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明治元年(1868)9月20日,明治天皇は東京へ行幸になるため京都を出発された(東幸)。行列には,総勢3,300人余が供奉(ぐぶ)したという。10月12日,品川宿に宿泊した御一行は,翌13日の午前7時ごろ同宿を出発された。高輪にあった久留米藩有馬頼咸邸にて小憩,次いで増上寺にて小休した後,午後2時ごろ江戸城西の丸(東京城)へ入られた。錦絵は,高輪の大木戸付近を通過する東幸の行列を描いたものである。背景には,小憩した有馬邸や当時英国公使館が置かれていた東禅寺,泉岳寺などが書き込まれている。中央の鳳輦(ほうれん)に明治天皇がお乗りになっている。史料は,軸装されており宮内省臨時帝室編修局が収集した錦絵のひとつである。臨時帝室編修局の蔵書印と合わせて,「東京林縫之助蔵書」とあることから,同局が林氏から入手した可能性が高い。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日に新橋鉄道館で開催された鉄道開業式の様子を写した写真である。明治2年(1869)11月,鉄道の敷設が決定されると,東京・横浜間の工事が始められた。開業式に先立つ,明治5年(1872)5月7日には,仮開業として品川・横浜間の旅客営業が開始されている。明治天皇も,7月12日に中国・西国巡幸の帰途,開業式に先駆けて横浜から乗車された。
鉄道開業式は,重陽の節句にあわせて9月9日に開催の予定であったが,雨天のため9月12日に延期となった。写真の右奥に写る建物が新橋鉄道館である。『明治天皇紀』によれば,当日は「霖雨(りんう)全く霽れ(はれ)、快晴にて微風(びふう)なし」とあり,晴天のもと大勢の人びとが,線路に沿って集まっている様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治11年(1878)7月5日,明治天皇が英照皇太后とともに,青山御所に新設された能舞台で演能をご覧になる場面が描かれている。古典芸能のなかでも能楽(能・狂言)は,明治維新を経て衰退の一途をたどっていた。そこで能楽の再興に尽くされたのが,能楽鑑賞に親しまれた英照皇太后であった。英照皇太后は昭憲皇太后とともに,青山御所能舞台と芝公園能楽堂で度々能楽を御覧になるなど,能楽の振興に寄与された。
本資料は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇に奉呈された附図の稿本2巻の内の一つである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で,「明治天皇紀」に所載される主な場面が描かれている。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。
(宮内公文書館)
明治8年(1875)1月31日に和宮邸へ行幸啓した際の関係書類。和宮は明治7年に東京へ戻ると麻布市兵衛町に居を構えた。正午に宮邸に到着された明治天皇は,先に到着されていた昭憲皇太后と合流し,昼食,酒肴(しゅこう)を取られた。橋本実麗(さねあきら)らの陪席もあり,午後5時に皇后と共に還幸された。また明治9年5月にも和宮邸へ行幸啓があった。その際には式部頭の坊城俊政(ぼうじょうとしただ)らが演じる能楽が催された。能楽は午後9時まで続き,その後は酒が供され,宮内卿徳大寺実則(さねつね)らの陪席もあり,午後11時30分に還幸された。また,各行幸啓の数日後には英照皇太后の行啓もあり,和宮と皇室の交流がうかがえる。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)10月の観艦式における艦艇の配置図。この観艦式は,日露戦争終結直後に横浜沖で開催された。大きく六つの艦列が朱で記されており,165隻の艦艇が参加していることがわかる。明治天皇は巡洋艦「浅間」に乗艦され観艦式に臨まれた。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治7年(1874),横浜灯台寮への行幸啓関係書類。洋式灯台を天覧した翌日には,横浜の実業家高島嘉右衛門(かえもん)が創業した横浜瓦斯(がす)会社にも行幸啓があった。洋式灯台や瓦斯灯は横浜の文明開化を象徴するものであった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899),日本競馬会社から根岸競馬場への行幸を出願した書類。日本競馬会社社長アーネスト・サトウが英文で提出した。天覧競馬は計13回行われたが,不平等条約が改正された同年をもって,内外の社交場であった競馬場への行幸は最後となった。
(宮内公文書館)
明治43年(1910)・44年に行われた日本競馬会の入場チケットと番組表。根岸競馬場は慶応2年(1866)から昭和17年(1942)まで,近代競馬の中心的役割を果たした。明治天皇の行幸や優勝賞品の下賜(かし)など,皇室として競馬文化を積極的に奨励した。
(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。
(図書寮文庫)
天明8年(1789)正月30日,京都で発生した大火の影響で仮住まいを強いられていた後桜町天皇が,2年後に新造された仙洞御所に遷幸された際の行列の様子を描いた彩色の絵図。このときの遷幸に関しては文字資料として,当部所蔵の「院中評定日次案」(いんちゅうひょうじょうひなみあん,函架番号260-58)があって,公家にかかわる行列の詳細が記されているが,本資料には公家たちのほかに,その前後の町人や武家の姿も描かれている。