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(図書寮文庫)
本書の内容は,平安時代後期の公卿で,管絃の名手であった藤原師長(もろなが,1138-92)が編んだ琵琶の譜面集成。本書は正平10年(1355),後村上天皇(第97代,南朝,御在位1339-68)に授けられた際のもので,裏には伝受された後村上天皇御自身による書き付けが見られる。黄蘗(きはだ)で染められた和紙に書かれており,南朝に関する史料が少ない中,貴重な史料の一つである。なお,「三五」とは琵琶の異称で,長さが三尺五寸であったことに由来する。
(図書寮文庫)
本書は,光厳天皇(北朝初代,御在位1331-33)の宸筆や関連文書をまとめたもので,1通目と3通目が光厳天皇の宸筆。1通目は元徳3年(1331)に御自身の即位を願って伊勢神宮に奉じた文書の,3通目は所領と皇位継承について書かれた文書の,それぞれ控え。
(図書寮文庫)
本書は,崇光天皇(北朝第3代,御在位1348-51)によって書写された,琵琶の最秘曲とされた啄木(たくぼく)の秘事口伝に関するもの。譜面の他,撥(ばち)の持ち方や弾き方などの秘伝も図示されているが,描き直しをされている箇所も見られる。朱線が引かれた後の部分は,崇光天皇の第1皇子の栄仁親王(よしひと,1351-1416)が書き継いでいる。
(図書寮文庫)
近江仁正寺藩(にしょうじはん)藩主市橋長昭(ながあき)が桜井雪鮮(さくらいせつせん)に描かせたもの。江戸時代後期に存在していた様々な種類の桜の花を美しく描いた画帖で,このように彩色が施された精密な桜の絵は,この時期としては非常に珍しい。画像は普賢象(ふげんぞう,普賢堂とも)という桜で,皇居東御苑にも同じ品種の桜がある。
(図書寮文庫)
日本でもっともよく知られた詞華集(アンソロジー)。藤原定家撰。書かれた年次(文安2年〈1445〉)のわかる最古の百人一首の写本。画像冒頭は小野小町の「はなの色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」。
(図書寮文庫)
霊元天皇(御在位1663-87)は和歌に力を注がれた天皇である。また能書でも知られている。
寛文13年(1673)3月21日の水無瀬殿法楽(後鳥羽天皇を祀る水無瀬神宮に献ずる法楽和歌)のうちの一首を掛け幅に仕立てたもの。松間花(まつのあいだのはな/しょうかんのはな)の題で詠まれた霊元天皇宸筆の御詠草。「立ちまじる松のときはにとりそへて千世もちらすな花の春風」と書かれている。(天皇は,通常自らの御製に御名を記されない。)
(図書寮文庫)
霊元天皇が古歌をお書きになった桜と楓の短冊。短冊本体に絵が描かれていて,輪郭に沿って切り取られた美麗な品である。桜には藤原定家(1162-1242)の「かざしおる道行人の袂までさくらに匂ふ二月の空」,紅葉には慈円(1155-1225)の「詠(ながめ)つる心の色をまづ染て木のはにうつるむら時雨哉」が書かれている。有栖川宮・高松宮に引き継がれていたもの。
(図書寮文庫)
平安時代中期から人々に愛され続けている和歌と漢詩文のアンソロジー。和歌は1首,漢詩文は対句や四六駢儷文(しろくべんれいぶん)の秀句を抜き出した形で書かれている。とくに漢詩句は朗詠されたり,文章の手本にされた。画像は,藤原為家筆と伝える鎌倉時代の写しで,冒頭は,花の題でおさめられた在原業平の歌「よの中にたえてさくらのなかりせばはるの心はのどけからまし」。
(図書寮文庫)
土佐派の絵師土佐光孚(みつざね,1780-1852)の絵に,有栖川宮第7代韶仁親王(つなひと,1785-1845)が,和歌を画讃として書き込まれた掛け幅。「よしの山花のさかりもしるきまでふもとの川に色ぞうつろふ」と詠まれている。有栖川宮の歴代親王は,和歌と入木道(じゅぼくどう,書道のこと)にご堪能だった。秋篠宮殿下や常陸宮妃殿下も有栖川御流の書道を受け継がれている。
(図書寮文庫)
明治41年(1908)の嘉仁親王(よしひと,後の大正天皇)東北御巡啓にあたって撮影された青森県下の写真帖。嘉仁親王は9月23日から28日の5日間,弘前市や青森市に御滞在になった。両市内の学校や弘前公園,軍艦三笠や奥羽種馬牧場を御訪問になり,南部駒踊や佞武多(ねぷた)などの伝統芸能も御見学された。
(図書寮文庫)
明治41年(1908)の嘉仁親王(よしひと,後の大正天皇)東北御巡啓にあたって撮影された盛岡市内の写真帖。嘉仁親王は9月28日から10月2日の5日間盛岡市に御滞在になり,県庁や市内の学校を巡啓。物産や鉄器の実演を御見学。写真帖には,行啓時に御旅館として利用した南部邸や盛岡公園,同年に新造された南部利祥(なんぶとしなが)の銅像の写真も収められている。
(図書寮文庫)
東北各地の名勝を収めた写真帖。雑誌『太陽』編集者で山形県米沢市出身の大橋乙羽(おおはしおとわ)による撮影。明治30年(1897)の『太陽』に同題の写真が掲載されていることから,これ以前に撮影された写真と推測される。写真帖には,茨城県の平潟に始まり,福島県の松川浦,青森県の浅虫温泉,秋田県の男鹿半島や八郎潟,山形県の亀岡文殊堂や宮城県七ヶ宿等の写真が収められている。
(図書寮文庫)
桂宮家旧蔵の伊達政宗書状。すべて八条宮家の家司生島宮内少輔秀盛に宛てた書状。年次を欠いているが,内容や自署・花押の形から,元和から寛永年間の頃に書かれたとされている。この時期は八条宮家初代当主智仁親王(としひと),2代智忠親王(としただ)の代にあたる。伊達政宗と八条宮家の交流が伺える史料。全9通の内1通は,寛永11年(1634)のものと推測される政宗自筆の書状。
(図書寮文庫)
明治41年(1908)の嘉仁親王(よしひと,後の大正天皇)東北行啓を記念して作成された山形県の写真帖。嘉仁親王は9月15日から19日の5日間米沢市及び山形市に御滞在になり,市内の学校や織物工場,山寺等を御巡啓。写真帖には行啓先の学校や織物工場,県庁や山寺等が収められている。
(図書寮文庫)
浮世絵師北尾重政(きたおしげまさ)が描いたとされる相馬野馬追(のまおい)祭の絵図の版本(版木で印刷したもの)。野馬追祭は福島県浜通北部(旧中村藩下)で行われている祭事で,旧暦五月の中の申の日を中心に三日間行われた。絵図には江戸時代の野馬追祭の様子が生き生きと描かれている。
(図書寮文庫)
本書は,『令義解』(りょうのぎげ,養老律令の注釈書)より神祇の法令にかかわる部分を抄出したもの。江戸時代に書写された写本だが,伊勢神宮の祭主(さいしゅ)をつとめた藤波家に伝えられたもの。祈年祭についての最古の文献である『令義解』の内容を伝える貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代の仁和元年(885)に関白藤原基経(もとつね)から光孝天皇に献上された,年中行事の項目を記した『年中行事御障子文』(衝立に書かれた行事一覧表)を,江戸時代に抄出したものと考えられる資料。2月の記事に祈年祭の項目がみえ,平安時代には既に宮中の年中行事として認識されていたことがわかる。
(図書寮文庫)
古代の法典『延喜式』(えんぎしき)などから祈年祭の記事を抜き出すなどして調査した書物。江戸時代末期に成立したものと考えられる。祈年祭の歴史的変遷を知る手がかりとなる資料で,江戸時代の知識人にとっても古い時代の祈年祭が深い関心の対象であったことがわかる。