたものの影印が『近世漢方医学書集成』第6巻(1979年、名著出版)に収録されている。同集成では、本書を道三の甥で、孫娘を妻としたという弟子曲直瀬玄朔(まなせげんさく、1549-1631)の編纂として収録するが、掲示の奥書から道三の編纂とみて間違いない。すなわち、元亀2年(1571)9月9日の奥書によれば、道三が門下生のために編纂した15巻を、高齢となったために玄朔に与えて後代の証本とした、としている。道三は「雖知苦斎」(すいちくさい)など様々な号を持つが、「雖知苦戸」とも号したらしく、道三自筆『切紙』の同年9月13日の奥書にも「雖知苦戸」とある(前掲集成解説写真10)。多紀本。
(宮内公文書館)
文久2年(1862)閏8月8日に宇都宮藩主戸田忠恕(ただゆき)から幕府に提出された「山陵修補の建白書」を契機として、各山陵の修補事業が始まった。いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる修補事業の成果物として作成されたのが、「文久山陵図」である。
図を描いたのは、狩野派の画家として知られる鶴澤探眞(つるさわたんしん)である。「文久山陵図」は、文久の修陵以前の状態を描いた「荒蕪図」(こうぶず)と修陵以後を描いた「成功図」(じょうこうず)からなる。「文久山陵図」は、2部作成され、それぞれ朝廷と幕府に提出された。朝廷に献上された分の写しが、宮内公文書館に所蔵される本資料であり、幕府に提出された分は、現在、国立公文書館に所蔵されている。
大和・河内・和泉・摂津・山城・丹波にある47陵の「成功図」、「荒蕪図」が作成されているが、本資料は、「荒蕪図」に収められる仁徳天皇陵の絵図である。修陵以前には、墳丘には雑然と木々が生い茂っていることが一目瞭然である。また、第一堤の途中が途切れており、第一濠と第二濠がつながっていることがわかる。
(宮内公文書館)
本資料は、宮内公文書館で所蔵する「文久山陵図」のうち、「成功図」(じょうこうず)に収められる仁徳天皇陵の絵図である。「荒蕪図」(こうぶず)と見比べると、その違いがよくわかる。墳丘に生い茂っていた木々は整備され、また、顕著な違いとして、拝所が設けられている。拝所は、扉付き鳥居(神明門鳥居)と木柵に囲まれている。拝所附近に描かれる燈籠(とうろう)は、現在も仁徳天皇陵において使用され、場所そのものは、移動しているものの、文久の修陵時に設置された燈籠の姿をそのままに、現在にまで伝わっている。背面には「元治元甲子年九月」の記載が残る。明治期以降、宮内省諸陵寮が仁徳天皇陵をはじめ各陵墓の事務を所掌(しょしょう)するようになると、整備された陵墓を維持・管理すべく、地域住民とも協力しながら日常的な管理が実施されるようになる。絵図ゆえに、正確性については考慮する必要はあるが、当時の陵墓を知る上では、貴重な資料であろう。
(宮内公文書館)
明治35年(1902)5月6日、陵墓守長筒井幸四郎(つついこうしろう)が宮内省諸陵寮へ上申した「陪冢(ばいちょう)取調図」。「乙第廿一部古墳墓取調略図」と題された本資料には、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の三陵周辺の陪冢(小古墳)、陵墓参考地(御陵墓伝説地)について詳密に調査・記録されている。宮内公文書館は同種の図を3鋪(しき)所蔵しているが、この内「陵墓資料」の1つとして諸陵寮で保存されたもので、陵墓管理に活かされたと考えられる。
本資料を上申した筒井は、陵墓守長として百舌鳥周辺の陵墓全般の管理を担当した地域の名望家である。文久3年(1863)年、現在の八尾市に生まれ、後嗣として中百舌鳥村(現・大阪府堺市北区)の筒井家に入った。明治22年に堺市書記、明治27年に中百舌鳥村村農会長を経たのち、明治28年になって宮内省諸陵寮乙第二十一部甲部守長に採用された。以後、仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群の管理に尽力し、死去する直前の大正11年(1922)には陵墓監に昇任した。
(宮内公文書館)
仁徳天皇御遺徳人形陳列館の外観や陳列資料を収めた写真集。同館は百舌鳥(現・大阪府堺市)の住民である石田源太郎が昭和10年(1935)に自邸内に建築したものである。昭和4年に阪和鉄道が開通し、仁徳御陵前停留場が設置されて以降、折しも陵墓巡拝の気運が高まっていた。停車場に近い場所に建てられた同館には、仁徳天皇陵への参拝とともに来館する者が多かったであろう。
仁徳天皇のご事蹟を紹介する館内には、9場面からなる舞台ごとに約100体の人形が陳列されていた。主に児童を対象としたものとされ、人形を用いた9場面は次のとおり。「第一場 神功皇后が朝鮮半島からの帰途、堺に上陸」、「第二場 王仁博士の来朝」、「第三場 仁徳天皇の即位前の皇位譲り合い」、「第四場 民のかまど」、「第五場 難波の堀江、茨田の堤」、「第六場 御仁政」、「第七場 百舌鳥野の鷹狩り」、「第八場 百舌鳥の地名の由来」、「第九場 仁徳天皇崩御と百舌鳥野の陵」。なお、本写真集は同館の解説をかねた『かまどのにぎはひ』(石田源太郎、昭和10年)という小冊子を合綴して、百舌鳥部陵墓守長石田喜一郎から宮内庁書陵部陵墓課へ寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
本資料は大阪府内の行幸・行啓を記録した資料で、明治元年(1868)から大正3年(1914)までを収める。宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のために、大正8年10月、大阪府立図書館所蔵の資料を底本として筆写した。この内、見開き箇所は明治天皇が初めて堺県を訪問された明治10年2月13日条である。
この明治10年行幸ではご滞在中、京都・神戸間鉄道開業式への臨席や、東大寺大仏殿を会場とした奈良博覧会の観覧、正倉院宝物の蘭奢待(らんじゃたい)と呼ばれる香木を切り取り焚いたことがよく知られている。1月24日の東京ご出発後、鹿児島で西郷隆盛ら私学校生徒が蜂起した西南戦争により、7月30日まで還幸は延期し、畿内滞在は半年近くに及んだ。堺へ到着した2月13日には、熊野(ゆや)小学校での授業天覧、堺県庁(本願寺堺別院内)での県令からの県勢報告、同所での県内物産陳列場の視察、戎島(えびすじま)綿糸紡績所での器械天覧などが行われた。堺の行在所(あんざいしょ)滞在中には、西南戦争に発展する、鹿児島での私学校生徒の挙兵の一報が明治天皇に伝えられた。
(宮内公文書館)
本資料は、大阪府泉北郡向井村(現・大阪府堺市堺区)の灌漑(かんがい)状況についてまとめられた資料に綴じこまれた図面である。明治36年(1903)4月、明治天皇・皇后(昭憲皇太后)は、大阪天王寺で開催される第5回内国勧業博覧会を御覧になるため、大阪に行幸・行啓になった。このとき天皇は、博覧会開会の勅語を読まれたほか、各会場や附属水族館などを御覧になった。
天皇と同じく皇后も博覧会に関連する各施設を訪れた。同時に、大阪府内の各所に侍従を差遣(さけん)し、状況を視察させた。5月2日、皇后は侍従の米田虎雄(こめだとらお)を向井村に差遣した。かねてより向井村やその周辺の村々では、灌漑用水の不足に悩まされていた。図面の左側にみえるのが大和川、中央部には田畑が広がり、仁徳天皇陵がその右側に位置する。大和川から仁徳天皇陵に向かって、土地は高くなり、したがって大和川から取水することが困難であった。そこで、明治29年(1896)、灌漑用水の不足を解消すべく向井村の村長八木栄次郎(やぎえいじろう)は、蒸気機関を用いた揚水機を設置し、灌漑用水とする工事を計画、早くも翌年には竣工となった。
本資料は、明治天皇の御手許(おてもと)へとあげられた書類であり、皇后による米田の向井村差遣に前後して作成されたと推測される。
(宮内公文書館)
明治12年(1879)10月の測量調査に基づき、精密かつ彩色で描かれた、仁徳天皇陵の平面図。陵墓が所在する府県によって測量調査が行われ、陵墓の実測図(平面図・鳥瞰図)が宮内省へ提出された。本資料には「三千分ノ一ヲ以製之」の記載があることから、元の原図はもっと大きかった可能性が高い。
だが、宮内省が所蔵していた原図は、保管していた諸陵寮の庁舎が被災したため、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。そこで水戸出身の国学者として知られる、宮内省御用掛増田于信(ゆきのぶ)が改めて大阪府、奈良県が所蔵していた控えの図を採集した。大正14年3月20日に謄写して作成されたのが、本資料を収録した「御陵図」と呼ばれる絵図帖である。大和国(奈良県)と河内国・和泉国(大阪府)にある陵墓について、それぞれの平面図と鳥瞰図を描いたものを収める。「御陵図」には各府県の測量調査に基づく大きさや面積の数値が記載されており、明治12年当時の陵墓の現状を知る上で貴重な資料である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月、仁徳天皇陵の前方部中段において石室が露出した。本資料はこの時に出土した副葬品のうち、甲冑を描いた図である。冑は「総体銅鍍金(めっき)」の小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)であり、全体図と各部の詳細図を描いている。
だが、明治5年当時の記録は大正12年(1923)の関東大震災により諸陵寮の文書が焼失したため、存在していない。本件の絵図については複数の写本が知られているが、宮内公文書館では2点を所蔵している。本資料は震災後の公文書復旧事業によって、個人が所蔵していた絵図を模写したものの一つである。この絵図の写しは、大正14年2月に陵墓監松葉好太郎から諸陵寮庶務課長兼考証課長山口巍に宛てて送られた。松葉が堺の筒井家に交渉して入手した筒井本の写本と思われる。
なお、この原図を作成した人物は明治5年実施の関西古社寺宝物調査(壬申検査〈じんしんけんさ〉)に随行した、柏木貨一郎(政矩〈まさのり〉)とされる。この時、柏木は仁徳天皇陵石室開口の情報に接し、この図を作成することとなった。