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(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,幕末維新期,薩摩藩の大立者であった小松清廉(1835-70)の明治元年(1868)閏4月17日付の木戸宛の書簡。文中に「徳川御所置(=御処置)」の文言があり,画像にも「家名相続は徳川亀之助(家達)」「秩禄高百十万石」「移封の地は駿府」と見える。別に「徳川御所置」という文言を含む書簡もあるので,木戸・小松という薩長首脳部の間で,当時慶喜隠居後の徳川家の処遇をめぐる議論がなされていたことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。
(図書寮文庫)
これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。
(図書寮文庫)
江戸初期に写された竹取物語の絵巻物。富士山が、物語の最後の場面の,かぐや姫が帝に贈った不死の薬を,帝が勅使に命じて焼かせた場所として描かれる。この不死の薬を焼かせたことによって「富士(不死)山」となった説,また不死の薬を大勢の兵士が山に運んだことから「富(多くの)士(兵士)山」とする説の二つの地名起源説話がある。通常絵巻物には詞書(ことばがき)といって物語本文もともに記されるが,本書では本文がなく絵のみが描かれている。
(図書寮文庫)
円山応挙(1733-95)が描いた富士山の図に,有栖川宮織仁親王(おりひと,1753-1820)が讃(画讃とも,絵の余白などに書き添えられた文章・漢詩・和歌のこと)を付された掛軸。「竜渕王」は,織仁親王が文化9年(1812)の出家後に称された号である。讃は後年に加えられたもの。「雲きりも及ばぬふじのたか根にはおもひくらぶる山の端ぞなき 竜渕王讃」。
(図書寮文庫)
富士山を各地から撮影した写真。もともとは大正天皇の御手許写真であったものが昭和12年(1937)に書陵部に引き継がれた。画像はさったトンネル(現在の静岡市清水区)から富士山を写したものである。写真に写っている鉄道の線路が単線であることが窺えるため,線路が開通した明治22年(1889)から複線となる明治31年7月までの間の写真であると推測される。
(図書寮文庫)
桂宮初代の智仁親王(としひと,1579-1629)による富士山の図。元和3年(1617)に描かれたもの。同年に親王が徳川秀忠に対面するために江戸へ赴かれた折に記された『江戸道中日記』によれば,親王は実際に富士山をご覧になったことが分かる。
(図書寮文庫)
在原業平(ありわらのなりひら,825-80)とされる「昔男」からはじまる物語。本書は室町中期に写されたもの。画像は,男が「東下り」をする道中に,富士山を見て夏であるのに雪が降り積もる様を「ときしらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん」と和歌に詠じた場面。
(図書寮文庫)
延喜5年(905)に成立した初めての勅撰和歌集。本書は享禄2年(1529)に三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455-1537)が書写をした。画像のうち,富士山が詠まれた和歌は「ふじのねのならぬ思にもえはもえ神だにけたぬむなし煙を」。富士山は和歌の世界では,実景よりも恋の歌に多く詠じられた。また,噴煙の有無にかかわらず煙を立てる姿が詠まれた。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治10年(1877)から同13年までのイギリス留学中に収集したロンドンの写真。画像はシティの証券取引所で,現在は高級ショッピングモールになっている。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治19年(1886)から5年間に及ぶドイツ留学中に収集したベルリンとポツダムの写真。画像は19世紀末に電化される以前のベルリン馬車鉄道の証券取引所駅。
この写真には右下に浮印があり,かすかに「1882 berlin」と読み取れる。証券取引所駅は1882年の開業で,現在はハッケシャー・マルクト駅となっているが,開業当時の面影を残している。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は明治22年(1889)に開催されたパリ万国博覧会を見学しており,その際に収集したパリの写真帖。画像はエトワール凱旋門。エトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いの勝利を記念してナポレオン・ボナパルトの命で1806年に建設が開始され,ナポレオン没後の1836年に完成した。