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(選択を解除)(宮内公文書館)
文久2年(1862)閏8月8日に宇都宮藩主戸田忠恕(ただゆき)から幕府に提出された「山陵修補の建白書」を契機として、各山陵の修補事業が始まった。いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる修補事業の成果物として作成されたのが、「文久山陵図」である。
図を描いたのは、狩野派の画家として知られる鶴澤探眞(つるさわたんしん)である。「文久山陵図」は、文久の修陵以前の状態を描いた「荒蕪図」(こうぶず)と修陵以後を描いた「成功図」(じょうこうず)からなる。「文久山陵図」は、2部作成され、それぞれ朝廷と幕府に提出された。朝廷に献上された分の写しが、宮内公文書館に所蔵される本資料であり、幕府に提出された分は、現在、国立公文書館に所蔵されている。
大和・河内・和泉・摂津・山城・丹波にある47陵の「成功図」、「荒蕪図」が作成されているが、本資料は、「荒蕪図」に収められる仁徳天皇陵の絵図である。修陵以前には、墳丘には雑然と木々が生い茂っていることが一目瞭然である。また、第一堤の途中が途切れており、第一濠と第二濠がつながっていることがわかる。
(宮内公文書館)
本資料は、宮内公文書館で所蔵する「文久山陵図」のうち、「成功図」(じょうこうず)に収められる仁徳天皇陵の絵図である。「荒蕪図」(こうぶず)と見比べると、その違いがよくわかる。墳丘に生い茂っていた木々は整備され、また、顕著な違いとして、拝所が設けられている。拝所は、扉付き鳥居(神明門鳥居)と木柵に囲まれている。拝所附近に描かれる燈籠(とうろう)は、現在も仁徳天皇陵において使用され、場所そのものは、移動しているものの、文久の修陵時に設置された燈籠の姿をそのままに、現在にまで伝わっている。背面には「元治元甲子年九月」の記載が残る。明治期以降、宮内省諸陵寮が仁徳天皇陵をはじめ各陵墓の事務を所掌(しょしょう)するようになると、整備された陵墓を維持・管理すべく、地域住民とも協力しながら日常的な管理が実施されるようになる。絵図ゆえに、正確性については考慮する必要はあるが、当時の陵墓を知る上では、貴重な資料であろう。
(図書寮文庫)
本資料は、嘉永元年(1848)11月に行われた、孝明天皇(1831-66)の大嘗祭(大祀とも称する)の豊明節会で用いられた笏紙である。豊明節会とは、五節舞姫(ごせちのまいひめ)による舞などが披露される饗宴儀礼であり、大嘗祭の場合は通例4日目の午の日に行われた。
笏紙とは、儀式本番での失敗を防ぐため公家たちが用いた、一種の手控えである。掲出画像左側にあるものを見ると、笏の形に合わせて縦30㎝弱に切られた紙に、儀式の次第が書き連ねられているのが分かる。これを笏の裏側に貼ることで、参列者は儀式当日に笏を構えた際、儀式の流れを暗に確認できた。
本資料は鷹司家に伝来したもので、豊明節会の内弁(ないべん、儀式の進行を統括する役職)を務めた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ、1807-78)によって作成された。輔煕は念のため、天皇が出御した場合の笏紙(掲出画像の右)と、不出御となった場合の笏紙(同左)の2枚を作ったが、当日天皇は節会に出御したため、前者が用いられた。右の笏紙は次第を記した表面ではなく、裏面を掲出しているが、その上下端はわずかに変色している。これは当日、笏に貼り付けた際の糊跡である。
(図書寮文庫)
本資料は、朝廷の政治事務を司る官職である「外記・史」(げき・し)の「分配」(ぶんぱい)に関する記録である。「分配」とは、朝廷の儀式や行事の役割分担、配置をあらかじめ定めておくことをいう。史を統括する壬生家に伝わったもので、天文4年(1535)~寛永8年(1631)の分について、儀式・行事ごとに開催年月日、分配の対象者、下行(げぎょう、経費・給与の支給)等が記されている。これらから、戦国~江戸時代の朝廷儀礼、外記・史の人々の様相をうかがい知ることができる。
画像中央に「天正十四年 関白秀吉様/太政大臣 宣下」と見えるのは、天正14年(1586)、羽柴(豊臣)秀吉が太政大臣に任じられた際のもので、この時は外記・史を兼任する中原「康政」が宣下の儀式に参仕したことがわかる。また、「三貫」(約30~60万円)の下行のあったことが注記されている。
また、その右側にある「着陣」とは、廷臣が叙位・任官した後、初執務を行う儀礼で、名前の見える羽柴「美濃守」秀長、羽柴「孫七郎」秀次、徳川「家康」、「伊勢御本所」こと織田信雄は、この天正14年に官位が昇進している。
(図書寮文庫)
延喜式(50巻)は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちの式を官司別に編纂したものである。
本資料は壬生(みぶ)家旧蔵で、巻1から巻8と巻13を欠き、2巻ずつを1冊(巻14のみ1冊)とした21冊本である。各冊の表紙に「共廿五」とあることから、本来は25冊であったことがうかがえる。ただし巻14のみ1冊であることから、もとより巻13を欠いていたとみられている。8冊に壬生家の蔵書印である「禰家蔵書」(でいけぞうしょ)印が捺される。
書写に関する奥書等は存しないが、江戸初期の本とみられる。全体を通して付されている傍訓やヲコト点等、古い写本の流れを受け継ぐ他、巻17には他の写本にあまりみられない「弘」「貞」といった標注が見えている。
鈴鹿(すずか)文庫旧蔵(現在大和文華館所蔵)の延喜式板本に清岡長親(きよおかながちか、1772-1821)が文政3年(1820)に壬生以寧(みぶしげやす、1793-1847)所蔵本で校訂した旨の奥書が見えるが、その本が本資料に当たるとみられる。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)に竣工した日光田母沢御用邸のうち、赤坂離宮(旧紀州藩徳川家武家屋敷)から引き直した「御三階」の切断図面である。御用邸の竣工に際しては、明治22年に新築された御車寄も赤坂離宮から移築されている。「御三階」は天保11年(1840)に建設された紀州藩徳川家屋敷の中でも中心的に用いられた建物である。明治6年に紀州藩徳川家より献上され、明治22年まで赤坂仮皇居として利用されていた。
「御三階」は数寄屋風書院造りで、日光田母沢御用邸へ移築されたのちは、1階を御学問所、2階を御寝室、3階を御展望室として利用されていた。1階と3階には共通する大きな丸窓の意匠があり、御用邸としての趣もさることながら旧紀州藩徳川家の武家屋敷の様子も今に伝えている。建物としては、3階へ向かうにつれて数寄屋造りの意匠が強くなり、2階と3階には数寄屋で使う面皮柱と書院で使う角柱が交互に用いられるなど珍しい意匠が採用されている。特に3階からは、大正天皇が御製(ぎょせい)にも詠まれた鳴虫山(なきむしやま)を見晴らすことができる。日光田母沢御用邸はこうした引き直した建築と既存の建築(旧小林年保別邸)を組み合わせるかたちで竣工している。
(図書寮文庫)
本資料は、寛永 20 年(1643)に行われた後光明天皇(1633-54)の即位礼に際して作られたと推定される、天皇の礼服(らいふく)のミニチュア・モデルである。礼服とは、古代中国の制度を起源とする、特定の国家的儀式で着用する礼装のことである。日本においては、平安時代前期に即位礼などで用いられる服装として定められ、弘化 4 年(1847)に行われた孝明天皇の即位礼に至るまで用いられた。
天皇の礼服は、中国の皇帝が同様の儀式で着する衣装を踏襲したもので、多くの服飾から成るが、本資料で模造されているのは、上下の上着部分である大袖(おおそで、掲出画像の上部)および裳(も、掲出画像の下部)のみである。実物は鮮やかな赤色の生地であり、左右の袖に織られた二匹の龍をはじめ、十二章(じゅうにしょう)と総称される文様が刺繍されているが、ここでは紙を切り合わせて縦 20 ㎝・横 30 ㎝前後のサイズで形状を再現し、文様や折り目を墨で描いている。ただし、現存する天皇の礼服と比べると、図像の一部に相違や省略がある。なお、礼服の詳細については、『皇室制度史料 儀制 践祚・即位 二』(宮内庁、令和 5 年 3 月)も参照されたい。
(図書寮文庫)
資料名の「甲子」は幕末期の元治元年(1864)の干支(かんし)に当たり、「兵燹」は“戦争で生じた火災”を指す。本資料は元治元年 7 月 19 日、政治的復権を図る長州藩軍と、京都御所を警備する会津藩・薩摩藩らの間で勃発した禁門の変を描いた絵巻。京都生まれの画家前川五嶺(ごれい、1806-76)の実見記と画を縮図して、明治 26 年(1893)8 月 5 日付で発行された。
この戦いでは長州藩邸から出た火によって大規模火災が発生し、翌日夜までに焼失した町数は 811、戸数は 2 万 7513 軒にものぼったとされ、京都市中に甚大な被害をもたらした。
掲出図は、燃える土蔵を竜吐水(りゅうどすい、手押しポンプ)により消火している場面で、本資料は被害を受けた京都民衆の姿を中心に描いている点が特徴的である。
「甲子兵燹図」は異本(いほん)が各地に現存しているが、本資料は明治 26 年 10月、戦没者の三十年慰霊祭の首唱者である旧長州藩士松本鼎・阿武素行から明治天皇に献上されたものである。
(図書寮文庫)
「大日本維新史料稿本」は、明治維新の政治過程を明らかにするために、文部省維新史料編纂会(1911-41)が編纂した 4,000 冊を超える史料集。孝明天皇が即位した弘化 3 年(1846)から廃藩置県の明治 4 年(1871)までが対象で、手書きで年月日順に綱文(見出し)を立てて史料を配列し、事件の概要を示している。
本資料はその「大日本維新史料稿本」の複本で、タイプライターで作成されている点を特徴とする。大正 12 年(1923)の関東大震災で収集資料に被害を受けた維新史料編纂会は危機感を強め、タイプライターで複本を 4 部作成し、1 部を編纂会の倉庫で保存し、1 部を明治神宮に奉納し、2 部を「宮廷」(皇室)に献上することにした。このうち皇室献上の分は 1 部が宮内省図書寮で、もう 1 部は遠隔地の京都御所で保管されることになった。
昭和 3 年(1928)から段階的に作成されたが、第二次世界大戦の影響からか、複製業務は未完で終了した。
掲出箇所は明治元年 3 月の五箇条御誓文の原案の一つ。タイプ打ちで表現困難な史料は写真を挟むなど、複本作成時の工夫がみられる。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の九条家当主である九条幸家(くじょうゆきいえ、1586-1665)が記した目録。『古今集注』(九・5322)『古今集聞書』(九・5321)と同じ箱に納められていた。慶安元年(1648)8月2日に九条家の文庫からこれらの書を取り出した時のもの。幸家は『古今集注』を書写した九条稙通(くじょうたねみち)の孫。
1行目に『古今聞書』として「東光院殿御自筆 六冊」とあるが、これに相当する『古今集聞書』(九・5321)は東光院(九条稙通のこと)の筆ではない。ほかにもこの目録によって「逍遥院」(しょうよういん、三条西実隆、1455-1537、稙通の祖父)筆や「後浄土寺殿」(のちのじょうどじどの、九条道房、1609-47、幸家の子)筆の注釈書があったことがわかるが、現在の図書寮文庫蔵九条家本には見当たらない。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)解題中に翻刻を掲載している。
(図書寮文庫)
本資料は、東山天皇(第113代)の第6皇子で、閑院宮初代、直仁親王(なおひと、1704-53)詠、御筆の和歌懐紙である。本懐紙のように、男性の和歌懐紙は、歌題、署名、歌の順に書き、歌は3行と3文字にかけて書くのが通常の書式である。閑院宮家旧蔵資料であるが、初代当主御直筆の懐紙として掛軸に表装され、大切に伝えられたのであろう。
本資料に記された歌題や署名からは和歌会の年次を探ることはできなかったが、その後の調査で、この時に詠まれた懐紙原本の一群が発見された。寛延3年(1750)3月9日に有栖川宮家で催された和歌会であり、参会者34名の懐紙の中に直仁親王が詠まれた和歌懐紙(有栖・19のうち)も存在したことから、本懐紙は清書ではなく下書き、あるいは控えと位置づけられるに至った。双方の懐紙を比較したところ、ほぼ同一の書きぶりとなっており、清書に際しては師匠のお手本が存在した可能性もあろう。
(図書寮文庫)
本資料は寛永16年(1639)10月5日に行われた歌合で、和歌奉行(世話役)を務めた勧修寺経広(かじゅうじつねひろ、1606-88)による記録の写しである。本歌合は後水尾上皇(第108代)によって仙洞で催された。本歌合以前に行われた会は天正8年(1580)の天正内裏歌合まで遡り、そのため歌合の経験があったのは参加者24名のうち西洞院時慶(にしのとういんときよし、1552-1639)1名のみであった。久しぶりの会のため提出する懐紙の封をする作法が分からなくなっている様子が、参加者の一人であった九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の『道房公記』寛永16年記(九・5119のうち)からうかがえる。本資料では歌合に出詠された和歌と詠作者名が記されないのに対して、今までの記録に詳述されていない事前の準備(催行日時および歌題の通知など)や当日の式次第などが中心となって記録されている。これは、経広が具体的な先例が残されていないために苦慮したことからあえて記したものと推測される。本歌合での和歌などについては『寛永十六年仙洞歌合』(鷹・357のうち)などによっても知ることはできるが、本資料以外では奉行という立場から記されている資料は存在しないため貴重な資料であると言えよう。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(図書寮文庫)
本資料は、江戸時代後期の天保12年(1841)閏正月27日、前年11月に崩御した太上天皇(御名は兼仁(ともひと)、1771-1840)に「光格天皇」の称号が贈られた際の詔書。年月日部分のうち、日付の「廿七」は仁孝天皇(1800-46)の自筆で御画日(ごかくじつ)という。
「光格」は生前の功績を讃(たた)える美称で諡号(しごう)に該当する。諡号は9世紀の光孝天皇(830-87)を最後に、一部の例外を除き贈られなくなり、代わりに御在所の名称などを贈る追号(ついごう)が一般的となっていた。
さらに「天皇」号も10世紀の村上天皇(926-67)が最後で、以後は「〇〇院」などの院号が贈られることが長く続いていた。そのため、「光格天皇」号は、「諡号+天皇号」の組み合わせとしては約950年ぶりの復活であった。院号は幕府の将軍から庶民まで使用されていたことから、天皇号の再興(さいこう)は画期的なことといえた。
これは、光格天皇が約40年に及ぶ在位期間中に、焼失した京都御所を平安時代の規模で再建させたことを始め、長期間中断していた朝廷儀式の再興や、簡略化されていた儀式の古い形式への復古(ふっこ)に尽力したことが高く評価されたためであった。
(図書寮文庫)
安政4年(1857)、アメリカから通商条約の締結を要求された江戸幕府は、世界情勢の変化を考慮して許可することを決定し、その経緯を朝廷に報告した。さらに勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得た後に条約を締結することとし、翌5年2月、勅許を求めるために派遣された老中(ろうじゅう)が京都に到着した。
本資料は、その直前に当たる安政5年正月17日、孝明天皇(1831-66)から関白九条尚忠(ひさただ、1798-1871)に宛てて書かれた天皇自筆の書状。通商条約に「日本国中不服」では「大騒動」が起きてしまうと憂慮した内容で、“自分の代でそのようになっては後々までの恥の恥となるであろうし、伊勢神宮を始めとする神々にはまことに恐縮である。さらに歴代天皇に対する「不孝」となり、自分は身の置きどころがない”と苦しい心中が記載されている。
結局、条約を勅許するには公家のみならず、御三家(水戸藩・尾張藩・和歌山藩)を始めとする全国の諸大名からの広い合意が必要と判断した孝明天皇は、条約の勅許を認めなかった。それ以降、条約勅許問題は幕末政治の大きな争点となっており、本資料は孝明天皇の意思がうかがえる貴重なものである。
(図書寮文庫)
鳩杖(はとづえ・きゅうじょう)とは、主に長寿を祝う品として贈られた、鳩の装飾が施された杖である。なかでも皇室から老齢の重臣等に贈られたものは、明治以降に宮中杖と呼ばれた。意匠に鳩が選ばれた理由は、餌を食べても喉を詰まらせない鳥であることから健康祈願を託したなど、諸説あり定かでない。
中国では、漢の時代、高齢者や老臣に対し鳩杖を贈る制度があった。日本においても、平安時代には鳩杖という言葉が、鎌倉時代には老臣への鳩杖下賜が文献に確認される。江戸時代半ば以降は現物ではなく、宮中での使用許可と製作料を与えるかたちが通例となった。現行憲法下では、吉田茂はじめ4名に現物が贈られている。
宮内省図書寮編修課は昭和13年(1938)から宮中年中行事調査の一環として鳩杖・宮中杖の調査を行った。本写真帳はその参考資料とみられ、「現行宮中年中行事調査部報告9 宮中杖」の附属写真帳「鳩杖聚成(しゅうせい)」と内容が一致する。ただし、本資料では裏書きに「昭和九」と確認でき、写真自体は調査開始以前の撮影と思われる。
掲出箇所は、前記報告書の「子爵萩原家所蔵員光(かずみつ)ノ鳩杖」に該当する写真である。萩原員光(1821-1902)は幕末・明治の公家・華族。明治34年(1901)に「老年ニ付特旨ヲ以テ」杖の使用を許され、併せて贈られた杖料で本杖を製作した。本体は木製漆塗り(一部銀製)で長さは約1m10cm、鳩形は純銀製で約4cmとある。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の公卿九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の自筆日記。寛永11年(1634)記は,現存する道房の日記のうち最初の年次のもの。この年の暦1巻の余白部分に書かれており,書き切れない場合はその部分に白紙を継ぎ足して,本文の続きや図が書き込まれている。
道房は初めの名を忠象(ただかた)といい,父は摂関家の一つである九条家の当主幸家(ゆきいえ),母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘完子。兄に二条家の養子となった康道がいる。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)によれば,道房は寛永9年12月に24才で内大臣に任じられているが,当時,大臣クラスの人事には江戸幕府の承認が必要であり,その調整に歳月を要したため,実際に任官が認められたのは同12年7月のことであった。この経緯は,寛永11年記にも散見され,道房が日記をつけ始めたことと関係がありそうである。
このほかの記事も豊富で,実弟の道基(みちもと,後の松殿道昭)の元服,将軍徳川家光の京都入り,白馬節会などの宮廷儀式の作法,和歌懐紙の書き様など,内容は多岐にわたり,公家社会の様相はもとより,江戸時代前期の政治や文化を知る上で欠かせない貴重な資料となっている。『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(宮内庁書陵部,令和4年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本記は,九条道房の自筆日記のうち,寛永16年(1639)10月の仙洞歌合(うたあわせ)に関する,別記的な性格を持つ記録。歌合とは歌人を左右にわけて,和歌の優劣を競う催しで,各組が相手の詠草(えいそう)を論ずる(難陳〈なんちん,ディベート〉)。当時の仙洞(上皇)は後水尾上皇(ごみずのお)で,上皇は久しく行われていなかった仙洞歌合の開催に意欲的だった。上皇より歌題を賜った道房は,歌人の中院通村(なかのいんみちむら)と相談し,詠草を整え進上する(9月22,29,30日条)。次いで二度の御習礼(リハーサル)を行い(10月3,4日条),歌合当日を迎える(10月5日条)。久しぶりの開催で,当時実力のある歌人に恵まれなかったため,予定調和とはならず,道房の詠草は通村と調整したにもかかわらず,難陳での行き違いから水無瀬氏成(みなせうじなり)との論戦に発展,道房には不満の残る行事となってしまったらしい。なお,この歌合については,参加者だった近衛信尋(このえのぶひろ)・八条宮智忠親王(はちじょうのみやとしただしんのう)・中院通純(みちずみ)・勧修寺経広(かじゅうじつねひろ)などの記録や,詠草・判詞(優劣についての審判である判者のコメント)を載せた『寛永十六年仙洞歌合』も数種伝わり,これらにより行事の様子を立体的に復元できる。本記は,『図書寮叢刊 九条家歴世記録 六』(令和4年3月刊)に全文が活字化されている。
(図書寮文庫)
本記は,八条宮智忠親王(としただ,1619-62)御筆の記録で,寛永16年10月5日に後水尾上皇によって催された仙洞歌合の記録である。『道房公記』にも記録された仙洞歌合の記録の一つ。内容は,親王御自身の御詠草を含む詠歌や,難陳(なんちん,ディベート)などの歌合の中身には触れておらず,歌合における後水尾上皇以下各参加者の装束・役割分担・歌合の進行の様子を書き留めるだけの簡略な記述に終始しており,むしろのちに故実の参考とするためのものとも考えられる。これは,『道房公記』の記事にあるとおり,当時21歳と若年であるため難陳への参加を免除されたこと,また親王御自身が詠歌・難陳よりも行事自体に強い関心を持っておられたことによるものであろうか。簡潔に過ぎるとはいえ,『道房公記』では,歌合後,場所を改めて酒が出されたことしか記述しないのに対し,本記ではその宴会場が「本(もと)ノ御座敷」であったことや,饅頭が出たことなども記録しており,記事はわずか4丁分ではあるが,『道房公記』には記録されていない記事もあり,注目されてよい。