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(選択を解除)(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
(図書寮文庫)
この文書は,元弘3年(1333)7月に,後醍醐天皇(1288-1339,在位1318-39)が播磨(はりま)の寺田孫太郎範長に当知行地(実効支配している土地)の安堵(支配の保証)をしたものである。綸旨(りんじ)とは,天皇の命令を蔵人が奉じた文書で,宿紙(しゅくし)と呼ばれる漉き返した灰色の紙に書かれる。本文書の奉者は,後醍醐天皇の近臣である左少弁中御門宣明(なかみかどのぶあき,1302-65)。
後醍醐天皇はこの年の5月に足利尊氏らの力を得て鎌倉幕府を滅亡させ,6月に京都に還御して建武の新政を開始した。そのおり,後醍醐天皇は服従した勢力に対して大量に安堵の綸旨を発し,本文書もその一通となる。安堵された寺田範長は,播磨国矢野荘(やののしょう,現在の兵庫県相生市)の武士で,鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて同荘の支配をめぐって領主の東寺と対立し,「国中名誉の大悪党」と呼ばれた祖父法念とともに勢威をふるったが,のち東寺に敗れて没落した。
寺田氏が持っていた文書の多くは,その没落後に東寺に入ったが,本文書はいつしか東寺から流れて蒐集家の手に渡り,幕末~明治の国学者谷森善臣(1817-1911)を経て,当部の蔵するところとなった。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
(陵墓課)
本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
(陵墓課)
本資料は,物が円形をえがくように一方にめぐり巻くさま=巴(ともえ)を連想して名付けられた銅製品である。この特異な形状は,南の海に生息する巻貝の形を銅器で模倣(もほう)したことによるものとする説がある。
巴形銅器は,弥生時代後期から確認される日本特有の銅器である。盾や矢入れ具(やいれぐ)の近くから出土していることから,これらの表面を装飾するためのものと考えられている。古墳時代になると一時的に廃れるが,古墳時代前期末~中期前半頃になると古墳の副葬品として多く出土するようになる。大型古墳から出土する点が特徴であり,一部は朝鮮半島東南部の王墓へも運ばれている。
藤井寺陵墓参考地からは,巴形銅器が10点出土している(左上の個体は直径6.7センチ)。現状では,これは日本で最多の出土数である。
(陵墓課)
本資料の弓弭(ゆはず)(写真左側,長さ6.6センチ)は弓の両端に付けて弦(つる)を掛ける部品,矢筈(やはず)は矢の後端に付けて弦に引っ掛けるための部品で,ともに銅の鋳造品である。弓筈の表面はほとんどサビで覆われているものの,金色のメッキもわずかに残る。矢筈についても弦を受ける部分にごく少量のメッキが残ることから,作られた当初は黄金色であったと考えられる。
(陵墓課)
本資料は,持ち手に環が作り出されたと考えられ,そこから「素環頭剣」と呼ばれている。現存長は80.7センチで,刃部の断面形状は菱形であり,明瞭ではないが鎬(しのぎ)をもつようである。全体にわたって朱(しゅ)などが点々と付着していることから,石棺内に副葬されていたものと推測される。
その重厚長大な造りがほかに例をみない鉄製の剣(両側に長い刃部をもつ手持ちの武器)であり,剣本体は中国などからの輸入品であった可能性がある。
副葬時には鞘(さや)や把(つか)などの木製装具(そうぐ)が装着されていたようであるが現状ではその痕跡をわずかに確認できる程度しか残存していない。これらの装具については,その構造的特徴から判断して日本列島製と推測される。
なお,藤井寺陵墓参考地からは,同様の素環頭剣が少なくとももう1点出土している。
(宮内公文書館)
本絵図は明治天皇の即位礼の場面を描いたものである。明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)年8月27日に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で執り行われた。王政復古が実現し,古典を考証するなかで,それまでの唐風が排され,儀式に地球儀が用いられるなど,新しい趣向が凝らされた。
本絵図を収めている「明治天皇紀」附図の稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が作成したものである。この附図1帙(ちつ)は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。制作したのは,2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。奉呈された附図と稿本では構図や彩色等に微妙な差異があり,奉呈本が81題あるのに対して稿本は54題のみ伝わっている。鉛筆書のメモに見えるように,附図の作成に当たっての丹念な時代考証の跡がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治天皇の即位礼の調度のうち,玉座(ぎょくざ)である御帳台(みちょうだい)の屋形内部の絵図。彩色を施した絵図からは,儀式で用いられた調度品について視覚的に形状を知ることができる。新政府内では,即位の礼を王政復古・庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀として挙行すべく,古典などの考証が進められた。その結果,調度品からは唐風のものが一掃された。新しい点としては,幕末期に前水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)から孝明天皇へ献上された地球儀などが用いられた。
本図は宮内省内匠寮(たくみりょう)に伝わったものだが,国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,これと類似した絵図がみられることから,原図は新たな式次第の検討に深く関わった亀井茲監(かめいこれみ)が中心となって作成させたものと思われる。
(図書寮文庫)
黄赤緑紫白の5色の料紙を用いて作られた『源氏物語』の江戸時代の写本。かつて京都御所に伝えられ,天皇の手許におかれ読まれたと考えられる御所本のうちの一つ。
画像は源氏物語54帖のうちの須磨巻で,失脚して都を離れ,須磨に侘び住まいしていた源氏が,陰陽師を召して上巳(じょうし)の祓えを行わせる場面。「舟にことことしき人形のせて流すを見給ふに,よそへられて」と,祓えの後に人形が須磨浦に流される様子を,須磨の海辺に流浪する自身の身の上と重ね合わせている。
(陵墓課)
この資料は,鍬形石と呼ばれている腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)の一種である。上部に台形を呈する傘のようなものが削り出され,真ん中に卵形をした孔(あな)が開いている。その孔の右側,あるいは左側には四角形をした出っ張りがあり,下には長方形の板状のものが取り付いている。
この名称は江戸時代の弄石家(ろうせきか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が,この奇妙な形をした石を鍬形石と呼んだことが由来となっている。彼が兜の正面に取り付けられた鍬形をイメージしたものか,あるいは農具の鍬からとった名称なのかについては不明である。
現在ではこの鍬形石の原形は,ゴホウラという沖縄周辺の南海で捕れる大形巻き貝を縦に輪切りにして製作された腕輪の形であると考えられている。弥生時代においては,この貝製腕輪を,男性の腕を飾る装身具として使用されてきた。そしてそのような風習は北部九州を中心とした地域で,一つの社会規範となっていた。この弥生時代北部九州の規範を,古墳時代へどのように引き継がれたのか,あるいは貝から石への材質転換はどのようにしてなされたのかについては,まだ十分な回答は得られていない。
古墳時代においては,実際に腕に装着する装身具ではなく,持っていることが価値のあること,すなわち宝器のように取り扱われていたと考えられている。
(陵墓課)
奈良県桜井市に所在する倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した壺形埴輪である。
平成10年の台風7号は近畿地方を縦断して大きな被害を与えたが,大市墓においても墳丘上の樹木が多数倒れる被害が出た。本品は,その倒木の根起きによって出土したものである。
外見からは,通常の土器である「土師器(はじき)」の壺と区別することが難しいが,実は,焼き上げる前から底に孔があけられている。「貯める」という,壺の基本的な機能が否定されていることから,最初から「埴輪」として作られたことがわかる。
大市墓では昭和40年代にも壺形埴輪が出土しており,それと考え合わせると,前方部頂上の平坦面に,多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
古墳時代前期の日本列島内で鋳造(ちゅうぞう)された青銅鏡(せいどうきょう)である。鏡背面(きょうはいめん)にみられる文様は,同じ佐味田宝塚古墳から出土している中国製の神人車馬画像鏡(東京国立博物館蔵)を手本にしながら模倣したものと考えられる。
原鏡(げんきょう)とその模倣鏡(もほうきょう)が同一古墳に副葬(ふくそう)されていたことになるため,国内における鏡の生産と授受の過程を考えるうえで非常に重要な資料といえる。同様に神人車馬画像鏡を模倣したと考えられる類似鏡は岡山県正崎2号墳などでも確認されている。
佐味田宝塚古墳は墳長約111mの前方後円墳で,明治14(1881)年に家屋文鏡(かおくもんきょう)(当部所蔵)など多数の鏡を含む副葬品が出土したことで著名な古墳である。
(図書寮文庫)
本図は,寛政11年(1799)に出版された京都の名園案内書に描かれた蹴鞠の風景。本文の説明には,当時は七夕を恒例の開催日として,飛鳥井・難波両家で蹴鞠の会が開催されたとある。この両家は,蹴鞠が貴族社会に受け入れられていく中で,技術・故実(作法)を蓄積した家として成長し,いわば蹴鞠の家元として指導的な立場に立った。画像から鞠場の周囲に柵が設けられ,競技者と観覧者とが明確に分けられていることがわかる。技術の高度化・複雑化によって,蹴鞠は遊戯から競技として鑑賞・観覧の対象に変化していったと考えられる。
(図書寮文庫)
元弘元年(1331)頃に成立した,兼好法師(1283-1352)による随筆。本書は室町時代中期に書写された本である。画像は,伊勢国(三重県)から鬼女が京都に連れてこられたという噂に人々が惑わされる話。結局噂だけで鬼女を見た者はいないが,話の結末では鬼女の噂が立ったのはその頃に流行った病の前兆であるとして,両者を結びつける見方をする者がいたことが語られる。中世において病は鬼が原因であるということが,このような話からも窺える。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代後期の公卿九条稙通(たねみち,1506-94)が源氏物語の講釈を受け終えた祝宴に掛けた掛幅である。稙通の着想で土佐光元に描かせ,師であり伯父の三条西公条(きんえだ,1487-1563,法名仍覚)に讃を依頼した。公条による源氏物語講釈は弘治元年(1555)に始まり永禄3年(1560)に終了。図様は,紫式部が源氏物語を石山寺で構想したという伝承に基づく。九条家旧蔵。
(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。