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奈良県葛城市に所在する小山古墳から出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。書陵部では,本資料のように金色に輝く耳環の名称を,その色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものの中には,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,材質には様々なものがあり,金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は純金特有の黄色みが淡いことから,金と銀の合金で作られている可能性がある。金と銀の合金は,その色調から「琥珀金(こはくきん)」とも「エレクトラム」とも呼ばれ,銀の比率が高くなるにつれて,金色が薄れて銀色が強くなる。この材質についての所見はあくまでも観察によるものであり,材質を確定させるためには,蛍光X線(けいこうエックスせん)などの理化学的分析が必要となる。
本資料の2点は,全体をみると,ともに直径18㎜ほどで,厚みは1㎜から2㎜である。画像右側のものは正円形に近く,左側のものは楕円形に近いといえるが,大きくは変わらない。環の本体をみると,その断面形はともに正円形である。耳環は,両耳に着けるものであるため,2個で1セットが本来の姿である。本資料の2点は,色調から類推される材質,大きさ,形状などに統一感があり,本来のセットを保っている可能性が高い。しかし,本資料の出土状況は不明であるため,出土時の位置関係を知ることができず,本来のセットであったかどうかを確定させる方法はない。
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本品は「石釧」と呼ばれる,古墳時代の前半期(4世紀~5世紀前半)に見られる遺物である。形は正円に近く,直径は6.9cm。
「釧」は腕輪の古い呼び方であるので,「石釧」は,文字のとおりだと「石でできた腕輪」となる。しかし実は,その用途は腕輪とは言い切れず,以前に当ギャラリーで紹介した鍬形石(くわがたいし)や車輪石(しゃりんせき)と同様に,所有することに意義がある宝物であると考えられる。
鍬形石はゴホウラという巻貝,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪をそれぞれ原形とする説が有力であるが,石釧はイモガイという巻貝から作られた腕輪がその原形と考えられる。鍬形石,車輪石,石釧のいずれもが腕輪を原形として石で作られていることから,考古学の用語では,この3種類の遺物を総称して,「腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)」と呼ぶこともある。
石釧はこの3種類のうちでは最も出土数が多く,更に出土範囲も広いことから,使用されていた期間が他の2種類に比べて長いものと考えられる。また,材料の石も,硬い碧玉(へきぎょく),やや軟らかめの緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん),更に軟らかい滑石(かっせき)など,他の2種類に比べて多岐にわたっている。こうした状況から,石釧の作られた場所や流通の状況が,他の2種類とは少し異なっていたものと考えられる。いずれにせよ,古墳時代前期の社会を考えていく上で,重要な遺物である。
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「玉(たま)」は,石を主要な素材としている。美しい色や輝きを放つ石が使われることも多いが,それは「玉」がもつ構成要素のひとつでしかない。
本例は,頭部を欠いているものの現存する部分の長さが約8.6㎝ある大きな勾玉の体部各面に,小さな勾玉状の突起が複数表現されている。このように,大きな勾玉の周囲に小さな勾玉が取り付いているような形状の勾玉を,本体の勾玉を親に,周囲の勾玉を子になぞらえて,考古学の用語では「子持勾玉」と呼んでいる。
本例を始め,子持勾玉は,滑石(かっせき)と呼ばれる軟らかくて加工のしやすい石材で作られている。滑石は翡翠(ひすい)などと比べると見た目の美しさは控えめなため,子持勾玉を製作する際には,見た目の美しさではなく,その形を表現することに主眼が置かれていたものと考えられる。
子持勾玉は,本体の勾玉から新たな勾玉が生まれる様子が表現されていると考えられており,再生や誕生を願う祭具として使用されたと推定されている。古墳時代の中頃(5世紀頃)に出現して日本列島の広い範囲に分布し,古墳時代が終わった後も,飛鳥時代である7世紀後半まで使用されたことがわかっている。
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本品は,長野県安曇野市に所在する有明古墳群(現在では穂高古墳群と呼ばれている)から出土したものだが,出土地点などの詳細は不明である。明治20年(1887)頃に宮内省によって買い上げられた。左側の個体で最大幅5.1㎝。
銅に金を鍍金(ときん:メッキ)をした金銅(こんどう)の板を切り抜いて,嘴(くちばし),翼(つばさ),脚などを形作っている。想像上の鳥である鳳凰をモチーフにしているとされてきたが,現実に存在する鳥を表現している可能性もある。顔と胴体には孔があけられており,顔のものは,その位置からみて目を表現しているものとみて間違いないだろう。胴体の穴は,2個が対になっていることから,何かに吊すか,結びつけるためのものと考えられる。
よく見ると2点は形がやや異なっている。右側の個体は翼とは反対側に脚を伸ばしており,空中で何かにつかまろうとしている姿を表現したものであると考えられる。左側の個体は,下側が欠けているため脚の有無はわからないが,右側の個体と比べて動きが乏しく,静止した状態を表現しているものと思われる。
本品と同様に鳥を表現した金銅板の製品は,奈良県生駒郡斑鳩町(いこまぐんいかるがちょう)の藤ノ木(ふじのき)古墳(6世紀後半頃)から出土した冠に取り付けられていることが確認できる。本品の用途は不明であるが,類例が冠にみられることから,装身具やその一部として用いられたものと考えられる。
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大正5年(1916),京都府南部・奈良県北部・大阪府東部に所在する古墳を荒らし回っていた盗掘団が摘発された。その契機となったのが,垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵に対する盗掘事件である。盗掘者によって持ち出された副葬品(ふくそうひん)は回収され,埋葬施設(まいそうしせつ)を復旧する工事の際にコンクリート製の箱に納めて埋め戻された。そのため現在は副葬品の実物を目にすることはできないが,石膏による精巧な模造品が残されており,大きさや形状について知ることができる。
石膏模造品が残されている狭木之寺間陵出土品のうち鏡は3面あるが,本品はそのうちの1面である。背面の文様を見ると,連続する内向きの円弧の文様があり,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡」という種類の鏡の文様をベースとしていることがわかる。その一方,中国の「内行花文鏡」では文様が施されない鏡の縁には,「直弧文」と呼ばれる,直線と曲線を組み合わせた日本特有の文様が巡らされている。また,背面中央にある紐を通すための半球形の突起の周囲には,「内行花文鏡」で一般的な葉っぱのような形の文様ではなく,イカの頭のような形の文様が四方に配置されている。さらに,大きさで見ると,本品の直径は34.3㎝であり,中国で見られる内行花文鏡に比べてかなり大きなものである。
本品は,文様や大きさから,大陸から伝わった鏡をモデルとしながらも日本独自のアレンジを加えて製作されたものであると評価することができる。古墳時代の日本列島における鏡生産体制を考えていく上で重要な鏡である。
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大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部東側から,昭和44年(1969)に出土した円筒埴輪の破片である。本例は,上半部分の一部が残存しているのみであり,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。口縁部での直径は復元で約44㎝,現状での残存高は約34㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳にみられる埴輪のなかで最も多く作られた種類といえる。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡がみられる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓(ふんぼ)の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪のなかで,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
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熊本県の宮穴横穴群から明治期に出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と書かれる場合には銀の芯材(しんざい)に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているもの等,材質には様々な可能性があり,必ず全てが純度の高い金でできているとは限らない点に注意が必要である。本品は,芯材に銅が使われているものがほとんどで,銅芯に金ないし銀を張るもののほか,銀芯の製品も1点ある。上述の材質については肉眼観察によるため,詳細は蛍光X線(けいこうえっくすせん)などによる理化学的分析を経て明らかになろう。
これらの耳環は,直径20㎜のものから30㎜を超えるものまで様々な大きさがあり,その断面の厚さも2㎜から8㎜までと幅がある。平面形には正円形に近いものと楕円形のものがあり,断面形にも正円形と楕円形がある。
耳環は本来両耳に着けて揃いで使用される。ただし,宮穴横穴群の資料は出土状況が不明であり,本来の組合せは形状と材質により推測するのみである。
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本品は「車輪石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。楕円形を呈しており,長径は14.0cmである。その名称から,「石でできた車輪」を連想するかもしれないが,その用途は車輪ではない。そもそもわが国において,古墳時代に車輪を用いる「車」は確認されていない。それではその用途は何かといえば,以前に当コーナーで紹介した鍬形石(くわがたいし)と同様に,所有することに意義を持つ宝物であったと考えられる。鍬形石はゴホウラという巻貝から作られた腕輪を原形とするのに対し,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪を原形とする説が有力である。その理由は,車輪石の表面に見られる放射状の表現が,オオツタノハの貝殻のかたちによく似ているからである。鍬形石と車輪石をどのように使い分けていたのかについては様々な学説があるが,鍬形石は男性に,車輪石は女性に副葬されたのではないかという説がある。この「車輪石」という名称も,鍬形石と同様に,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が名付けたとされており,作られた場所や流通などについて謎の多い出土品である。
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管玉は,円筒状の玉で,その単純な形から勾玉ほどの注目を浴びることは少ないが,縄文時代から存在しており,弥生・古墳時代を通じて勾玉とともに玉類の中心的な位置を占める。写真の管玉は碧玉製であり,濃い緑色が美しい。碧玉はもっとも多く使用される石材で,素材としての「碧玉」,色彩としての「緑」は,管玉のキーワードといってもよいほどである。一方,緑色の碧玉が主体の中にあって,弥生時代の新潟県佐渡島では地元で産出する鉄石英(てつせきえい)と呼ばれる赤い石を使って赤色の管玉が作られた。また,古墳時代の岩手県では久慈市(くじし)で産出する琥珀(こはく)を使って,まさに「琥珀色」の管玉の製作も行われていた。地域によっては,ご当地の石を使って,装飾に彩りを添えていたようである。
写真の管玉は,大きく見えるが2点とも長さが7~8㎜足らずと非常に小さいものである。このように小さい管玉は弥生時代に多く,本資料も弥生時代に使われていた可能性がある。小さいものではあるが,紐を通す孔が丁寧にあけられ,美しく磨かれるなど大きな玉に負けない輝きを放っている。
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帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,本品は大正5年に西塚古墳の石室から出土した。写真左側は鉸具(かこ)と呼ばれるバックル部分,中央と右側は銙板(かばん)と呼ばれる帯の飾りの部分である。全ての部材が銅に金メッキをほどこした金銅製で作られている。鉸具の飾り板部分は破損しているが,鳳凰が描かれていたようである。銙板は少なくとも7点分は確認でき,写真ではその中の2点を示している。写真中央のものには龍,右側のものには鳳凰が描かれている。龍と鳳凰は,彫金技術によって浮き出るよう立体的に表現される。銙板の下側には鈴が装着されており,この帯を身に着けた人物が動くたび,周囲の人々には鈴の音が聞こえていたであろう。西塚古墳から同時に出土した他の品々からみて,本品は5世紀後半頃に使われたものである。
本品と同様のモチーフと彫金技術がみられる事例は,熊本県江田船山古墳出土例など日本列島の古墳出土品の中に数例が確認できる。龍と鳳凰のモチーフや,これを立体的に表現する彫金技術は,当時の日本列島では定着していないことから,本品は朝鮮半島南部,あるいは中国大陸からもたらされたものである可能性が高い。5世紀後半は,中国の歴史書に「倭の五王」が登場する時代にあたり,本品は当時の対外交流を考える上で重要な事例である。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
(陵墓課)
妻鳥陵墓参考地から出土した金色の耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものには,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,その材質には様々なパターンがあり,全てが純度の高い金でできているとは限らない。本品は環の開口部の端面(たんめん)が黒ずんでいることから,銀製の芯材に鍍金したものの可能性があるが,蛍光X線(けいこうエックスせん)などによる理化学的分析を行わないと確定させることができない。
2点とも環はほぼ正円を描くが,画像の向かって左のものは,直径18~18.5㎜,厚さ2~2.4㎜,向かって右のものは,直径20~21㎜,厚さ2~2.2㎜と,サイズがわずかに異なる。環の断面は,2点ともにおおむね円形であるが,環の開口部付近のみ写真上側が平らになっていて,円形になっていない。この平らな部分は,材を円形に曲げる際にできたものの可能性がある。
耳環は,本来両耳に着けてセットで使用されるものであるが,本品の2点は先に述べたようにサイズがわずかに異なっており,元々セットであったかは不明である。
(陵墓課)
本品は「鍬形石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。鍬形石の原形は,ゴホウラという奄美大島以南の海で採集される巻貝から作られた腕輪であると言われている。弥生時代の九州地方では,実際に身につけてその人の身分を示す装身具であったと考えられている。この貝製の腕輪が古墳時代には,材質が石へと変化し,実際に身につけるというよりは,所有することに意義を持つ宝物として副葬されるようになった。
本個体は,奈良県の巣山古墳から出土したと伝えられており,最大の特徴は中央部にある突起が左側にある点である。左側に突起がある例としては,奈良県島の山(しまのやま)古墳から出土した可能性がある一例に限られている。
鍬形石という名前は,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が命名したとされている。よって,古墳時代に何と呼ばれていたかは明らかでなく,その用途や作られた場所,さらには流通などについても謎の多い出土品である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部から,昭和47年に出土した円筒埴輪である。本例は,その上半部分が欠損しており,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。底部での直径は約30㎝,現状での高さは約37㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳に見られる埴輪の中で最も多く作られた種類と言える。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡が見られる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪の中で,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
(陵墓課)
玉は,古来,装飾品として世界中の人々に好まれてきた。日本においても例外ではなく,「美しい石」と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは,翡翠(ひすい)であろう。翡翠の透明感のある緑色は,時代を問わず人々を魅了している。写真の勾玉は,その翡翠(=硬玉)で作られたものである。
勾玉は縄文時代から作られ始め,弥生時代,古墳時代の多種多様な玉の中でも確固たる位置を占め続けた。本例は,写真では大きく見えるが,実際の長さはわずか8㎜足らずと非常に小さいものである。しかし,形を「C」字状に整え,孔をあけ,表面を磨くなど,小さいながらも丁寧に作られており,これが大きな特徴と言える。このような勾玉は,日本列島の中では,弥生時代の北部九州で盛んに作られており,一部は古墳時代にも継続して作られている。本例の出土地は山口県の西部に位置しており,地理的に隣接していることから,弥生時代か古墳時代のいずれかに九州から持ち込まれたものである可能性が考えられる。
なお,書陵部では「前田古墳」出土品として保管しているが,正確な出土場所はわからなくなっており,実はその場所が古墳であったかどうかも不明である。
(陵墓課)
本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
本例は,奈良県大和高田市に所在する磐園(いわぞの)陵墓参考地から出土した鰭付(ひれつき)円筒埴輪である。
鰭付円筒埴輪とは,円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部を取りつけているもので,板状部分をヒレに見立てて,そう呼び習わしている。おもに古墳時代の前期から中期にかけて見られる。
古墳の墳丘上や周囲に埴輪を立て並べる際には,矢の入れ物である靫(ゆぎ)や盾(たて)といった武器・武具の形をした埴輪も並べられることがある。武器や武具は敵を追い払うためのものであることから,埴輪列は,古墳内への侵入を拒み,古墳や被葬者の静安を護ろうとするものであったと考えられる。本例のような鰭付円筒埴輪は,埴輪列に並べる際には,ヒレ同士が接するか,ヒレ同士を重ねるように立て並べることが知られている。埴輪同士の隙間を埋めるという意図が見て取れ,鰭付円筒埴輪も,古墳を護ろうとする意識を表現するものであったと思われる。
本例の復元高は110.0㎝,両側のヒレからヒレまでの最大幅は51.5㎝。本例は,鰭付円筒埴輪の全形をうかがいしることができる貴重な資料である。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。