時代/地域/ジャンルで選ぶ
(選択を解除)(図書寮文庫)
明治30年代の岡山市の市街地を写した写真。左に写る高層の建物は,現在の北区天神町にあった亜公園(あこうえん)の集成閣。後楽園に亜(つ)ぐ公園として名付けられた亜公園は,明治25年(1892)に開園したテーマパークで,集成閣を中心に娯楽施設や商店が並んで賑わったという。写真の奥(南)には,工場の煙突や煙りも写っている。
同じ写真帖には,後楽園や津山城(鶴山城)址などの県内の名所のほか,第六高等学校(明治33年開校)や県立女子師範学校(同35年開校)など教育機関の写真も収められている。そのうち江戸時代に設立した閑谷学校(しずたにがっこう:現在の岡山県備前市に所在)は「私立閑谷中学校」と題されており、その名称が使われていた明治36~37年頃にこのアルバム『岡山県名勝写真』が編まれたことがわかる。
明治・大正期には,地方の実情を伝えるものとしてこうしたアルバムが各地で数多く作られ,皇室に献上された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治10年(1877)から同13年までのイギリス留学中に収集したロンドンの写真。画像はシティの証券取引所で,現在は高級ショッピングモールになっている。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)が,明治19年(1886)から5年間に及ぶドイツ留学中に収集したベルリンとポツダムの写真。画像は19世紀末に電化される以前のベルリン馬車鉄道の証券取引所駅。
この写真には右下に浮印があり,かすかに「1882 berlin」と読み取れる。証券取引所駅は1882年の開業で,現在はハッケシャー・マルクト駅となっているが,開業当時の面影を残している。
(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は明治22年(1889)に開催されたパリ万国博覧会を見学しており,その際に収集したパリの写真帖。画像はエトワール凱旋門。エトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いの勝利を記念してナポレオン・ボナパルトの命で1806年に建設が開始され,ナポレオン没後の1836年に完成した。
(図書寮文庫)
オーストリア=ハンガリー帝国の二つの首都ウィーンとブダペストの写真。画像はウィーンのシュテファン大聖堂の写真。
ドイツ留学中の亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,帰国が決まると,明治24年(1891)7月13日にベルリンを発ってオーストリア各地を歴訪し,同27日にシュテファン大聖堂などを見学したのちイタリアのベニス(ヴェネツィア)に向かった。シュテファン大聖堂はハプスブルグ家の歴代君主の墓所であるほか,W・A・モーツァルトの結婚式及び葬儀が行われたことで有名。この大聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年に世界遺産に登録されている。
(図書寮文庫)
イタリアのベニス(ヴェネツィア)およびローマの写真帖。画像はベニスの有名な観光名所であるリアルト橋とゴンドラの写真。ベニスのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つであるリアルト橋は,1591年に完成し,「白い巨象」とも呼ばれた。ヴェネツィア共和国が設計案を一般公募した際には,ミケランジェロも応募したといわれている。
明治24年(1891)7月28日にオーストリアよりベニスに着いた亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,北イタリアを歴訪し,8月14日にローマに着いた。約2週間滞在したのち,さらにイタリア各地を回り帰国の途に就いた。同年11月6日に帰朝,12月17日に明治天皇に拝謁している。
(図書寮文庫)
明治41年(1908)の嘉仁親王(よしひと,後の大正天皇)東北行啓を記念して作成された山形県の写真帖。嘉仁親王は9月15日から19日の5日間米沢市及び山形市に御滞在になり,市内の学校や織物工場,山寺等を御巡啓。写真帖には行啓先の学校や織物工場,県庁や山寺等が収められている。
(図書寮文庫)
赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税(ちから)など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記され,臨場感あふれる仕上がり。文政13年(1830)の写しで,100年以上前の討入りへの関心の高さを示す。