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この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地から出土した34面の鏡のうちの1面である。直径27.2㎝。
名称の「鼉龍」とは,ワニをモデルとするといわれる中国の伝説上の怪物であるが,実は,この鏡の文様は鼉龍ではない。神仙(しんせん)像と神獣(しんじゅう)像を四体ずつ配置する,「四神四獣鏡(ししんしじゅうきょう)」をモデルとしているが,神仙像の頭部には,下方の着物を着たような胴体と,右斜め上方向から弧を描く蛇体のような胴体の,二つの胴体がある。棒のようなものをくわえた神獣像の方は,長く伸ばした首の先の胴体に脚がない。この鏡の文様をデザインした工人は,神仙・神獣の図像をよく理解していなかったため,このような,蛇体の怪物がうねっているような文様になってしまったのである。こうした文様の鏡を,慣例的に「鼉龍鏡」と呼んでいるが,別名の「変形神獣鏡」の方が実態に即している。
本例では,神仙像・神獣像のほかにも,本来は銘文があるべきところにないなど,モデルである中国製の鏡から逸脱している点が見られ,我が国の工人の手によるものだと考えられる。一方,文様そのものは精緻(せいち)に鋳出されており,工人の技術のレベルは低いものではなかったことがうかがえる。
古墳時代になって我が国において本格的な鏡作りが始められたころの状況を知ることのできる,貴重な資料である。
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妻鳥陵墓参考地から出土した金色の耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。本品の名称は色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものには,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,その材質には様々なパターンがあり,全てが純度の高い金でできているとは限らない。本品は環の開口部の端面(たんめん)が黒ずんでいることから,銀製の芯材に鍍金したものの可能性があるが,蛍光X線(けいこうエックスせん)などによる理化学的分析を行わないと確定させることができない。
2点とも環はほぼ正円を描くが,画像の向かって左のものは,直径18~18.5㎜,厚さ2~2.4㎜,向かって右のものは,直径20~21㎜,厚さ2~2.2㎜と,サイズがわずかに異なる。環の断面は,2点ともにおおむね円形であるが,環の開口部付近のみ写真上側が平らになっていて,円形になっていない。この平らな部分は,材を円形に曲げる際にできたものの可能性がある。
耳環は,本来両耳に着けてセットで使用されるものであるが,本品の2点は先に述べたようにサイズがわずかに異なっており,元々セットであったかは不明である。
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本品は「鍬形石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。鍬形石の原形は,ゴホウラという奄美大島以南の海で採集される巻貝から作られた腕輪であると言われている。弥生時代の九州地方では,実際に身につけてその人の身分を示す装身具であったと考えられている。この貝製の腕輪が古墳時代には,材質が石へと変化し,実際に身につけるというよりは,所有することに意義を持つ宝物として副葬されるようになった。
本個体は,奈良県の巣山古墳から出土したと伝えられており,最大の特徴は中央部にある突起が左側にある点である。左側に突起がある例としては,奈良県島の山(しまのやま)古墳から出土した可能性がある一例に限られている。
鍬形石という名前は,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が命名したとされている。よって,古墳時代に何と呼ばれていたかは明らかでなく,その用途や作られた場所,さらには流通などについても謎の多い出土品である。
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大阪府堺市に所在する仁徳天皇陵の後円部から,昭和47年に出土した円筒埴輪である。本例は,その上半部分が欠損しており,本来は現在の倍以上の高さがあったものと推測される。底部での直径は約30㎝,現状での高さは約37㎝である。
円筒埴輪は古墳やその堤の平坦面に列状に並べられたもので,古墳に見られる埴輪の中で最も多く作られた種類と言える。円筒埴輪は,土管のような形状であるが,その表面には突帯(とったい)と呼ばれる断面が台形状の突出が水平にほぼ等間隔で貼り付けられている。この突帯に挟まれた部分の外面には,ハケメと呼ばれる,木の板で表面を整えた痕跡が見られる。本例の横方向のハケメには,縦方向の線も数㎝おきに観察することができる。これは,埴輪の表面を板でなぞっては止めることを繰り返したためである。
円筒埴輪の起源は,弥生時代の墳墓の祭祀で使用された飲食物を供献(きょうけん)する壺を載せるための器台(きだい)にある。多くの種類が生み出された埴輪の中で,円筒埴輪は埴輪の初現から終焉まで作り続けられた唯一の種類である。このことから埴輪の本義を円筒埴輪に見出す意見もある。
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玉は,古来,装飾品として世界中の人々に好まれてきた。日本においても例外ではなく,「美しい石」と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは,翡翠(ひすい)であろう。翡翠の透明感のある緑色は,時代を問わず人々を魅了している。写真の勾玉は,その翡翠(=硬玉)で作られたものである。
勾玉は縄文時代から作られ始め,弥生時代,古墳時代の多種多様な玉の中でも確固たる位置を占め続けた。本例は,写真では大きく見えるが,実際の長さはわずか8㎜足らずと非常に小さいものである。しかし,形を「C」字状に整え,孔をあけ,表面を磨くなど,小さいながらも丁寧に作られており,これが大きな特徴と言える。このような勾玉は,日本列島の中では,弥生時代の北部九州で盛んに作られており,一部は古墳時代にも継続して作られている。本例の出土地は山口県の西部に位置しており,地理的に隣接していることから,弥生時代か古墳時代のいずれかに九州から持ち込まれたものである可能性が考えられる。
なお,書陵部では「前田古墳」出土品として保管しているが,正確な出土場所はわからなくなっており,実はその場所が古墳であったかどうかも不明である。
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本資料は,明治45年に現在の岡山市北区新庄下の榊山古墳(さかきやまこふん)から出土したと伝わる金銅製の金具であり,馬具の一種と考えられている。直径が約5センチで半球形を呈し,溶かした銅を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造(ちゅうぞう)」で成形されている。側面には左を向いた2頭の龍の透かしがみられ,彫金(ちょうきん)技術によって龍の眼、口、脚などが立体的に表現されている。当時の日本列島における金工技術の水準を超えたものであり,海外からもたらされた可能性が高い。形態,文様,製作技術に共通点が認められる金具が,中国東北部の遼寧省(りょうねいしょう)に位置する「前燕(ぜんえん)」(337-370年,五胡十六国時代の国の一つ)の墳墓で出土していることから,本品も当地域で製作されたものであろう。
日本列島内で本品のような金具は他に出土しておらず,周辺では韓国南東部に位置する4世紀代の墳墓からの出土が確認されている。本品は中国東北部から朝鮮半島南部を介して日本列島に伝わったと考えられ,当時の東北アジアにおける交流の実態を考える上で重要な事例となっている。
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本例は,奈良県大和高田市に所在する磐園(いわぞの)陵墓参考地から出土した鰭付(ひれつき)円筒埴輪である。
鰭付円筒埴輪とは,円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部を取りつけているもので,板状部分をヒレに見立てて,そう呼び習わしている。おもに古墳時代の前期から中期にかけて見られる。
古墳の墳丘上や周囲に埴輪を立て並べる際には,矢の入れ物である靫(ゆぎ)や盾(たて)といった武器・武具の形をした埴輪も並べられることがある。武器や武具は敵を追い払うためのものであることから,埴輪列は,古墳内への侵入を拒み,古墳や被葬者の静安を護ろうとするものであったと考えられる。本例のような鰭付円筒埴輪は,埴輪列に並べる際には,ヒレ同士が接するか,ヒレ同士を重ねるように立て並べることが知られている。埴輪同士の隙間を埋めるという意図が見て取れ,鰭付円筒埴輪も,古墳を護ろうとする意識を表現するものであったと思われる。
本例の復元高は110.0㎝,両側のヒレからヒレまでの最大幅は51.5㎝。本例は,鰭付円筒埴輪の全形をうかがいしることができる貴重な資料である。
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帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
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盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
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本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
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本資料は,戦闘時に身を護る甲冑(かっちゅう/よろいかぶと)を表現した埴輪で,胴を護る短甲(たんこう/みじかよろい)部と,肩を護る肩甲(けんこう/かたよろい)部とが残る。現状高23.0cm。短甲とは,古代に用いられた甲のうち,歩兵が着用していたと考えられているものである。
古墳時代の短甲の実例に,三角形に加工した鉄板を革紐(かわひも)で綴じるものがある。この埴輪の短甲部は,粘土に刻んだ線で三角形の鉄板を,線をまたぐ粘土の粒で革紐を表現している。実物を横に置いて見ながら作ったのではないかと思えるほど,写実的に表現されている。
本資料は,宮崎県西都(さいと)市の西都原(さいとばる)古墳群内に所在する男狭穂塚女狭穂塚(おさほづかめさほづか)陵墓参考地のうちの,女狭穂塚から出土した。女狭穂塚からは,本例のほか,円筒(えんとう)埴輪,朝顔形(あさがおがた)埴輪,家・盾・鶏などを模した形象埴輪が確認されている。これらの埴輪の種類と作り方の特徴は,遠く離れた大阪府羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の古市(ふるいち)古墳群に所在する大型前方後円墳から出土したものとの共通点が多い。古墳時代における両地域の関係を知る上でも貴重な資料である。
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靫(ゆき)の形を模した埴輪である。靫とは,矢を持ち運ぶ容器(矢入れ具)のうち,矢じりを上に向けて収納し,ランドセルのように背中に背負う種類のものをいう。
本品は,地面に立て並べるための四角い台の上に,靫そのものを模した部分が表現されている。矢を入れる容器を表現した箱形の部分はよく残っているが,その周囲に取り付いていた文様のある板状の部分は,左側の一部を除いて失われている。箱形部分の表面は直弧文(ちょっこもん)で飾られており,上端には,矢じりが浮き彫りによって写実的に表現されている。
現状で,高さ97.1㎝,最大幅55.4㎝。応神天皇恵我藻伏崗陵飛地ほ号(史跡墓山古墳)の後円部から,昭和25年に出土したものと伝わる。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した,馬形埴輪の頭部である。元々は胴体も作られていたと考えられるが,現在は頭部のみが残存している。
眼,口,耳,たてがみのほか,ウマを操るために馬体に装着された部品(馬具)が表現されている。
たてがみは,上端を平たく切りそろえた状態を示しているものと思われる。
馬具は,頭部にめぐらされたベルトと,それらをつなぐ円環状の部品が表現されている。円環状の部品は,金属製のものの実例があり,実物をかなり忠実に再現していると考えられる。
このように本品は写実性が非常に高いにもかかわらず,乗馬に必要な轡(くつわ)や手綱(たづな)は表現されていない。乗馬用とは異なる目的に用いられたウマであったようだ。
本品は,我が国における初期のウマの利用方法を知ることができるだけではなく,馬形埴輪としても最古級の事例であり,埴輪祭祀の変遷を考える上で,非常に重要な資料である。現存高23.7㎝。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
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この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
本資料は,大と小のセットで作られた刀剣の柄頭(つかがしら)である(写真左幅5.0㎝)。柄頭とは,刀剣の握る部分(柄)の端のことで,装飾が施されたり,本資料のような装飾のための部品が装着されたりすることが多い。本資料のように,柄頭が環状(かんじょう:輪のような形)になっているものを環頭柄頭(かんとうつかがしら)と呼ぶ。本資料の環頭は,かまぼこの断面のような形をしており,中央に三つ叉の装飾を配している。この三つ叉の部分を植物の葉に見立てたことから,三葉環頭(さんようかんとう)の名がある。
本資料にはわずかに金色が見られることから,大・小ともに,銅で作られたのちに金メッキを施した,金銅(こんどう)製と考えられている。本資料と類似したものは,日本の古墳時代と同時代に朝鮮半島南東部に存在していた古代国家,新羅の勢力圏内から多く出土していることから,本資料も新羅からもたらされた可能性がある。
(陵墓課)
本資料は,馬鐸(ばたく)と呼ばれる馬具の一種で,装飾や音による効果を意図してウマの体に吊したベルである。写真左端のもので現存長12.5㎝,溶かした銅を型に流し込んで作った鋳造品である。
当参考地からは,計4点の馬鐸が出土しており,その文様から2点ずつの二つの群に分類することができる。一つは左側2点の「王」と「☓」を組み合わせたような線で分割するもので,もう一つは右側2点の「三」と「☓」を組み合わせたような線で分割するものである。分割線の外側には珠文(しゅもん:粒のように見える小さな円形)を配している。各群の2点は互いに文様が酷似しているものの,細部をみると完全には一致しないようである。これらの文様は,鐸身の片面のみにみられ,反対面は無文である。
なお,当参考地では鹿角(ろっかく)製と考えられる舌(ぜつ)(馬鐸の内部に吊って,音を鳴らす部材)も1点みつかっている。
(陵墓課)
本資料は,横長の鉄板(横矧板(よこはぎいた))を主要な部材として,各パーツを鋲(びょう)で留めた,鉄製の冑(かぶと)である(高さ15.8㎝)。被った時に正面にくる部分(写真左側)が鋭角に尖っている点が特徴的で,こうした形の冑は,その部分を衝角(しょうかく:軍艦船首の喫水線の下に装着された,体当たり用の武装)に見立てて,「衝角付冑」と呼ばれている。
古墳時代になると,武器や防具は鉄で作られるものが主流となり,数が飛躍的に増えるとともに,技術や性能の面でも著しい発達を遂げていく。古墳時代に盛んとなった東アジア諸国との交流によって海外からもたらされたものや,その影響を受けて日本で製作されるようになったものがあるが,本資料のような衝角付冑は,日本で伝統的に作られてきた冑の系譜に連なるものである。全体の形はほとんど変化しないが,鉄製のパーツをつなぎ合わせる方法が,当初は革紐(かわひも)を通して結び付けていたものが,鉄製の鋲で留める方法へと変化していくことが知られている。