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(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
明治元年(1868)9月20日,明治天皇は東京へ行幸になるため京都を出発された(東幸)。行列には,総勢3,300人余が供奉(ぐぶ)したという。10月12日,品川宿に宿泊した御一行は,翌13日の午前7時ごろ同宿を出発された。高輪にあった久留米藩有馬頼咸邸にて小憩,次いで増上寺にて小休した後,午後2時ごろ江戸城西の丸(東京城)へ入られた。錦絵は,高輪の大木戸付近を通過する東幸の行列を描いたものである。背景には,小憩した有馬邸や当時英国公使館が置かれていた東禅寺,泉岳寺などが書き込まれている。中央の鳳輦(ほうれん)に明治天皇がお乗りになっている。史料は,軸装されており宮内省臨時帝室編修局が収集した錦絵のひとつである。臨時帝室編修局の蔵書印と合わせて,「東京林縫之助蔵書」とあることから,同局が林氏から入手した可能性が高い。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日に新橋鉄道館で開催された鉄道開業式の様子を写した写真である。明治2年(1869)11月,鉄道の敷設が決定されると,東京・横浜間の工事が始められた。開業式に先立つ,明治5年(1872)5月7日には,仮開業として品川・横浜間の旅客営業が開始されている。明治天皇も,7月12日に中国・西国巡幸の帰途,開業式に先駆けて横浜から乗車された。
鉄道開業式は,重陽の節句にあわせて9月9日に開催の予定であったが,雨天のため9月12日に延期となった。写真の右奥に写る建物が新橋鉄道館である。『明治天皇紀』によれば,当日は「霖雨(りんう)全く霽れ(はれ)、快晴にて微風(びふう)なし」とあり,晴天のもと大勢の人びとが,線路に沿って集まっている様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治14年(1881)当時の赤坂仮皇居を描いた図面である。同地は,もと紀州徳川家の屋敷地であり,明治5年(1872)と明治6年(1873)の二度に分けて皇室へ献上された。前者には赤坂離宮が,後者には青山御所がそれぞれ設置されている。
明治6年(1873)の皇城炎上後,赤坂離宮が「仮皇居」と定められた。「仮皇居」は,紀州徳川家の武家屋敷をそのまま利用しており,明治天皇と昭憲皇太后,英照皇太后のお住まいと宮内省の庁舎が置かれていた。しかし,お三方のお住まいとして使うには狭小であり,明治7年(1874)に英照皇太后は青山御所へお移りになっている。その後赤坂仮皇居には,明治10年(1877)に太政官庁舎が,明治14年(1881)に祝宴の場として御会食所が新築されるなど,増改築が進められていった。
(宮内公文書館)
明治11年(1878)7月5日,明治天皇が英照皇太后とともに,青山御所に新設された能舞台で演能をご覧になる場面が描かれている。古典芸能のなかでも能楽(能・狂言)は,明治維新を経て衰退の一途をたどっていた。そこで能楽の再興に尽くされたのが,能楽鑑賞に親しまれた英照皇太后であった。英照皇太后は昭憲皇太后とともに,青山御所能舞台と芝公園能楽堂で度々能楽を御覧になるなど,能楽の振興に寄与された。
本資料は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇に奉呈された附図の稿本2巻の内の一つである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で,「明治天皇紀」に所載される主な場面が描かれている。
(宮内公文書館)
ロシア太公キリル・ウラジミロウィチが来日した際の集合写真である。有栖川宮威仁親王,伏見宮貞愛親王,閑院宮載仁親王の皇族方のほかに,内閣総理大臣大隈重信,内務大臣板垣退助,元帥山縣有朋ら政治家も映っている。明治31年(1898)7月10日,宿泊先として滞在した芝離宮で撮影された。皇室による外国人貴賓の接待では,当初浜離宮延遼館が主に用いられたが,やがて老朽化のため取り壊されると,それに代わって用いられたのが芝離宮であった。
本写真を収める「外賓接待写真帳」には,接待の場となった芝離宮で撮影された外国人貴賓との集合写真が数多く収録されている。明治12年(1879)から大正15年(1926)までの全3冊で,写真自体は,明治14年(1881)以降外国人貴賓の接待事務を主管する宮内省の担当部局(式部寮・外事課・式部職等と変遷)で保有されてきた。昭和29年(1954)になって写真帳として仕立てられた。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(図書寮文庫)
家仁親王(やかひと,1703-67,桂宮第8代)が古歌を書き,京都の絵師狩野正栄(かのうしょうえい,近信,生没年未詳)がそれに合った絵を描いた帖。桂宮旧蔵本。家仁親王は和歌にも入木道(じゅぼくどう,書道)にも力を注いだ。当文庫には家仁親王が詩歌を書き正栄に絵を描かせたものがこのほかにもある(『四季月帖』〈F4・155〉など)。
なお,この帖に描かれる月は満月と下弦の月である。満月は7首目「鐘の音もきこえぬたびのやま路にはあけゆく空をつきにしるかな」(画像)のように月の入りは朝,下弦の月は夜に月が出て朝に南中となるので5首目「やすらはでねなまし物をさよふけてかたぶくまでの月をみしかな」のように描かれる。昼に見える上弦の月が歌(和歌・短歌)に詠まれるのは明治以降になる。
(陵墓課)
本品は「車輪石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。楕円形を呈しており,長径は14.0cmである。その名称から,「石でできた車輪」を連想するかもしれないが,その用途は車輪ではない。そもそもわが国において,古墳時代に車輪を用いる「車」は確認されていない。それではその用途は何かといえば,以前に当コーナーで紹介した鍬形石(くわがたいし)と同様に,所有することに意義を持つ宝物であったと考えられる。鍬形石はゴホウラという巻貝から作られた腕輪を原形とするのに対し,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪を原形とする説が有力である。その理由は,車輪石の表面に見られる放射状の表現が,オオツタノハの貝殻のかたちによく似ているからである。鍬形石と車輪石をどのように使い分けていたのかについては様々な学説があるが,鍬形石は男性に,車輪石は女性に副葬されたのではないかという説がある。この「車輪石」という名称も,鍬形石と同様に,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が名付けたとされており,作られた場所や流通などについて謎の多い出土品である。
(図書寮文庫)
明治期の礼法研究家松岡止波(まつおかとわ,止波子)が作ったとされる,色紐・色紙(いろひも・いろがみ)で結方と折形の雛形を作り貼付した見本帳。組紐や熨斗袋に残る日本のラッピングのかたちである。
松岡家は,江戸後期の松岡辰方(ときかた,1764-1840)以降,公家・武家の礼法や有職故実(ゆうそくこじつ)を家業とした。松岡家旧蔵本の中には『結方口伝(むすびかたくでん)』(209・1782,江戸末期写)など,これに対応する口伝書がある。本書は市販のノート(附属資料として保管)に貼られていたが,現在は当部修補係によって厚みのある冊子に仕立てられ保管されている。
なお,結方と折形の名前に「真…」「草…」とあるのは「真行草」(書道・華道・茶道などに用いられる表現法の三態)による。結方78点,折形139点。
(陵墓課)
管玉は,円筒状の玉で,その単純な形から勾玉ほどの注目を浴びることは少ないが,縄文時代から存在しており,弥生・古墳時代を通じて勾玉とともに玉類の中心的な位置を占める。写真の管玉は碧玉製であり,濃い緑色が美しい。碧玉はもっとも多く使用される石材で,素材としての「碧玉」,色彩としての「緑」は,管玉のキーワードといってもよいほどである。一方,緑色の碧玉が主体の中にあって,弥生時代の新潟県佐渡島では地元で産出する鉄石英(てつせきえい)と呼ばれる赤い石を使って赤色の管玉が作られた。また,古墳時代の岩手県では久慈市(くじし)で産出する琥珀(こはく)を使って,まさに「琥珀色」の管玉の製作も行われていた。地域によっては,ご当地の石を使って,装飾に彩りを添えていたようである。
写真の管玉は,大きく見えるが2点とも長さが7~8㎜足らずと非常に小さいものである。このように小さい管玉は弥生時代に多く,本資料も弥生時代に使われていた可能性がある。小さいものではあるが,紐を通す孔が丁寧にあけられ,美しく磨かれるなど大きな玉に負けない輝きを放っている。
(図書寮文庫)
彦根城(滋賀県彦根市)は,徳川家康の重臣井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の合戦の戦功として佐和山城(同市内,石田三成の旧居城)を拝領したのち,その息子直勝(なおかつ)が彦根山に移転して築城を開始し,その弟直孝(なおたか)の代に完成した城郭である。琵琶湖に臨んで水運に長じたほか,中山道にも近く,西日本への抑えとなったといわれている。大老など江戸幕府の重職を担った井伊家の居城として幕末まで続き,現在は現存の天守が国宝に指定されている。
掲出の写真は,城北東の大洞(同市内)から松原内湖(戦中・戦後の干拓により消滅した琵琶湖の入り江)をはさんで彦根城の本丸を望んだもの。中央に天守の上層階が見えるほか,右端に西の丸三重櫓,左端にやや下がって天秤櫓が見える。かつての彦根城の姿をとどめた貴重な写真といえるだろう。撮影年代は定かでないが,他の写真のキャプションに記された施設名などから明治30~40年代に編まれたアルバムと推定される。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,本品は大正5年に西塚古墳の石室から出土した。写真左側は鉸具(かこ)と呼ばれるバックル部分,中央と右側は銙板(かばん)と呼ばれる帯の飾りの部分である。全ての部材が銅に金メッキをほどこした金銅製で作られている。鉸具の飾り板部分は破損しているが,鳳凰が描かれていたようである。銙板は少なくとも7点分は確認でき,写真ではその中の2点を示している。写真中央のものには龍,右側のものには鳳凰が描かれている。龍と鳳凰は,彫金技術によって浮き出るよう立体的に表現される。銙板の下側には鈴が装着されており,この帯を身に着けた人物が動くたび,周囲の人々には鈴の音が聞こえていたであろう。西塚古墳から同時に出土した他の品々からみて,本品は5世紀後半頃に使われたものである。
本品と同様のモチーフと彫金技術がみられる事例は,熊本県江田船山古墳出土例など日本列島の古墳出土品の中に数例が確認できる。龍と鳳凰のモチーフや,これを立体的に表現する彫金技術は,当時の日本列島では定着していないことから,本品は朝鮮半島南部,あるいは中国大陸からもたらされたものである可能性が高い。5世紀後半は,中国の歴史書に「倭の五王」が登場する時代にあたり,本品は当時の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
「宿曜勘文」(すくよう/しゅくよう かんもん)とは,占いや呪いを行う宿曜師(すくようじ/しゅくようじ)と呼ばれた僧侶が,個人の運命や吉凶を占った文書のこと。承元2年(1208)11月付けの本文書は,翌3年に40歳になるある人物について占ったもので,前後の文書との関係や年齢などから公家飛鳥井家の祖雅経(まさつね,1170-1221)に宛てたものと推測される。本文には「妻子や眷属に不快なことが起こる」「春・夏ごろ,潔白でも他人の誹謗に遭う」「秋・冬ごろは裕福になり名声も得る」「正・4・7・8・10・11月は厄月」などと書かれているが,実際にその年の雅経の運命がどうだったのかは記録がなく定かではない。
九条家本『賭弓部類記』巻1-2の紙背に残された一通であり,残存例が決して多くない宿曜勘文のひとつとして,貴重なものである。『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
妻鳥陵墓参考地から出土した金色の耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものには,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,その材質には様々なパターンがあり,全てが純度の高い金でできているとは限らない。本品は環の開口部の端面(たんめん)が黒ずんでいることから,銀製の芯材に鍍金したものの可能性があるが,蛍光X線(けいこうエックスせん)などによる理化学的分析を行わないと確定させることができない。
2点とも環はほぼ正円を描くが,画像の向かって左のものは,直径18~18.5㎜,厚さ2~2.4㎜,向かって右のものは,直径20~21㎜,厚さ2~2.2㎜と,サイズがわずかに異なる。環の断面は,2点ともにおおむね円形であるが,環の開口部付近のみ写真上側が平らになっていて,円形になっていない。この平らな部分は,材を円形に曲げる際にできたものの可能性がある。
耳環は,本来両耳に着けてセットで使用されるものであるが,本品の2点は先に述べたようにサイズがわずかに異なっており,元々セットであったかは不明である。
(図書寮文庫)
この文書は,九条家本『賭弓部類記』巻2のうちの1紙の紙背で,もとは某の書状の礼紙(第2紙)であった。右端にはその「六月九日」の日付や宛名書きの「少将殿」などが見えるが,それとともに,紙の全体にわたってぼんやりと左右逆の文字が並んでいるのも確認できるだろう。これは「墨影文書(ぼくえいもんじょ,墨映文書とも)」と呼ばれるもので,紙どうしが湿気を含んだ状態で長時間圧着されると,にじんだ墨が隣の紙にうつって起こる現象である。
この墨影文書のもとの文書も,同じ『賭弓部類記』巻2の紙背に存在する。ただし,中途で切り分けられ,ばらばらの状態で残されており,それだけでは本来のかたちがわからなかった。それが,この墨影によってもとはつながった1通の書状だったと復元できるのである。これらの書状が不要となったのち反故紙としてストックされ,裏を返して『賭弓部類記』を書写されるまでの間の,紙のありようをさまざまに物語っている。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。