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(陵墓課)
鍬形石とは、過去に当ギャラリーで紹介したことがあるが、本来は貝の腕輪をかたどって碧玉(へきぎょく)と呼ばれるきれいな緑色の石材で作られた権威を象徴する器物の一種であり、大きな古墳を築くことのできる、比較的地位の高い人物の所有品という側面をもっている。しかし、本資料は大半の部位を欠いているため、「残欠」という名称が付随しており、見た目の全体像もわかりにくい。掲出した画像で縦方向の現存長が7.9cm である。
考古学で扱う資料は、一般に「出土品」などと呼ばれるように、地中に埋没していたことで、壊れていたり、表面が磨り減ったりした状態で発見されることが多い。一方で、見た目も立派で全体像がわかる資料の方が、博物館の展示などでは重宝されるが、それだけでは資料の価値は決まらない。破片資料は、時には意図的に壊したりしたと考えられる状況で発見されることもあれば、壊れていることによって、外からでは見えない作り方や断面の情報が得られることがあり、無傷の資料では得られない情報を提供してくれることも多い。
能登半島で発見された本資料の場合は、近畿地方を中心に出土する鍬形石の分布域の東縁にあたり、古墳時代の王権の影響力が何らかの形で反映されたものと考えられ、それを示す重要な資料として位置づけられる。発見されてから既に100年以上が経過しているが、未だこの分布域より東での新資料の発見はない。いずれ、さらに東の地域で発見される時が来るかもしれないが、本資料が重要であることに変わりはない。
(図書寮文庫)
藤原宗忠(1062-1141)の日記『中右記』(ちゅうゆうき、宗忠が「中御門右大臣」と称されたことによる)の写本は多いが、九条家旧蔵の当該本は鎌倉初期の書写とされ、紙背には多くの文書等が残る。そのなかの1点がこの嘉禄2年(1226)仮名暦(かなごよみ)断簡で、現存する仮名暦としては石川武美記念図書館所蔵『請来六勘物』紙背の承元元年(1207)の断簡に次いで古いとされる。
日本の律令制下中務省に属した陰陽寮(おんようりょう)では、吉凶を判断するために様々な注記(暦注〈れきちゅう〉)を書き込んだ暦(具注暦〈ぐちゅうれき〉)を毎年作成・頒布したが、暦注を簡略にして仮名文字としたのが仮名暦。平安後期頃、宮廷の女性たちの求めに応じて作成され始めたといわれ、日常的に使う暦として簡潔でわかりやすかったことなどから、次第に民衆社会にも受容されていったと推定される。
鎌倉前期成立といわれる『宇治拾遺物語』収載の「仮名暦あつらへたる事」という話では、ある女房が若い僧侶に仮名暦を書いてもらっており、すでに身近なものとなっていたことがわかる。この仮名暦も11月6日・7日条に合点(がってん、確認などのために付けられた斜線)があり、実用の暦であったのだろう。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(陵墓課)
本資料は、福岡県京都郡苅田町に所在する御所山古墳から出土した碧玉製の管玉を首飾り状に連ねたものである。管玉とは、石材を円筒形に加工した玉類の一種で、縦方向に穿たれた孔に紐を通すことで装身具として使用された。
本資料は、計10点の管玉から構成されており、個別の長さは1.2~1.8cmである。管玉一つ一つに目を向けると、太さや色調は個体ごとに少しずつ異なり、一部には朱が付着しているようすを確認できる。勾玉のような特徴的な形はしていないが、写真のように連なることで、碧玉の美しい青緑色が強調され、目を奪われる。
本資料が出土した御所山古墳は、古墳時代中期の豊前(ぶぜん)地域を代表する墳長約120mの前方後円墳である。明治20年(1887)に実施された学術調査の記録によると、管玉などの装飾品は被葬者の頭部周辺に集まっていたとされ、本資料は装身具として被葬者が身につけていたと考えられる。
(図書寮文庫)
延喜式(50巻)は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。
本資料は壬生(みぶ)家旧蔵で、巻1から巻8と巻13を欠き、2巻ずつを1冊(巻14のみ1冊)とした21冊本である。各冊の表紙に「共廿五」とあることから、本来は25冊であったことがうかがえる。ただし巻14のみ1冊であることから、もとより巻13を欠いていたとみられている。8冊に壬生家の蔵書印である「禰家蔵書」(でいけぞうしょ)印が捺される。
書写に関する奥書等は存しないが、江戸初期の本とみられる。全体を通して付されている傍訓やヲコト点等、古い写本の流れを受け継ぐ他、巻17には他の写本にあまりみられない「弘」「貞」といった標注が見えている。
鈴鹿(すずか)文庫旧蔵(現在大和文華館所蔵)の延喜式板本に清岡長親(きよおかながちか、1772-1821)が文政3年(1820)に壬生以寧(みぶしげやす、1793-1847)所蔵本で校訂した旨の奥書が見えるが、その本が本資料に当たるとみられる。
(陵墓課)
愛媛県松山市に所在する波賀部神社古墳から出土した金環である。金環とは古墳時代の耳飾りのことであり、本資料は垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)ともいわれるタイプの耳飾りの一部である。垂飾付耳飾は主環に垂飾(垂れ飾り)が付属したものであるが、本資料は垂飾が失われており、主環に連結された小さな銀製の遊環が残るのみである。主環の平面形はやや楕円で幅約20㎜、断面形は正円で直径3.5㎜である。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料の主環は、純金特有の黄色みが薄く、破断面も銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金をほどこした銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品であった可能性がある。このことは、蛍光X線分析で銅と銀が強く、金と水銀がわずかに検出されたことからも裏付けられる。
(図書寮文庫)
明治の初めまで、天皇・上皇の御所への公家衆の出仕・宿直は、当番制で編成されていた。これが「小番」(こばん)と呼ばれる制度である。
小番に編成されたのは、昇殿を許された家々(堂上(とうしょう))の出身者であり、小番への参仕は彼らの基本的な職務でもあった。その始まりには諸説あるが、基本の形式は、後小松天皇(1377-1433)を後見した足利義満(1358-1408)によって整備されたとされる。
本資料は、禁裏小番(天皇の御所の小番)に編成された公家衆の名前が番ごとに記されたもので、「番文」(ばんもん)や「番帳」(ばんちょう)ともいう。その内容から、正長元年(1428)8月頃、後花園天皇(1419-70)の践祚直後のものと推定される。
番文を読み解くと、当時は7番制(7班交代制)であり、31家32名の公家衆が編成されていたことが分かる。この時期の小番の状況は、当時の公家衆の日記からも部分的に窺えるが、その編成の詳細は、本資料によって初めて明らかになる事柄である。また番文としても、現在確認できる中では最も古い時期のものであり、当時の公家社会やそれを取り巻く政治状況、小番の制度等を知る上で重要な資料といえる。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(図書寮文庫)
本書は、三条西実隆(さんじょうにしさねたか、1455-1537)による、文明13年(1481)9月1日から12月12日まで禁裏で催された着到千首和歌の歌稿である。通常、着到和歌は複数人が同一の百首の題を100日間にわたって1日1首ずつ、決められた場所に参集して詠むものである。しかし、本着到和歌は同一の百首題ではなく、千首の題を10人で分担している。実隆以外の出詠者は、後土御門天皇(1442-1500)、公卿の大炊御門信量(おおいみかどのぶかず、1442-87)、中院通秀(なかのいんみちひで、1428-94)、海住山高清(かいじゅうせんたかきよ、1435-88)、甘露寺親長(かんろじちかなが、1424-1500)、四辻季経(よつつじすえつね、1447-1524)、姉小路基綱(あねがこうじもとつな、1441-1504)、冷泉為広(れいぜいためひろ、1450-1526)や、女官の三条冬子(さんじょうふゆこ、1441-89)。なお、本着到和歌を清書した資料が『続千首和歌』(鷹・647)として当部に伝わっている。本書では1つの題に対して2~3首の案が示され、また飛鳥井雅康(あすかいまさやす、1436-1509)による添削も見られる。本書と清書本を比較することで添削がどのように反映されたかを知ることができる。当時の和歌の詠まれ方の実態を示す貴重な例といえよう。
(宮内公文書館)
明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった小山(現栃木県小山市)・高橋家の御座所を撮影した1枚。同家は旧日光街道脇本陣で、明治9年(1876)6月、明治天皇は東北・北海道巡幸の折に、栃木県内で初めてお立ち寄りになった地である。栃木県は東北・北海道へと至る陸羽(りくう)街道(旧奥羽街道)が通る交通の要衝であった。明治14年の巡幸時にも再び、小山駅高橋満司宅が行在所となった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、収集されたもので、大正・昭和初期の様子がうかがえる。
その後、小山行在所となった家の門前には、大正14年(1925)6月に記念碑が建てられた。揮毫(きごう)は明治天皇側近として宮内省で侍従などを歴任した藤波言忠(ふじなみことただ)による。昭和8年(1933)11月には史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく明治天皇の「史蹟」として指定された(昭和23年指定解除)。
(宮内公文書館)
この写真は、明治38年(1905)11月に栃木中学校(前第二中学校、現栃木県立栃木高等学校)に建てられた聖駕駐蹕碑(せいがちゅうひつひ)である。「元帥公爵山縣有朋(げんすいこうしゃくやまがたありとも)」の題字になるこの碑は、明治32年の栃木県行幸に際して、第二中学校が行在所(あんざいしょ)となったことを記念して建立された。
当初、この行幸では第二中学校に隣接する新築の栃木尋常小学校が行在所にあてられる予定だった。行幸に先立ち、侍従の廣幡忠朝(ひろはたただとも)などが下見を行ったところ、新築であるがゆえに、尋常小学校の壁が乾燥しきっていないことが判明した。廣幡らの報告を受け、宮内省内で再検討が行われた結果、行在所は尋常小学校から第二中学校へと変更された。他方で、尋常小学校の関係者を中心に、行在所が変更されたことに対する失望も広がった。そこで栃木町町民総代から宮内大臣宛に、同校を物産陳列所とし、天覧を願いたいとの請願書が提出された。この請願は聞き入れられ、明治天皇は、物産陳列所として設営された尋常小学校において、県内の名産品などを天覧になった。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月6日、栃木県那須郡那須村高久(現那須町)における御統監(ごとうかん)のご様子を写した明治天皇の御写真。明治天皇が統監された地は御野立所(おのだてしょ)として、那須野が原を眼下に見下ろす眺望のきく高台であった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、昭和2年(1927)に臨時帝室編修官長三上参次より寄贈された。
明治42年の栃木県行幸では、11月5日から11日までの間、陸軍特別大演習統監のため滞在された。明治32年の行幸と同様に、栃木県庁を大本営とした。この大演習は非常に大規模なものとなり、演習地も高久(現那須町)、泉村山田(現矢板市)、阿久津(現高根沢町)、氏家(現さくら市)など広範囲に及んだ。明治42年の行幸後、明治天皇の高久御野立所には記念の木標が建てられ、同地にはその後、大正4年(1915)11月に石碑が建立された。昭和9年11月には文部省によって「明治天皇高久御野立所」として史蹟に指定された(昭和23年指定解除)。現在は「聖蹟愛宕山公園」として整備されている。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)に竣工した日光田母沢御用邸のうち、赤坂離宮(旧紀州藩徳川家武家屋敷)から引き直した「御三階」の切断図面である。御用邸の竣工に際しては、明治22年に新築された御車寄も赤坂離宮から移築されている。「御三階」は天保11年(1840)に建設された紀州藩徳川家屋敷の中でも中心的に用いられた建物である。明治6年に紀州藩徳川家より献上され、明治22年まで赤坂仮皇居として利用されていた。
「御三階」は数寄屋風書院造りで、日光田母沢御用邸へ移築されたのちは、1階を御学問所、2階を御寝室、3階を御展望室として利用されていた。1階と3階には共通する大きな丸窓の意匠があり、御用邸としての趣もさることながら旧紀州藩徳川家の武家屋敷の様子も今に伝えている。建物としては、3階へ向かうにつれて数寄屋造りの意匠が強くなり、2階と3階には数寄屋で使う面皮柱と書院で使う角柱が交互に用いられるなど珍しい意匠が採用されている。特に3階からは、大正天皇が御製(ぎょせい)にも詠まれた鳴虫山(なきむしやま)を見晴らすことができる。日光田母沢御用邸はこうした引き直した建築と既存の建築(旧小林年保別邸)を組み合わせるかたちで竣工している。
(宮内公文書館)
この写真は、明治43年(1910)8月に栃木県を襲った大雨による水害の様子を収めた1枚である。上記に写る宇都宮駅前の様子以外にも、栃木県内各地の被災状況を収めた写真帳「栃木県災害写真 宇都宮三光館製 明治43年8月」が、アルバムとして明治天皇の御手許(おてもと)にあげられた。
この月、梅雨前線の活動に加え、台風の発生などにより関東を中心に東日本一帯を水害が襲った。栃木県では、洪水やそれにともなう家屋の倒壊、浸水などに見舞われ、死者10名、行方不明者4名、家屋の全壊・半壊はあわせて347軒、家屋流出が125軒、浸水にいたっては20,836軒という被害があった。このような広範囲に及ぶ水害をうけて、栃木県ほか1府10県に対し、天皇皇后より救恤金(きゅうじゅつきん)下賜(かし)の思召(おぼしめし)があり、栃木県には2,000円が下賜された。また、日光田母沢御用邸にご滞在中であった皇太子嘉仁親王(こうたいしよしひとしんのう)(後の大正天皇)は、8月13日から東宮侍従(とうぐうじじゅう)有馬純文(ありますみあき)を栃木県内の各被災地へ差遣(さけん)するなど、被害状況の把握に努められた。
(宮内公文書館)
大正13年(1924)ころ、東宮御用掛の西園寺八郎を筆頭に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と同妃(後の香淳皇后)の御避暑御用邸新設候補地の調査が進められた。本史料は、大正14年4月に作成された調査の復命書である。
復命書の冒頭では、避暑行啓の必要性を述べ、現在所有する御用邸のうち葉山は近隣の発展が著しく警備に難があり、沼津・宮ノ下・熱海・塩原は狭隘(きょうあい)であるとして、新たな御用邸を設置する必要性を説いている。復命書にあげられている候補地は、油壷(現神奈川県)、那須嶽山麓地方(現栃木県)、箱根(現神奈川県)の3か所である。このうち、那須嶽山麓地方については、気候が爽涼(そうりょう)であり景色も雄大であること、既に那須御料地として宮内省が土地を取得しており土地の売買が不要であること、「御運動」のための土地を十分に確保できていること、などが記されている。結論として海岸地方の第一候補を油壷、山麓地方の第一候補を那須として復命書をまとめている。
最終的に大正15年7月、那須御料地内に御用邸が新設され、那須御用邸と命名された。同月16日に御用邸は竣工し、8月12日には裕仁親王が初めて那須御用邸へ行啓になっている。
(宮内公文書館)
明治天皇は明治9年(1876)の東北・北海道巡幸で、初めて栃木県を訪問された。巡幸は天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることをいい、特に明治5年から同18年にかけて6度にわたる日本各地への巡幸は「六大巡幸」と呼ばれる。本史料は日光山の絵図で、行幸啓に関する公文書である「幸啓録」に収められている。絵図には、中央に日光山内の二社一寺である、日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、日光東照宮(とうしょうぐう)、日光山満願寺(まんがんじ、現・輪王寺)の境内地、左上に華厳滝(けごんのたき)や中禅寺湖が精細に描かれている。
明治9年の巡幸では、6月6日に宇都宮を出発されたのち、行在所である満願寺に入られた。翌7日は大雨の中、日光山内の東照宮や二荒山神社を巡覧された。雨の収まった8日には7時30分に満願寺を出発、正午には中宮祠(ちゅうぐうし)へ到着され、中禅寺湖や華厳滝をご覧になった。同湖はその後、この行幸に因んで「幸の湖(さちのうみ)」とも呼ばれるようになった。
(宮内公文書館)
日光御猟場の区域を示した図面である。御猟場は、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治15年(1882)5月、関東近郊に「聖上御遊猟場」が設定されることとなり、この時、群馬県、埼玉県、神奈川県、静岡県のほか、栃木県上都賀郡(かみつがぐん)の一円が指定された。その後、明治17年3月に指定の区域内において鳥獣猟が禁止となり、7月には禁止区域を拡張して、「日光御猟場」の名称が定められた。
本史料は明治19年の御猟場区域図で、広大な区域のため「狩猟ノ不便」で「取締向」も行き届かないことから、区域の縮小を行った際のものである。中央の青い部分に記された「幸之湖」は、現在の中禅寺湖にあたる。中禅寺湖や男体山(なんたいさん)を囲む山林一帯が御猟場区域に指定されたことが分かる。日光御猟場では雉(きじ)、鸐雉(やまどり)、兎(うさぎ)、鹿、猪、熊、羚羊(れいよう)などを対象に狩猟が行われていた。その後、日光御猟場は区域の変更を伴いながらも継続したが、大正14年(1925)に廃止された。
(宮内公文書館)
日光御用邸の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。日光御用邸の前身である地はもともと鎌倉・室町時代に座禅院のあった場所で、江戸時代には「御殿地跡」として長らく空き地となっていた。明治に入り、この地に東照宮別当寺大楽院の建物が移築され、「朝陽館(ちょうようかん)」と称された。朝陽館には明治23年(1890)以降、明治天皇の皇女である常宮(つねのみや)昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮(かねのみや)房子内親王(後の北白川宮成久王妃)がお成りになった。朝陽館の敷地と建物は明治26年に宮内省が買い上げ、日光御用邸が設置された。以後、主に常宮・周宮の避暑地として、ほぼ毎年7月末から9月中旬の約2か月の間利用された。明治29年には、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がご滞在になっている。
建物は和風木造平屋建てで、一部が2階建てとなっている。終戦後、日光御用邸は廃止となり、種々の変遷を経て、現在日光山輪王寺本坊及び寺務所として使われている。現存する建物は日光御用邸の面影をそのままに伝えている。
(宮内公文書館)
日光田母沢御用邸は、明治32年(1899)6月に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑を目的として建設された。御用邸は、民有地や日光町有地など2万7000坪あまりを宮内省が購入したもので、その中には、第三十五国立銀行の頭取などを歴任した小林年保(こばやしねんぽ)の別荘地「田母澤園」もあった。御殿は小林の別荘地の建物と、赤坂離宮から「梅の間」や「御三階」などを引き直して建てられている。
史料は、明治34年1月に調製された田母沢御用邸の庭の図面である。庭は小林の別荘地に付随するものであった。御用邸は田母沢川と大谷川(だいやがわ)が合流する地点にあり、湧水や滝もある庭園であった。また、史料の右下には馬場があった。嘉仁親王は、しばしば御運動のために乗馬されたり、時には乗馬のまま隣接する帝国大学の植物園や日光の町へお出かけになったりしている。御用邸は、時代の経過にあわせて増改築が繰り返されているが、庭園についてはほとんど手を加えられておらず、滝や湧水は無いが、現在まで設置当初の景観を留めている。