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第108代後水尾天皇(御在位1611-29)の御落飾後を描いた掛幅。尾形光琳(1658-1716)画。後水尾天皇は学問や和歌などの文芸にご関心が深く,江戸幕府との難しい関係の中,宮廷文化の復興に力を注がれた。
なお,光琳の落款を見ると,法橋(ほつきよう,本来は僧に授与する位だが仏師や絵師にも授けられた)とあり,光琳が法橋に叙せられた元禄14年(1701)以降の作品だとわかる。後水尾天皇は延宝8年(1680)に崩御されているので,制作年代に疑問があるようにみえる。しかし,貴人の肖像画は,原画に拠って描かれることが多く,ここでも公家が描いた下絵をもとに,描かれたものだと思われる。
(図書寮文庫)
これは,慶応2年(1866)正月23日に木戸孝允より坂本龍馬(1836-67)に宛てられ,2月5日,裏に龍馬自筆で薩長同盟の裏書をし,木戸に送り返された書簡。表は薩長同盟の6か条を記した木戸の書簡で,龍馬がその求めに応じ,6か条に誤りがないことを保証するため朱墨で裏書をした。薩長同盟の内容はこの書簡によって明らかとなる。画像は龍馬による裏書部分。
(図書寮文庫)
これは,初代内閣総理大臣となった伊藤博文(1841-1909)の明治9年(1876)12月5日付木戸宛の書簡。冒頭に「華族バンク」とあり,華族の出資で設立され,「華族銀行」とも称された第十五国立銀行関係のものと分かる。同行は,明治10年5月21日に開業し,木戸はその5日後に亡くなった。同行は大正2年(1913)に宮内省本金庫事務取扱(宮内省の指定銀行)になった。
(図書寮文庫)
これは,奇兵隊などで著名な長州藩士・高杉晋作(1839-67)の慶応2年(1866)2月20日付木戸宛の書簡。本文中に「英人,薩士と会和の事」という文言があり,いわゆる「薩英戦争」(1863)後の両当事者の歩み寄りについて書かれたものである。なお,この前後にも同様の文言の見える書簡が並ぶところから,長州藩内でも英国と薩摩藩との動静に並々ならぬ関心があったことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,幕末維新期,薩摩藩の大立者であった小松清廉(1835-70)の明治元年(1868)閏4月17日付の木戸宛の書簡。文中に「徳川御所置(=御処置)」の文言があり,画像にも「家名相続は徳川亀之助(家達)」「秩禄高百十万石」「移封の地は駿府」と見える。別に「徳川御所置」という文言を含む書簡もあるので,木戸・小松という薩長首脳部の間で,当時慶喜隠居後の徳川家の処遇をめぐる議論がなされていたことが窺える。
(図書寮文庫)
これは,薩摩藩士の大久保利通(1830-78)が一蔵(いちぞう)と名乗っていた時期の書簡。書かれた年次は不明だが,正月2日に木戸宛に送られたもの。当時の情勢に触れた本文では黒田(清隆)・村田(新八)・川村(純義)といった薩摩藩の人名が見えるほか,「上坂」(大坂に上ること)とあるので,関西方面での動きに注目したもののようだ。また追伸部分は,明治天皇の御動座に関する内容で,「物議騒然」たるときゆえ「用心」せよと書かれている。
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これは,かつて肥前佐賀支藩・鹿島(かしま)藩主であった鍋島直彬(なべしまなおよし,1843-1915)が明治10年(1877)5月13日付で木戸に充てた書簡。鍋島は渡米経験もあり,その経験に相応しく,朱で世界地図を印刷した珍しい紙に手紙を書いている。同年の西南戦争に際し旧領鎮撫のために肥前に下った鍋島が,現地の近況を報告するとともに,木戸の病の重いことを聞き療養を勧めている。木戸は同月26日に,国家を案じつつ亡くなった。
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新田義貞(にったよしさだ,1300-38)が公卿四条隆資(しじょうたかすけ)に,法隆寺が所有していた播磨国(現在の兵庫県南部)の所領保全と訴訟の取り計らいを依頼した書状。内容から,義貞の軍勢が足利尊氏方の赤松一族を討つため,播磨国に出陣した延元元年(1336)のものと推定されている。義貞自筆ではなく右筆(書記)が書いたものと考えられるが,義貞の出した文書として貴重なものである。法隆寺旧蔵。
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室町幕府初代将軍足利尊氏(1305-58)が,公卿柳原資明(やなぎわらすけあきら)に宛てた書状で,「天下静謐」(内乱の終息)を喜び,神祇伯(神祇官の長官)の人事についても触れている。観応3年(1352)の,尊氏自筆のものと推定される。公家の日野家旧蔵。
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応仁元年(1467),室町幕府8代将軍足利義政(1436-90)が,陰陽道を司った公家土御門有宣(つちみかどありのぶ,刑部卿)に所領の領有を認めた文書。将軍の花押(御判)が書かれた「御判御教書」(ごはんのみぎょうしょ)は,主として室町幕府将軍が用いた文書様式である。有名な陰陽師安倍晴明の子孫である土御門家旧蔵。
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中国地方の戦国大名大内義興(おおうちよしおき,1477-1528)が,土御門家に宛てた所領の獲得を祝した書状。書かれた年代は不明。義興は,室町幕府10代将軍足利義稙(よしたね)を助けて幕府の実権を握るなど中央でも活躍し,大内氏の最盛期を築いた人物として知られている。本文は右筆(書記)が書いたものと思われ,日付の下に義興の名と花押が書かれている。土御門家旧蔵。
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天正5年(1577),織田信長が「やうしゆん院」に銭や米の得分を与えたもので,著名な「天下布武」の朱印が押されている。かな書きであることや日野家に伝えられたものであることから,「やうしゆん院」は日野家ゆかりの尼僧と推測される。信長の自筆ではなく右筆(書記)が書いたものと考えられる。
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天正10年(1582),豊臣(羽柴)秀吉が織田信長の三男信孝(のぶたか)に,本能寺の変後の動向を伝え,自身の活躍を訴えたもの。27ヶ条におよび,信長死後の織田家の相続を定めた清洲会議や,秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いの顛末が記されている。秀吉の自筆ではなく,控えとして写したものか,後世に写し取られたものと考えられる。幕末・明治期の国学者谷森善臣の旧蔵。
(図書寮文庫)
桂宮家旧蔵の伊達政宗書状。すべて八条宮家の家司生島宮内少輔秀盛に宛てた書状。年次を欠いているが,内容や自署・花押の形から,元和から寛永年間の頃に書かれたとされている。この時期は八条宮家初代当主智仁親王(としひと),2代智忠親王(としただ)の代にあたる。伊達政宗と八条宮家の交流が伺える史料。全9通の内1通は,寛永11年(1634)のものと推測される政宗自筆の書状。