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(陵墓課)
古墳に捧げられた小さな土器。本資料は、磐園陵墓参考地から出土した古墳時代の土師器(はじき)である。写真奥は高坏(たかつき、食物などを盛る土器)、中央列と前列は壺で、日常生活で使用された土器よりも小さい。中央列一番左のものは幅約6.2cmであり、ミニチュア品と考えられている。
これらは、造り出し(つくりだし、前方後円墳のくびれ部付近に設けられた台形状の施設)に掘られた穴に埋められていた。土圧等の影響を受けて非常に脆くなっているが、板状の工具で表面を整えた痕跡が残るものもあり、小型ながら丁寧に作られたことがわかる。壺の内部に残っていた土を科学分析した結果、食物などの供物が納められていた可能性が指摘されている。
大型前方後円墳では、食物を供えるためのミニチュア土器や笊形土器(ざるがたどき)、食物形土製品が出土することがあり、本資料も食物を供献(きょうけん)する儀礼に用いられた可能性がある。本資料は、そうした儀礼が造り出しで行われる初期の様相を示す貴重な事例であり、古墳時代前期後半の葬送儀礼を考える上で重要な資料と言えよう。
(陵墓課)
本資料は、巨大古墳が集中していることで知られる古市古墳群の中でも最初に築かれた古墳の一つである藤井寺陵墓参考地(津堂城山古墳)から出土したものである。弓矢の一部であり、「矢筈(やはず)」と呼ばれる。矢筈は弓につけられた弦(つる)に矢をかけるための部品であり、写真上側が凹字状にくぼんでいるのは弦を引っかけるための形である。長さは2.6cmほどである。
弓矢は縄文時代以来使われてきた「飛び道具」として知られ、古墳時代になると弓矢の先端に付けられる鉄や銅の鏃(やじり)が多く出土する。しかし、竹などの植物素材で作られる弓本体や矢柄(やがら)、鳥の羽を使う矢羽根(やばね)は腐朽して残っていないことが多い。矢筈の出土例も極めて少ないため、本資料は貴重な資料といえる。
この矢筈は、金属製であることに特徴がある。当参考地では、弦を弓の端にかけるための部品である「弭(ゆはず)」も出土しているが、こちらも金属製である。当参考地の弓と矢は、実用ではなく、儀礼用に作られた弓矢であった可能性がある。金属を用いて作られた弓矢はどのような姿であったのだろうか。
(陵墓課)
奈良県天理市柳本町の崇神天皇山邊道勾岡上陵飛地い号(柘榴塚(ざくろづか)古墳)から出土した耳飾り2点である。本資料の名称は、色調の特徴から「金環」としている。しかし金環といっても全てが純度の高い金でできているとは限らず、銀の芯材に鍍金(ときん)したものや、銀の含有量が多い金からできているもの等、その材質は様々である。
本資料は2点とも銅由来の緑青で覆われるが、表面には金色が残っている。本資料の表面を蛍光X線分析したところ、金とともに水銀が検出されたことから、鍍金されたものであることが判明した。本資料は円筒形で中空の銅管を「C」字形に折り曲げた後、鍍金を施した銅管鍍金(どうかんときん)製品であり、作られた当時は全体が金色の光沢を放っていたと考えられる。また、本資料は左右ともに全体の直径35mmほどの大きさで、銅管の直径は8.5-10.1mmであり、左右一対になるように作られていたようである。
本資料のような中空構造の金属製耳飾りは古墳時代の終わりごろに出現することが知られており、当時の特徴的なアクセサリーである。
(陵墓課)
本資料は、中国の唐(618-907)代につくられた鏡をもとに我が国でつくられたもので、同型鏡(どうけいきょう、鋳型(いがた)をつくる際に粘土に押し当てた原型が同じ鏡。鋳型そのものは別に存在する)、同笵鏡(どうはんきょう、同じ鋳型で鋳造された鏡)が多く知られている。
外縁には、「この鏡の所有者は永く夫婦円満となる」という意味の銘文が巡っており、下方には岩に囲まれた池、上方には雲間に見える山と太陽もしくは月、飛ぶ鳥が配置され、下方の池から中央に向けてハスの葉がのび、それに乗るカメが鈕(ちゅう、紐をとおすためのつまみ)となっている。鈕の右には樹木の前の岩の上で片脚立ちをする鳳凰(ほうおう)、左には竹林の前に座って琴を弾く人物が表現される。
本資料の名称にある「伯牙」は、中国の春秋時代(しゅんじゅうじだい)(紀元前770-紀元前403)の琴の名手と伝わる人物。自分の演奏のよき理解者であった親友が亡くなってからは琴の弦を切って二度と演奏しなかったとされ、親友を失った悲しみを表す「伯牙絶弦(はくがぜつげん)」という故事の基になった。
琴を弾く人物が表現されている鏡は「伯牙弾琴鏡」と呼ばれることが多いが、本資料のように演奏を聴く親友が表現されていないものについては、実のところ、琴を弾く人物が伯牙であるのかどうかは定かでない。
本資料は、明治22年(1889)に、愛知県西尾市の後田遺跡から、宝相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面と同時に出土したもの。直径17.5cm。
(図書寮文庫)
古代以前の陵墓は、中世になると朝廷による管理が行き届かなくなり、多くが所在不明になったといわれる。しかしながら、すべての陵墓がそうであったわけではない。紹介する文書は、そのことをうかがわせる資料のひとつである。
資料名にみえる「綸旨」とは、天皇の側近が、天皇の意思を他者に伝達するために作成する文書で、宿紙(しゅくし)と呼ばれる灰色の再生紙が用いられる。今回紹介する綸旨では、永正8年(1511)に、勘解由小路(かでのこうじ)家の当主とみられる人物に対して、後柏原天皇(1464-1526)の意思が伝えられている。勘解由小路家は、諸陵頭という陵墓管理を担当する朝廷の官職を世襲した家である。
資料の内容は、「大岡御墓領」なる所領の支配を、同家に認めるものである。大岡墓は、桓武天皇(737-806)の配偶者である吉子(生年不明、807年没)の墓である。被葬者が后位になく、また天皇の生母でもないためか、近代以降に陵墓として認定されることはなかったが、古代においては朝廷による管理の対象であった。
この資料に大岡墓の管理状況に関する直接的な言及はないが、勘解由小路家が同墓に関係する所領の確保に動いていたことは間違いない。同家による陵墓管理は、室町時代においても、ある程度の実体を伴うものであったと考えられているから、同墓についても、「御墓領」を財源として、それなりの管理が継続していた可能性もあろう。
(陵墓課)
本資料は、貴人にさしかける笠(蓋)をかたどった「蓋形埴輪」である。器材を模して作られた埴輪の中では最も多く出土しており、被葬者の権力を象徴するものであると考えられている。
本資料は大型品であり、笠部の一部のみが残存する。笠部上面中央の円形の孔は「軸受部(じくうけぶ)」で、上端には「立ち飾り」と呼ばれる装飾板が付いていたと考えられる。現存直径は65.1cmであり、製作当初はより大きく、実物の笠に近い大きさであったと推定される。笠部中位の突帯(とったい)下には放射状の線刻があり、笠の布張りの合わせ目が表現されたものとみられる。
昭和10年(1935)、室戸台風後の植樹作業中に前方部墳頂で埋葬施設(竪穴式石槨)の天井石が露出し、その周辺から多くの埴輪片が出土した。本資料もその一つであり、天皇陵の埋葬施設の直上に置かれた可能性が高い数少ない事例である。
(陵墓課)
本資料は、墳丘長200mを超える奈良県内でも有数の前方後円墳である巣山古墳からの出土とされる鍬形石の上半部の破片(上辺幅9.2cm)である。陵墓ではないが、明治年間に出土し、陵墓の考証資料として受け入れたもののひとつである。出土地に曖昧さが残るのは、受け入れ当時の文書が大正12年(1923)の関東大震災により焼失したことで詳細を確認できないためである。
鍬形石の名称は、鍬の形に類似するところから付けられたが、元々は弥生時代以来ゴホウラ貝という暖かい海域に生息する大型巻貝を輪切りにして腕輪として使っていたものが源流であることがわかっている。鍬形石は、緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)などの石材を使い、貝輪を模して製作された。写真の下側が欠けていなければおおむね楕円形の孔に復元され、腕を通す部分となる。古墳から出土する場合、実際に腕に装着しているような位置で見つかることもあれば、棺を覆う粘土に不規則に貼付けられていることもあり、腕輪をもとに作られているものの、実際に装着する機会は少なかった可能性が高いと考えられている。
また、古墳以外で当時の儀礼を行った場でも出土する事例が増えており、その重要な道具であったと推測される。
(宮内公文書館)
後柏原天皇(1464-1526)は第104代の天皇である。明応9年(1500)に践祚し、大永6年(1526)に63歳で崩御されるまでその地位にあった。令和8年(2026)は、崩御からちょうど500年の節目の年に当たる。
本図は、後柏原天皇の御陵を描いた絵図で、「文久山陵図写」と呼ばれる資料の一部である。資料名にみえる「文久山陵図」とは、江戸時代の末期に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。資料はその「文久山陵図」を描き写したもので、宮内公文書館に所蔵されている。
後柏原天皇は崩御の後、京都の東山にある泉涌寺(せんにゅうじ)で火葬され、遺骨は深草の地に建つ仏堂に納められた。この仏堂は再建や数度の改修を経て近代に至り、深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)という名の陵墓として管理されることになる。なお、当陵は後柏原天皇のほか、後深草(ごふかくさ)天皇(1243-1304)をはじめとする12方の天皇・皇族の陵墓でもある。
(図書寮文庫)
明治42年(1909)9月20日に石川県が発行した『石川県写真帖』は、皇室に献上されたのち宮内省侍従職で管理され、図書寮が昭和6年に受領した。明治時代の石川県内の様子がわかる貴重な資料である。
この写真は、加賀百万石で有名な前田家の居城であった金沢城を南西から眺める構図となっており、手前には犀川(さいがわ)に架かる桜橋が見える。写真中央部には金沢城本丸南側の高石垣(たかいしがき)、その右手側には兼六園の木々が見える。高石垣は前田家が金沢城の整備を始めた初期にあたる慶長年間(1596-1615)に構築された。その中でも、兼六園側の辰巳(たつみ)櫓跡の高石垣は城下町からよく見え、南側は段のない急勾配な石垣だったことから金沢城のシンボルとして知られていたが、明治40年(1907)頃に崩壊し、その後に積み直された際には安全対策で3段とされたため、現在は当時の姿を見ることはできない。
写真では金沢城の石垣の左側に、明治35年(1902)に建設され昭和14年(1939)に焼失した石川県会議事堂が見える。その左隣にある煉瓦造りの建築物は明治24年(1891)に完成した旧第四高等中学校本館で、現在も石川四高(いしかわしこう)記念文化交流館として見ることができる。
“百万石の城下町”の面影を残しつつ近代化していった金沢を見ることのできる資料である。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
石川県金沢市の中心部を北東の卯辰山(うたつやま)周辺から撮影した写真である。写真手前には現在のひがし茶屋街付近と浅野川(あさのがわ)が、中央に写る金沢城には今は失われてしまっている建築物を見ることができる。
写真では屋根に石をのせた町屋が目立つが、金沢城では江戸時代から鉛瓦を使用しており、この写真でも鉛瓦が白く輝いている金沢城の長屋を左上付近に確認できる。金沢城では重要文化財の三十間長屋(さんじっけんながや)や平成13年(2001)に復元された五十間長屋(ごじっけんながや)が有名だが、写真の長屋はそれらとは異なり、現在では失われている九十間長屋(きゅうじっけんながや)と考えられる。
九十間長屋の右側に見える洋風の建物は金沢に置かれていた旧陸軍第九師団司令部庁舎である。明治31年(1898)に完成し、現在は国立工芸館の一部として使用されている。司令部庁舎が建てられていた二の丸には幕末まで豪華な御殿や五十間長屋が存在していたが、明治14年(1881)の火災によって焼失してしまった。九十間長屋は焼失を免れ、撮影時は存在していたことがこの写真から分かる。
※画像には文字等を挿入している。
(図書寮文庫)
『千金方』は、7世紀半ばに孫思邈(そんしばく、?-682)によって編纂された、30巻から成る医学全書。成立後転写が繰り返されたが、1066年に宋王朝の校正医書局(こうせいいしょきょく)が校訂・刊行、広く流布した。日本には、寛平3年(891)には成立したとされる『日本国見在書目録(にほんこくげんざいしょもくろく)』に書名が見え、宋版本以前に伝来して、平安中期の医者丹波康頼(たんばのやすより、912-95)が天元5年(982)に編集した医学書『医心方(いしんぽう)』に引用した。本書は序及び巻1の1冊のみしか現存しないが、内容は、宋版本とは大きく異なる一方、『医心方』引用箇所との類似性が高いことなどから、宋版本以前の姿を残すものとして高く評価されている。
なお本書は、奥書や蔵書印などから天正3年(1575)まで丹波氏と並ぶ医者の家をルーツに持つ半井(なからい(和気(わけ))家に伝わったあと、医者吉田宗恂(よしだそうじゅん、1558-1610)を経て、医者多紀元堅(たきもとかた、1795-1857)の手に渡って多紀氏の文庫聿修堂(いっしゅうどう)に入り、明治維新後帝室博物館に移ったのち、当部所蔵となったことがわかる。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したものである。醍醐天皇(885-930)の命により、延喜9年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。
本書は50巻に上表・目録・歴運記を収めた別冊をあわせた51冊からなる。巻5以下19冊には坊城俊方(ぼうじょうとしかた、1662-?)が貞享5年(1688)正月より同5月にかけて書写した旨の奥書がある。残りの32冊は他の人の筆とみられている。ちなみに巻13は、版本もしくは版本を祖本とした本より書写されたものである。塙家の蔵書印である温故堂文庫印、塙保己一(はなわほきいち、1746-1821)が創設した和学講談所の印等が捺されている。
本書は「貞享本」(じょうきょうぼん)の名で広く知られ、文政11年(1828)に出雲松江藩から刊行された本(雲州本)等で校訂に用いられている。
(図書寮文庫)
明応5年(1496)正月7日、前関白九条政基(まさもと)とその嫡男で権大納言・左大将の尚経(ひさつね)が、自邸で殿上人の唐橋在数(からはしありかず)を殺害する、という事件が起こった。九条家の家政職員でもあった在数は、かねてより九条家領の経営をめぐって政基・尚経父子と対立しており、政基より出仕を禁じられていたにもかかわらず九条邸に押しかけ、父子と口論の末に殺害されたのであった。
前関白と現任の公卿が殿上人を殺めるという大事件に朝廷は動揺し、事件の処理は紛糾した。さらに、殺された在数と同族の公家たちが団結して厳しい処分を求めたことで、争点は尚経の解却(げきゃく、免官)の可否となり、そもそも最上位の摂関家の者を解却してよいのかどうかが議論された。
本文書は、この点に関して太政大臣一条冬良(ふゆよし)が後土御門天皇の勅問に答申したものである(画像はその前半)。事件を「言語道断の次第」とし、尚経の解却を「聖断」(天皇のご判断)に委ねるとしながら、軽率な解却はかえって朝儀の軽視を招く、と慎重な処分を求めている。結局、尚経の解却は見送られ、九条父子には出仕停止のみが言い渡された。
(図書寮文庫)
後柏原天皇(第104代、1464-1526)主催の禁裏着到和歌。着到和歌とは、定められた参加者達が指定の場所に出向いて、決まった題の歌を毎日1首ずつ詠んで、各々が書き込む、和歌の形式を指す。和歌の稽古は勿論、参加者の関係強化にも役立ったという。節日(せちにち、季節の変わり目にあたり年中行事のある日、節句)から始め、100日間で100題100首を詠じるのが一般的であった。
この時は永正2年(1505)3月3日から始めており、本資料は3月「十九日」、「雨後苗代」の題で詠じた1日分に相当する。冷泉永宣(れいぜいながのぶ、1首め)三条西実隆(さんじょうにしさねたか、2首め)等の廷臣が参内し、各々歌を詠み記した。3首め、無記名の「山もとのなはしろ…」歌は後柏原天皇の御製である。先着順のため、御製が後ろのほうに書かれることも多い。出詠者それぞれ御家流(おいえりゅう)の整った字ではあるが、「雨」「田」などの小さな変化も、原本ならではの楽しみである。
後柏原天皇は、応仁・文明の乱で荒廃した京都において、朝儀の復興に力を注がれた。詩歌や学問に造詣が深く、書を能(よ)くすることでも知られている。令和8年(2026)は後柏原天皇の五百年祭にあたる。
(図書寮文庫)
この起請文(きしょうもん)は、慶長12年(1607)12月3日、長丸なる人物が、右衛門佐高倉永慶(1591-1664)に対して提出したもので、御引直衣(おひきのうし)などの装束の着装技術相伝の誓状である。ちなみに起請文とは、約束・契約を結ぶ際に、神仏に誓いをたてる文書の様式。宮廷装束は、平安時代に萎装束(なえしょうぞく)から強装束(こわしょうぞく)へと移行し、自分ひとりでの着装が困難となり、前後の衣紋(えもん)者奉仕による衣紋道を生じた。その技術は当初徳大寺・大炊御門両家その後高倉・山科両家に継承された。両家は宮廷装束着装の技術指導を行うことにより、いわば衣紋道の家元となったのである。この起請文は、ほかの芸道と同様に、衣紋道技術相伝に際しての誓状で、長丸は天皇の日常装束である御引直衣をはじめとする装束の着装技術を相伝したあかしとして、その技術を他言しない旨、家元高倉永慶に約束したのである。差出人の長丸は、慶長6年の『言経卿記』に外様の小番衆のひとりとして確認できる人物で、元服前の堂上家子弟かとも思われるが、その姓などは不明である。ただ、当時の習いとして衣紋道の技術習得は必須であったようで、そのため高倉流に入門し教えを受けていたと推測される。当時の衣紋道入門の実際を知る史料として貴重である。
(図書寮文庫)
平安時代初期の漢籍目録。藤原佐世(ふじわらのすけよ、?-898)が勅命をうけて編纂した。『隋書』経籍志に倣い、当時日本に存在した漢籍(一部国書を含む)が列挙されている。着目すべきは『東観漢記』(後漢の歴史を記した漢籍)の項目(掲出箇所)に「件漢記吉備大臣所将来也、其目録注云…」とあることで、ここからは『東観漢記』が遣唐使の吉備真備(きびのまきび、695-775)によってもたらされたこと、その目録の注に、真備が『東観漢記』の善本を求めながらも遂に入手しえなかった旨が記されていたことがわかる。
本書は奈良県にある室生寺(むろうじ)の旧蔵本であり、表紙に「室生寺」の記載がある(リンク先画像の7コマ目)。書風等から平安時代末期の書写と考えられており、現存最古の写本である。箱書によると、本書は江戸時代の学者・狩谷棭斎(かりやえきさい、1775-1835)が古書肆から購入したもので、その後所蔵者を転々としながら、明治時代初期に棭斎の門人・森立之(もりりっし、1807-85)の手に渡り、明治13年(1880)に筆工・高木寿穎(たかぎじゅえい)の手に移ったことがわかる。箱の表面(掲出箇所)に「献品」とあるのは、高木寿穎が本書を帝室博物館へ献上したことを示している。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の思想家林子平(はやししへい、1738-93)の著作。日本を地続きの隣国を持たない「海国」と捉え、海岸防備の必要性を訴えている。オランダ船の装備の紹介など、長崎の見聞で得た知識も加えつつ、江戸湾防備の重要性を訴えることに主眼が置かれた。第1冊に記載された、江戸の日本橋より唐山(清国)・阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり、の警句(掲出の画像より前の部分、リンク先画像の12コマ目)は、江戸湾に外国船が侵入する可能性を指摘したものとして有名である。
寛政3年(1791)に38部を出版したが、江戸幕府から「奇怪異説」(きかいいせつ)を交えて執筆・出版した罪に問われ、翌年発禁のうえ子平に蟄居(ちっきょ、外出禁止のこと)処分が下された。
本資料は明治17年(1884)、親族より子平の自筆の書として皇室に献納されたものである。掲出図は第5冊にある子平が構想した「文武兼備大学校」の絵図で、水練場や武器庫以外に天文台・文庫(書庫)・医学館などが記載され、軍事技術のみならず、天文学や医学の必要性も主張されていたことがわかる。
(図書寮文庫)
江戸幕府の勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。
嘉永6年(1853)7月18日、ロシア使節プチャーチン(1803-83)が長崎に来航し、日本との国境・通商等に関する条約の締結を要求したため、川路は露使応接掛として現地に赴いた。この日記は、江戸出発前日の嘉永6年10月29日から江戸帰府後の同7年2月25日までの出来事を記述している。
掲出箇所は12月21日、ロシア側から川路に贈られた西洋時計について、川路が図を交えて解説した部分。川路によると、時計は高さ約30㎝、紫黒色の石にて造られ、上の丸い部分に大きな針が3本あり、「リン」(鈴)によって時刻を知らせる、下の丸い部分にも針が3本あり、1本は1か月、1本は1週間、1本は1年にそれぞれ1度廻る、左右のうち1つは寒暖計、もう1つはロシア文字が記されているが、随員の箕作阮甫(みつくりげんぽ、1799-1863)等に尋ねてもわからなかった。川路は、欄外にも箕作から聞いたロシア暦について頭注を付すなど、時計の仕様について詳述している。
日露交渉もさることながら、西洋の技術について川路の観察が記されているところも、この日記の見逃せない魅力の一つである。
(図書寮文庫)
『北海道写真帖』(全4冊)は、明治44年(1911)8月25日、北海道行啓中の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が北海道庁を御訪問になった際に、北海道庁長官から献上されたものである。
その写真帖に収められた掲出の2枚の写真は、開拓使設置3年後の明治5年と、皇太子の行啓直前である同44年6月の札幌の街を写している。「創業ノ札幌」「現時ノ札幌」とそれぞれ題され、背景の藻岩山等の稜線をもとに比較すると、一目瞭然で街の発展の様子がわかる。「現時ノ札幌」の撮影地は、創成川畔の南二条と説明があることから、皇太子が宿泊された豊平館から500m圏内と推測でき、また、中央に写る通りは行啓中のお道筋と一部が重なる。皇太子も、写真と同様の街並みを御覧になったことであろう。
全4冊に及ぶ写真帖には、行啓先の函館・小樽・札幌・旭川・釧路・室蘭・新冠など各地の名所のほか、開墾や道路開削工事・農業・水産業などの様子、さらには明治時代における北海道の変貌ぶりを捉えた写真が、説明を付して収められている。写真帖の内容は、単なる道内各地の紹介にとどまらない、北海道開拓の歴史を伝えるものであり、来道の皇太子に献上した意図がうかがわれよう。
(宮内公文書館)
昭和21年(1946)2月22日、香淳皇后(1903-2000)は社会事業を御視察のため、東京都芝区の恩賜財団済生会、杉並区の恩賜財団戦災援護会双葉園(ふたばえん)に行啓された。本資料は、双葉園において児童による遊戯や唱歌などを御覧になった際の写真である。皇后は宮中服姿で椅子に腰掛け、着座した園児たちと同じ方向に目を向けられている。
双葉園は、昭和8年の児童虐待防止法施行に伴い設置された児童養護施設を前身とし、戦後は主に戦災孤児を受け入れた。空襲により施設が全焼したため、行啓時には焼け残った民家を買い受けて使用していた。下検分にあたった侍従・宮内事務官の入江相政は、日記に、従来であれば皇后が行啓されなかったような小さな家であるとの感想を書き残している。
戦後と異なり、戦前には皇后の社会事業施設行啓は限定的で、御名代等の差遣が一般的であった。本事例が皇族の居所を除く皇后の戦後初の行啓であることに鑑みて、戦後における皇后と国民のかかわりを考える上で象徴的な一枚といえよう。