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(選択を解除)(図書寮文庫)
十五夜の頃,神楽岡に棲む様々な虫や動物たちが禁裏の御庭に集い,和歌を詠みあうという創作物語を,双六に仕立てたもの。物語は,建保6年(1218)8月13日に第84代順徳天皇(1197-1242)出御のもと中殿(清涼殿)で行われた,有名な和歌・管絃の催し「中殿御会」になぞらえた内容となっている。
双六には46個のマスがあり,それぞれの中には物語に登場する虫や動物が生き生きと描かれる。また,マスの一つ一つには名称が付けられ,賽の目に応じたマスの移動先も示されており,「飛び双六」のルールで進むことが分かる。賽の目は,1~6の数ではなく,「池・月・久・明・和・歌」(「池月久明」は建保6年中殿御会の和歌題)の6文字で構成されたと考えられる。典雅な趣向を凝らした,他に類例をみない珍しい双六である。昭和22年(1947)まで宮内省にあった御歌所旧蔵本。
(図書寮文庫)
橘成季(たちばなのなりすえ,生没年未詳)が建長6年(1254)にまとめた説話集。本書は江戸時代初期に写された本である。画像は,漢詩に長けていた菅原文時(ふみとき,899-981)の家の前を鬼神が通りがかったところ,その漢詩の才能に敬意を表して拝礼をして通ったという夢をある人が見た話。鬼が野蛮で心がない存在ではなく,人間と同じく漢詩を敬う心を持っていたということが描かれている。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇の皇后であった節子皇后(貞明皇后,1884-1951)が東伏見宮に下賜した色紙である。詞書に「沼津で得た竹の子を贈ったところ,その様が面白いので写生してこちらに贈ってくれた嬉しさに」とあり,東伏見宮妃の周子(かねこ)が竹の子の御礼に写生した絵を贈ったことに対する,皇后からの返礼の御歌と考えられる。御歌は竹の子になぞらえて東伏見宮を寿ぐ内容となっており,また料紙の継色紙は銀泥で鳥や草花が繊細に描かれ,流麗な文字をより華麗なものとしている。東伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,後小松天皇(第100代,1377-1433)宸筆の書状である。年未詳ながら,宛所(宛先)はないが,書止に「謹言」と書いているところ,天皇周辺の然るべき御身分の方宛てに書かれたものである可能性がある。内容は,短冊や詠進に関することが記されており和歌御会などに関するものと推察される。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾天皇(第108代,1596-1680)宸筆による古歌の散らし書き懐紙を掛幅に仕立てたもの。古歌は,藤原公通(きんみち)の『新古今和歌集』夏部所収の和歌(「二こゑときかすはいてしほとゝきす幾夜あかしのとまりなりとも」)である。大意は「ほととぎすよ,二度目の鳴き声を聞かないことには出航はするまい。たとえ何日もこの明石の浦で,夜を明かす停泊になるとしても」。閑院宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,従三位中納言紀長谷雄(きのはせお,845-912)の詩文集である。長谷雄は,菅原道真などの当時最高の学者に師事した文人貴族。本書は,巻14の断簡で,かつ巻頭が欠けてはいるが『紀家集』唯一の伝本である。延喜19年に大江朝綱(おおえのあさつな,886-958)によって書写されたもの。紙背には延喜10年代の11通余の申文(任官を願う上申文書)があり,これも貴重である。伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,1265-1317)の宸筆御集(御製集)である。能書で知られる伏見天皇であるが,なかでも緩急自在に書かれたこの御集の断簡は「広沢切」と称され特に珍重されている。本書の紙背(裏面)は嘉元5年(徳治2年,1307)の具注暦で,その裏に夏の歌を書写して一巻としている。恐らくは天皇御自身が,御製集編纂のために書写した草稿本と推測される。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の第92代伏見天皇(1265-1317)宸筆の御日記。天皇は後深草天皇(1243-1304)の第2皇子。政務や儀式を記す他,学問・文芸に優れたため,教養・趣味に関する記述も多い。屈指の能書家で,平安時代の優麗な書風に学ぶ伏見院流を開かれた。画像は永仁元年(1293)8月27日条で,伏見天皇が勅撰集『玉葉和歌集』の編纂を二条為世(ためよ)らにお命じになった際の記事である。
(図書寮文庫)
本書は,後花園天皇(第102代,御在位1428-64)の宸筆をまとめたもので,画像は永享7年(1435)9月15日,父の貞成親王(さだふさ)に宛てられた御消息(手紙)。天皇17歳の時の書で,貞成親王書写の『金葉和歌集』等が天皇のもとへ献上されたことへの御礼と,和歌が「散らし書き」という書式で書かれている。紙の中途から書き始め,書き進めるにつれて余白に書いていくために次第に字も小さくなるため,大きな文字のグループから読んでいくことになる。
(図書寮文庫)
本書は,後柏原天皇(第104代,御在位1500-26)宸筆の色紙幅で,金・銀の薄と月の下絵に漢詩と古歌が散らし書きにされている。漢詩は出典未詳,和歌は4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』第235番歌(よみ人知らず)。薄,月は秋の景物であり,漢詩,和歌共に風による秋の到来を実感させるものが選ばれている。
(図書寮文庫)
本書は,後奈良天皇(第105代,御在位1526-57)宸筆の和歌懐紙で,永正9年(1512)七夕和歌御会の際に詠進された,天皇がまだ親王であった17歳の時の書と考えられている。歌は区切れとは関係なく3行と3文字に分けて書かれており,この書き方は現在の歌会始の懐紙でも受け継がれている。
(図書寮文庫)
本和歌集は,八代集の第3番目の勅撰集。花山天皇(第65代,968-1008,在位984-86)の編によるものとされ,11世紀の初めに成立した。本書には,四季・賀・雑等の部立にわたって30首以上の御賀和歌が入集されており,他の勅撰集よりその数が多いのが特徴である。画像は,承平4年(934)3月26日に朱雀天皇(第61代,923-52,在位930-46)によって催された皇太后藤原穏子(おんし)五十の御賀に際して紀文幹(きのふみもと)が詠んだ屏風和歌「春霞たてるを見れば荒玉の年は山よりこゆるなりけり」。穏子は醍醐天皇(第60代,885-930,在位897-930)の后で五条后(ごじょうのきさい)と称された。なお,本書は,鎌倉時代の正応3年(1290)に書写された拾遺和歌集古写本の一つとして知られている。
(宮内公文書館)
「孝明天皇紀附図原稿」は,孝明天皇(1831-66)御一代の編年史料集である「孝明天皇紀」220巻の附図の下絵である。作成年代は,明治38年(1905)頃,作者は北小路随光(よりみつ)(1832-1916)らである。同資料に含まれる「和歌御会始之図」は,江戸時代の歌会始の様子を再現した貴重な絵図である。嘉永元年(1848)2月18日に御所(現京都御所)の小御所(こごしょ)で催された歌会始を描いている。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。
(宮内公文書館)
有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)(1812-86)が,明治14年(1881)の歌会始で詠進した懐紙である。「直なるすがたにちよの色ミせてうてなの竹ハいやさか枝津川(えつつ)」。懐紙の書式は,前近代の様式(3行と3字など)を踏まえつつも変化し,明治14年に確定した。皇族の場合,端作(はしづくり)(料紙右端にある題などを記した端書き)は「新年詠〇〇(題)歌」または「新年詠〇〇応制歌」と記すことで定まった。
(宮内公文書館)
歌会始で詠進されたすべての歌を書写した資料である。明治8年(1875)から同19年までの26冊が伝来している。最も古い明治8年は6冊から成り,御製・御歌以下皇族・華族・士族・平民からの詠進歌が写されている。一般からの詠進を募るようになったのは明治7年のことであったが,詠進歌の数は次第に増加してゆき,明治20年に約6500首であったのが明治末年には2万7000首を越えている。
(図書寮文庫)
円山応挙(1733-95)が描いた富士山の図に,有栖川宮織仁親王(おりひと,1753-1820)が讃(画讃とも,絵の余白などに書き添えられた文章・漢詩・和歌のこと)を付された掛軸。「竜渕王」は,織仁親王が文化9年(1812)の出家後に称された号である。讃は後年に加えられたもの。「雲きりも及ばぬふじのたか根にはおもひくらぶる山の端ぞなき 竜渕王讃」。
(図書寮文庫)
在原業平(ありわらのなりひら,825-80)とされる「昔男」からはじまる物語。本書は室町中期に写されたもの。画像は,男が「東下り」をする道中に,富士山を見て夏であるのに雪が降り積もる様を「ときしらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん」と和歌に詠じた場面。