時代/地域/ジャンルで選ぶ
(陵墓課)
丁寧に磨き上げられた美しい土器。本資料は、崇神天皇陵外堤南西側から出土した古墳時代前期の土師器(はじき)である。高さ10.7cm、口径8.3cmと小型で、丸い底部と外側に大きく開く口縁部が特徴的である。こうした形の土器は「小型丸底壺(こがたまるぞこつぼ)」と呼称され、小型器台(こがたきだい)の上に載せて使用された。
底部は粘土を削り取ることで丸く整形し、外面は幅1㎜程度の細かい単位で横方向に磨くことで、平滑に仕上げられている。器壁(きへき)は薄く丁寧に仕上げられ、胎土は非常に精良で、焼成も良い。
小型丸底壺は、小型器台・有段口縁鉢(ゆうだんこうえんはち)と合わせて「小型精製土器(こがたせいせいどき)」と呼ばれており、丁寧に作り込まれていることから、儀礼に使用されたものと考えられる。こうした土器は、近畿を中心として九州から東北まで波及し、その分布は前方後円墳の全国的な広がりと重なることが指摘されている。これは広域的に共通した儀礼の成立を示唆するものであり、まさに古墳時代前期を象徴する遺物といえるだろう。
(陵墓課)
この埴輪が模している鳥の種類は何だろうか。大阪府に所在する継体天皇三嶋藍野陵外堤北側から出土した本資料は、外堤に立てるための円筒部と鳥の体部から構成されており、残存高は約54.1cmである。
本資料では、鳥が円筒部から伸びる管状の止まり木にとまっている。その脚先を見ると、平たい粘土板に3本のヘラ描き線を入れて、水かきを表現していることから、この鳥は水鳥とわかる。より詳細に鳥の種類を見分けるには、鶏冠(とさか)の有無や嘴(くちばし)の形状といった情報を必要とするが、本資料は頭部を欠損している。しかしながら、頸(くび)の背面を見るとリボン状に結ばれた紐が確認できる。頸に紐を巻いた水鳥を表現していることから、本資料が模している鳥は鵜飼いの鵜だとわかる。人物埴輪が登場して以降、人と関係のある動物として、鵜を模した埴輪が作られるようになるが、本資料もそのひとつとして重要な埴輪といえる。
なお、全国の鵜形埴輪には頸に紐を巻くとともに、魚を咥(くわ)えているものもある。本資料で失われてしまっている頭部はどのような表現がされていたのか、想像してみてはいかがだろうか。
(陵墓課)
玉は、古代を彩る至宝とも呼ばれる古墳時代の代表的なアクセサリーである。髪、耳、首、胸、手首、足首などに着装され、人々を魅了してきた。
本資料は、愛媛県妻鳥陵墓参考地の横穴式石室から出土した径1.3cmの銀平玉である。外形は円形で、表裏に平坦な面をもつ。中空であり、表裏の薄い銀板2枚が側面中央付近で接着される。上下の側面には孔が開けられ、糸を通せるようになっている。当参考地からは琥珀棗玉(こはくなつめだま)、碧玉管玉(へきぎょくくだたま)、水晶切子玉(すいしょうきりこだま)、ガラス製丸玉も出土しており、本資料とこれらを組み合わせて被葬者に着装されていたと考えられる。
希少素材をふんだんに用いて多様な形態が作り出された玉の様式は、古墳時代後期にみられる特徴である。また本資料のような貴金属製玉は、朝鮮半島南部から伝わった渡来系玉類と呼ばれる。本資料は最新技術を用いて日本列島で製作されたものと考えられ、国際色豊かな古墳時代後期を特徴づける器物であるといえる。
(陵墓課)
愛知県豊田市の根川古墳(根川1号墳)から出土した耳飾りである。本資料の名称は色調から「金環」としているが、金環には、銀の芯材に鍍金(ときん)したもの、銀の含有量が多い金からできているもの等、様々な材質のものがあり、必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は、純金特有の黄色みが薄く、破断面観察でも銀色であることから、銅芯を銀で覆い鍍金を施した銅芯銀張鍍金(どうしんぎんばりときん)製品の可能性がある。上述の材質については、肉眼観察以外に、蛍光X線分析により銅と銀が強く、金と水銀が微量に検出されたことも推定を裏付けるものである。その輝きは純金製品とほとんど変わらないものであっただろう。
この耳飾りは、直径22㎜ほどの大きさで、断面の厚さは4.7から6.5㎜である。平面形はやや楕円形であり、その断面形も楕円形である。金属製耳飾りの断面は、飛鳥時代になると楕円形になることが知られており、本資料も飛鳥時代の遺物と考えられる。
(図書寮文庫)
京都市山科区にある勧修寺(かじゅうじ)は、風雅な庭園で知られる古寺である。その南西の山裾に、藤原定方(さだかた、873-932)の墓とされる石碑が建つ。定方は平安時代の貴族で、勧修寺の創建者と伝えられる人物。石碑は、江戸時代の半ばに、彼の子孫である勧修寺流藤原氏の公家たちが、定方を顕彰するために共同で建てたものである。碑文の作者は高名な儒学者である伊藤東涯(とうがい)。字形はその弟、伊藤蘭嵎(らんぐう)の筆跡に基づく。
本資料は、勧修寺流藤原氏の一派である葉室(はむろ)家に伝来した、当該碑文の模刻本(もこくぼん)である。模刻本とは、石碑等の銘文の字形をそっくり写し取った版を作り、その版を用いて作った印刷物や拓本のこと。まるで石碑の拓本のように見えるが、実は石碑に直接紙を当てて取った拓本ではない。しかも文字の配列も模刻本の判型に収まるように改変されているので、この資料を見ても元となった石碑の姿はイメージしがたい。ただし、石碑の表面は剥落が進みつつあるので、欠失箇所の字形を復元する上では、参考となる資料といえる。
(図書寮文庫)
公家の日記は自身で書くのが普通であるが、より詳しい記述ができる人物が周囲にいる場合、他人に自分の日記を書かせたり、他人の日記を引用したりということもあった。
江戸時代前期の公家、九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の日記『道房公記』においても、他人の日記の引用がある。そのなかでも、掲出箇所は、寛永19年(1642)6月18日条で、押小路師定(おしのこうじもろさだ、1620-76)の自筆日記が合綴(がってつ)されており、いささか特殊である。掲出画像の右半丁は道房の筆、左半丁が師定筆である。左右で紙の色と大きさが異なり、文字はたとえば「御」字(右では2行目「御飯」、左では2行目中ほど「内侍所御辛櫃」)を見比べると別筆であることが分かりやすい。また、師定が自身を指した「予」との一人称が残っている。
内容は、明正天皇(1623-96、御在位1629-43)の新造内裏への遷幸(せんこう)に伴う神鏡渡御(しんきょうとぎょ)の儀式に関するもので、師定はこの儀式に参仕しており、道房は他の公家とともにこれを見物している。当該部分も、『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に活字化されている。
(図書寮文庫)
九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の自筆日記のうち、掲出箇所は寛永20年(1643)3月21日条で、九条家で欠けている延喜式の巻3・巻5を書写するために、日野弘資(ひのひろすけ、1617-87)から同書を借用した記事である。
延喜式は古代の法典である律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。九条家には遅くとも鎌倉初期の書写とみられる延喜式が伝えられているが(東京国立博物館所蔵)、こちらも巻3・巻5を欠いているので、この記事に見える欠巻と一致する。一方、日野家の本については、当部所蔵の勢多家旧蔵本(172・123)の山田以文(やまだもちふみ、1762-1835)の本奥書等からその存在が知られる。
九条家に伝来した延喜式のうち巻13は、尾張徳川家で書写され、それに基づき50巻揃いとなった板本(はんぽん、印刷本のこと)が刊行され一般に流布した。道房公記では、徳川義直(とくがわよしなお、1601-50)より続日本紀(しょくにほんぎ)等を借りた記事が見え、両者の間に交流があったことがうかがえるが、延喜式の貸借に関するような記事は見えない。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 七』(宮内庁書陵部、令和7年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
中世・近世の公家は、儀礼や政務、和歌会などといった様々な行事に参仕し、あるいはその運営を行っていた。また、皇室や他の公家・武家との日常的な交流も、生活をおくる上で欠かせないものであった。そのため、こまめに日記を書き、受け取った文書(公文書や書状など)を整理し、自身の送った文書を写し保管している者も少なくなかった。
『九条道房公雑書』は、そのような授受の文書などを取りまとめた資料。九条道房(1609-47)は、日記『道房公記』(九・5119)を記しているが、本資料でしか確認できない事柄も多い。特に武家との日常的な交流については、あまり日記には記さなかったらしい。掲出した寛永19年(1642)閏9月13日付の大年寄(大老)酒井忠勝(1587-1662)の書状は、道房からの贈り物に対する忠勝の礼状で、九条家の家来である朝山吉信にあてたもの。本資料には、文書のほかに、官位申請の書類、和歌題短冊なども収められており、日記と合わせることで、江戸時代の公家の政治的・文化的な生活が詳細に復元できる。
(図書寮文庫)
江戸時代、幕府がキリスト教を禁止・弾圧するなか、信徒を発見するために用いた「踏絵」の図案の模写。キリスト像(磔刑図、2種類)、ピエタ(「哀れみ」の意、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母)、ロザリオの聖母、エッケ・ホモ(「この人を見よ」の意、鞭打たれるキリスト)の絵が描かれ、末尾に説明が書かれている。掲出箇所はロザリオの聖母の図で、幼いキリストを抱き、聖ドミニコたちにロザリオを授ける聖母像が、ロザリオをかたどった枠内に描かれる。
古賀本。寛政の三博士のひとり古賀精里(こがせいり、1750-1817)に始まる古賀家は、代々幕府の昌平坂学問所の儒学者だったが、3代目の茶渓(さけい、1816-84)は西洋事情に強い関心を寄せ、蔵書には西洋関係書も多い。同家の蔵書は明治22年(1889)に献納されたが、本書もそのひとつ。
(図書寮文庫)
豊原統秋(とよはらむねあき、1450-1524)が著した舞楽の解説書。統秋は室町戦国時代に活躍した楽人(宮廷音楽を担う下級官人)で、笙(しょう)を家業とする豊原家の出身。冒頭が欠損しており正式な書名は不明だが、79におよぶ楽曲について、まず曲名を掲げ、それぞれの由緒や口伝を一字下げで仮名交じりに記す。巻末に、永正6年(1509)閏8月、上意によってこれを択び進上するものである、という奥書および統秋の花押(かおう)がある。この時期、統秋は後柏原天皇(1464-1526)に笙の師範として仕える一方、室町殿足利義尹(1466-1523、室町幕府第10代将軍。のちに義稙と改名。)に召され、曲名や譜面についての諮問に答えており(『実隆公記』永正6年6月20日条、8月5日条)、本書も室町殿の上意により進上された可能性がある。歴代の足利将軍は笙の稽古に熱心で、初代尊氏(1305-58)も統秋の先祖豊原龍秋(1291-1363)から笙の秘曲を授けられた。なお統秋はこの後、永正8年から9年にかけて、楽道に関する大著『體源抄』(たいげんしょう、書名に「豊原」の2字が組み込まれている)を撰述している。
(図書寮文庫)
室町前期~江戸前期の短冊594枚が貼られた手鑑(てかがみ)。手鑑とは、古い筆跡を鑑賞する流行に応じ、鑑定家である「古筆見(こひつみ)」たちにより、書物の断簡や古文書・短冊などを集め、筆者を記した鑑定書「極札(きわめふだ)」を附してアルバム状に仕立てたもの。外箱の底の貼紙によれば、宝永5年(1708)に古筆見のひとりで古筆本家第6代古筆了音(こひつりょうおん、1674-1725)が作製したという。
手鑑は身分の高い人物の筆跡から並べるのが常で、本帖でも天皇・皇族にはじまり、連歌師で終わっている。掲出部分は、伏見宮・有栖川宮・八条宮の諸親王の短冊が並ぶ部分。
本帖は広島藩主浅野家に伝来した。
(図書寮文庫)
森鷗外(もりおうがい、森林太郎〈もりりんたろう〉、1862-1922)が宮内省図書頭だった時代に編纂され、神武天皇から明治天皇に至る歴代天皇の諡号(しごう)の由来、出典について考証したもので、大正10年(1921)に宮内省図書寮から100部が刊行された。図書寮文庫には、大正10年刊行の2点のほか、草稿2点(原本・副本)、校正刷1点の、計5点を所蔵する。草稿原本(272・206)は、鷗外が朱書や墨書で書き込みを行い、草稿副本(272・204)は、草稿原本の鷗外筆校正を別の人物が丁寧な形で書き直し、鷗外が朱書や墨書で更なる加筆修正を施している。掲出図版は校正刷であるが、全体を通して朱墨、墨書、朱ペン等、複数の筆記具による書き込みが見られ、その大部分が鷗外筆と認められる。書き込みの内容は、誤字脱字、出典文献、引用本文の加筆修正、体裁の修正や指示等、多岐にわたっており、刊行に至るいずれの段階においても鷗外自身が全体の構成から細部に至るまで積極的に関与していることが分かる。
(陵墓課)
本資料は、奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した、「三角縁神獣鏡」に分類される鏡である。直径22.1㎝。
三角縁神獣鏡とは、鏡の縁の断面が三角形で、主な文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙、聖獣、その他の図像に、それぞれ、数、組合せ、表現などの違いがあるほか、主文様を配する内区(ないく)の外周に文様や銘文(めいぶん)を配するかどうかなどの違いがあり、ひとくちに「三角縁神獣鏡」と呼ばれていても、その文様の構成はバリエーションに富んでいる。
本資料は、円錐形(えんすいけい)の乳(にゅう)によって6分割された内区に、神仙像と聖獣像を交互に3体ずつ配置する、「三神三獣鏡」の一種に分類されるものである。
内区の外周にも乳によって10分割された文様帯(もんようたい)があり、ここにも、画像上方から時計回りに、カエル、四つ足の獣(けもの)(青龍(せいりゅう)か)、四つ足の獣(白虎(びゃっこ)か)、2匹の魚、カエル、カメ(玄武(げんぶ)か)、ゾウ、鳥(朱雀(すざく)か)、1匹の魚、四つ足の獣と、様々な図像を見ることができる。
三角縁神獣鏡の文様の中に、本資料のゾウや、以前に本ギャラリーで紹介した仏など、当時の日本列島在住者には描くことができないと思われるものが含まれていることは、その製作地、製作者を考えていく上で見過ごせない点である。
(図書寮文庫)
尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)が、北朝第4代、後光厳天皇(ごこうごんてんのう、1338-74、御在位1352-71)に向けて、書道の入門書として意見をまとめたものである。その成立は、奥書より文和元年(1352)11月15日と知られるが、当時15歳の天皇は、この日に読書始(とくしょはじめ)を行われており、読書始に続けて行われる手習始(てならいはじめ)のために進覧されたものと考えられる。筆、紙、墨といった用具、手本の選び方や稽古の心構え等が20項目にわたってまとめられている。「入木」の語は、書道や習字を意味し、東晋の王羲之(おうぎし、303-361)の書いた字の墨が、木板に深く染み込んでいたという故事に基づく。末尾には、朝野魚養(あさののなかい、生没年不詳)から尊円親王までの能書23人の略歴を記す。安永9年(1780)4月18日、尾崎積興(おざきかずおき、1747~1827)の書写奥書がある。有栖川宮本。
(陵墓課)
本資料は、環(かん)の内部に一匹の鳳凰(ほうおう)の首を表現した環頭柄頭である。柄頭とは、大刀(たち)の柄の端部(=グリップエンド)として装着された部材のことである。金銅製品(こんどうせいひん)の一種であり、銅の鋳造で成形された後にタガネ彫りで文様が表現され、金メッキされている。
中心飾の鳳凰に着目すると、両個体のモチーフには若干の違いがあり、左の個体は崩れた冠毛(かんもう)と角が環と一体化して目の表現は省略される。右の個体は冠毛が短く、角が環と一体化しており、目が表現される。両個体ともに、環には二匹の龍の頭部・胴部・前足・後足がみられ、表裏で二匹の龍が反転するように配置される。環からは柄に差し込む舌状の部分がのびており、この部分は茎(なかご)と呼ばれる。
本資料は中国・朝鮮半島に源流をもち、日本列島に定着した外来系環頭大刀(がいらいけいかんとうたち)の装具の一種である。単鳳環頭大刀(たんほうかんとうたち)は日本列島内で200例近い事例が知られており、本資料は6世紀後半頃に日本列島で製作されたものと考えられる。諸外国との外交時に佩用(はいよう)された大刀であるという説もあり、政治的価値が大きい器物であったと考えられる。
(図書寮文庫)
鎌倉時代中期の公卿、世尊寺(せそんじ)家第9代経朝(つねとも、1215-76)の説く書道の故実を、68項目にわたってまとめたものである。ここでいう「右筆」は、書道や書芸を意味する。元亨2年(1322)12月15日、世尊寺家第11代行房(ゆきふさ、生年不明-1337)によると思われる奥書には、経朝が文永12年(1275)関東下向の折、安達泰盛(あだちやすもり、1231~85)に伝えた内容の書き残しの条々を部類立てしたものとあり、成立の経緯が窺える。世尊寺家は三蹟(「三跡」とも、さんせき)の一人、藤原行成(ふじわらのゆきなり、972-1027)を祖とし、代々朝廷の書役を務めたが、鎌倉幕府の中枢にあった安達泰盛への伝授は、関東との関係をも有していたことが分かる。筆、紙、墨といった用具や願文、額の書様といった故実に加え、「自関東被進京都御教書幷事書様」(掲出図版第2項目)もあり、鎌倉幕府を意識した内容も盛り込まれている。
なお行房は、別掲『入木抄』(有栖・5180)の著者、尊円親王(そんえんしんのう、1298-1356)へも伝授を行っている。
(陵墓課)
本資料は、琴柱形石製品と呼ばれる。この名で呼ばれる石製品の形は多様であり、字面のとおり楽器である琴の弦を支える「琴柱」の形に近い形態(アルファベットの「Y」のような形)がある一方で、まったく違う形のものも存在する。弦楽器としては縄文時代から琴の原型があり、古墳時代には埴輪に表現されることもあるが、実際に発掘された資料で琴に付随したと考えられるものはないため、現在の研究からは元々「琴柱」を象(かたど)ったものは少ないと考えられている。
本資料は、奈良県奈良市に所在する巨大古墳がひしめく佐紀古墳群に含まれる瓢箪山古墳(前方後円墳:墳丘77m)の前方部から3点が出土したものである。大正2年(1913)に土砂採取で出土したため、中央と右端の1点は欠損部があるなど(中央は補修している)、納められていた細かい状況は不明である。また、形が「琴柱」とは異なっており、漢字の「工」に似ることから「工字型」や横軸を翼に見立てて「飛行機型」と呼ばれたこともある。いずれにしても琴の一部と考えることは難しい。
同じ形態のものが別の古墳から調査によって出土しているが、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などと連なる状況が知られており、実際の使用方法としては、首飾りなどの一部を構成する玉の一種のようなものであったと考えられる。石材は、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれるやや灰色がかった色味のやわらかいものが使用されている。この形態のものは数が少なく近畿地方の古墳から出土することが多いが、新潟県糸魚川市(いといがわし)笛吹田遺跡(ふえふきたいせき)では建物跡から出土しており、古墳以外からの出土事例も知られている。
(図書寮文庫)
江戸時代の幕末に描かれた、蓮華峯寺陵の図である。蓮華峯寺陵は、京都の北嵯峨に所在する陵墓。後宇多天皇及びその母后の御陵であるとともに、亀山天皇以下3方の分骨所でもある。図の右側には、御陵の中核をなす大型の石造五輪塔1基と、小型の石造五輪塔2基が描かれる。これら3基の石塔は、実際には木造の覆い堂の中に安置されている。左側に描かれている建物がそれである。
掲出図は、図書寮文庫が所蔵する「文久山陵図(草稿)」という資料の一部。資料名にみえる「文久山陵図」とは、幕末に行われた陵墓の修補事業に関連して作成された画帖である。本資料はこの「文久山陵図」作成時の草稿(下図)に相当するものと考えられている。本資料には、「文久山陵図」と画題・構図を異にする図がいくつか収載されており、掲出図もその一つである。蓮華峯寺陵を描いた図は、本資料中に3点ある。そのうち、掲出図を除く2点は「文久山陵図」収載の図と酷似する。しかし、掲出図のような覆い堂と石塔のみを描いた図は、本資料独自のものである。
(図書寮文庫)
本書は、永正9年(1512)4月26日に行われた知仁親王(ともひと、1496-1557、のちの第105代後奈良天皇〈御在位1526-57〉)御元服の記録で、紀伝道家の公卿東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが、1460-1530)の日記『和長卿記』の別記である。内容は「永正九年若宮御元服記」(『続群書類従』公事部所収)として知られているものではあるが、本書は室町後期写の善本である。知仁親王は第104代後柏原天皇(御在位1500-26)の第二皇子で、この年4月8日に親王宣下があって知仁の名を賜り、26日に小御所において元服の儀が行われた。時に親王17歳。元服は加冠とも称され、理髪(成人の髪に結う)・加冠(冠を被せる)が行われ、成人となる儀式である。これ以降、髷(まげ)を結い日常的に烏帽子(えぼし)ないし冠を身に着ける。儀式の中心である理髪の役は頭右中将正親町実胤(おおぎまちさねたね、1490-1566)、加冠の役は関白九条尚経(くじょうひさつね、1469-1530)がつとめた。本書が九条家に伝来したのはこのあたりに理由があろうか。和長は当日、童形装束の儀に参仕し、故実への関心より小御所の室礼の図などを含めて、元服の儀全般にわたって詳細な記録を残したのである。ちなみに本書には『続群書類従』本と同じく永正9年の持明院基春(じみょういんもとはる、1453-1535)の元奥書、さらに寛永20年(1643)の九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の一見奥書がある。九条家本。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土したと伝えられる水鳥形埴輪である。現在は首から頭部にかけてのみ残存しているが、本来は、嘴(くちばし)や胴部もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約32.5cmである。
水鳥形埴輪は、ガン・カモ類などの水鳥をかたどった埴輪を指し、本資料は、首が長いことから、白鳥を現しているとの意見もある。
頭部の両側面には穴があけられており、嘴の近くには竹管による表現が2箇所見られる。一見すると、目と鼻孔を現しているように見えるが、水鳥形埴輪の鼻孔は、扁平な工具を刺突して細長く表現することが多い。また、本資料の目は低い位置にあり、写実的とはいえない。
一方、両側面の穴で耳孔を、竹管を押しつけて目を現した事例も存在する。耳孔を穿つ事例としては鶏形埴輪があり、本資料の表現は酷似しているが、鶏冠の表現や痕跡はない。水鳥形埴輪でも耳孔を表現した事例は確認されているが、穴ではなく工具の刺突や竹管による表現が多い。
本資料は見方によって印象が変わる、魅力と謎の多い埴輪である。