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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治35年(1902)10月,横浜のペスト病発生に伴う予防処置に関する緊急勅令の閣議案。明治天皇の御覧後,枢密院で発布が撤回されたため,御手許(おてもと)に残された。「明治天皇御手許書類」に内閣総理大臣以下の花押の入った閣議案が残る例は珍しい。
(図書寮文庫)
本書は,安政5年(1858)12月11日,高杉晋作(1839-67)らが師の吉田松陰(1830-59)に宛てた血判状。連署の高杉晋作・久坂玄瑞ら5人は松陰の門下生で,本文執筆は久坂とされる。高杉らは師松陰の過激な計画を思い止めようと血判状をもって諫止したのである。師を思う弟子たちの思いが込められた血判状による諫止ではあったが,やがて松陰は安政の大獄によりその短い生涯を閉じるのである。木戸家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,薩摩藩士西郷吉之助(隆盛,1827-77)から木戸準一郞(孝允,1833-77)に宛てた書状で,閏4月6日とあるとことから慶応4年(明治元年,1868)のものと考えられる。東征大総督府参謀であった西郷が木戸に,徳川氏の処分や関東鎮撫策について面会して意見を聞こうと上京を促そうとしたのではないかと想像される内容をもっているが,木戸は10日に大阪を発ち,神戸へ向かったため,西郷は会うことはできなかったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代中期の公卿洞院実熙(とういんさねひろ,1409-59)が後花園天皇(第102代,1419-70)に宛てて記した仮名の消息(書状)である。消息の裏に書かれている宛先は「勾当内侍とのゝ御局へ」と,天皇の近くに仕える女房宛てになっているが,文末に「御心え候て,御ひろう候へく候」(この旨をよくお心得になって,よろしく御伝達ください)とあり,実際の内容は天皇に対して記されたものとなっている。桂宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,もと正倉院に伝来した文書類のうちで,のち国学者である谷森善臣(1817-1911)の所有となり,同家よりその蔵書とともに図書寮に献納された。天平13年(741)3月15日一切経納櫃帳ほか5点を貼り継いだ一巻。画像は,天平勝宝3年(751)の写書所解。外題(題名)を書くための狸毛の筆と雑公文用の料紙として「凡紙」を請求しているもの。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。
(宮内公文書館)
本資料は,三条実美の事蹟編集の過程で収集された資料の一つ。当時開拓次官であった黒田了介(清隆)が,明治天皇に言上したのち,改めて文書にして明治3年(1870)12月29日に右大臣岩倉具視(ともみ)へ提出した意見書。戊辰戦争で新政府軍に抗戦し,箱館五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚(たけあき)の処分などについて述べられている。箱館で新政府軍を指揮していた黒田は,敵将であった榎本の才覚を高く評価し,罪を赦してその能力を新しい時代に活かそうとしたとされる。
(宮内公文書館)
本資料には,明治4年(1871)9月に薩摩藩出身の伊地知正治(いじちまさはる)の名前で提出された建言書2通が綴じられている。一部に修正した痕跡があり,「本書は西郷隆盛自筆也」とあることから西郷隆盛が代筆した草案であると考えられる。祭政一致や勧農,租税などについての意見が記されている。
(宮内公文書館)
本資料は,明治2年(1869)8月26日に北沢正誠(まさなり)(乾堂(けんどう))が,木戸孝允に提出した建言書。北沢は,松代(まつしろ)藩の出身で佐久間象山に学び,廃藩後太政官に出仕した。本建言書では,同年7月に実施された版籍奉還後の国家のあり方について藩の体制,人材登用などの面で「旧習」を「御一新」するための構想が長文にわたって論じられている。本資料からは,地方の藩の一藩士が抱いていた国家構想がわかる。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉末~南北朝時代に起きた美濃国船木荘只越郷(ただこしごう,現在の岐阜県瑞穂市)をめぐる争いにおいて,当事者の一方の法眼盛祐が暦応2年(1339)に朝廷(北朝)に提出した訴状である。本文のあとに,参考資料として由緒を示す関係文書を書写したものとともに当事者双方の系図が付されており,盛祐が自らの相伝の正当性を示す論拠のひとつとしている。紙継目の裏には,訴訟の担当者である北朝の廷臣柳原宗光(1322-47)の花押が書かれている。
(図書寮文庫)
本書は,後光厳天皇(北朝第4代,御在位1352-71)の宸筆や関連文書をまとめたもので,5紙目(7番目の画像)以降が後光厳天皇の宸筆。画像は貞治元年(南朝は正平17年,1362),天皇25歳の時の書と考えられている。兄の崇光天皇が,その皇子栄仁親王(よしひと)の書道の手本のために名筆を所望されたことに対しての御返書と推測される。小野道風,嵯峨天皇,醍醐天皇等の書についての言及が見られ,当時名筆とされたものをうかがうことができ,書道史の面からも貴重な史料と言える。
(図書寮文庫)
本書は,後花園天皇(第102代,御在位1428-64)の宸筆をまとめたもので,画像は永享7年(1435)9月15日,父の貞成親王(さだふさ)に宛てられた御消息(手紙)。天皇17歳の時の書で,貞成親王書写の『金葉和歌集』等が天皇のもとへ献上されたことへの御礼と,和歌が「散らし書き」という書式で書かれている。紙の中途から書き始め,書き進めるにつれて余白に書いていくために次第に字も小さくなるため,大きな文字のグループから読んでいくことになる。
(図書寮文庫)
本書は,後土御門天皇(第103代,御在位1464-1500)の宸筆をまとめたもので,画像は文明13年(1481)9月13日,伏見宮邦高親王(くにたか)に宛てられたもの。天皇40歳の時の書で,親王が琵琶の秘曲「大常博士楊真操」(だいじょうはくしようしんそう)を伝授されたことにお祝いの言葉を述べられ,太刀を賜る旨が書かれている。「散らし書き」の書式で書かれており,本紙右側を3分の1ほど空けて書き始め,行の頭を段々下げて2グループ書き,さらに右端の下半分に続いている。
(図書寮文庫)
明の皇帝神宗(万暦帝)が李宗城(りそうじょう)を正使として豊臣秀吉に宛てた明・万暦23年(文禄4年〈1595〉)1月21日付の勅諭(皇帝からの訓告)の原本。秀吉の出兵に対する具体的な講和条件などを述べた後,皇帝からの贈呈品リストを付す。なお,正使が逃亡したため,この勅諭がそのまま使われることはなかった。本紙は縦53.2cm,横172.8cm。掛幅全体の大きさは縦横ともに190cm程度で,畳2畳分を超える大きさである。本紙末尾の蔵書印により幕末の儒学者佐藤一斎(1772-1859)が所蔵していたことがわかる。