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(図書寮文庫)
古代において、土地税である田租の賦課対象でありながら、災害等により特定の年に耕作不能となった田地を、不堪佃田(ふかんでんでん、佃(たつく)るに堪えざる田)という。
平安時代には、不堪佃田は各国の官長である受領(ずりょう)が朝廷に申請し、天皇の裁可を得ることにより、その年の租税の一部を免除された。この手続きは、各国の申請をとりまとめ、先例を調査した結果を記した勘文(かんもん)とともに奏上する荒奏(あらそう)、天皇の指示を受けて公卿が審議する不堪佃田定(ふかんでんでんさだめ)、審議の結果を記した定文(さだめぶみ)を奏上する和奏(にぎそう)からなる。
本資料は、建長 6 年(1254)度の申請を対象とする手続きにあたり作成された文書の写しで、申請国を整理した注文と勘文・定文(掲出箇所)の 3 種類が貼り継がれている。鎌倉時代のものであるが、平安時代の儀式書に記された文書様式とよく一致し、古い政務の具体像を復元する一助となる。
本資料の勘文は文永 3 年(1266)、定文は元応元年(1319)に奏上された旨が記されており、申請年と荒奏・和奏の間隔が大きく離れていて、租税免除の実態は既に失われている。政務が形骸化しつつも、地方統治を象徴する吉礼として行われたと考えられる。
(図書寮文庫)
本資料は、寛永 20 年(1643)に行われた後光明天皇(1633-54)の即位礼に際して作られたと推定される、天皇の礼服(らいふく)のミニチュア・モデルである。礼服とは、古代中国の制度を起源とする、特定の国家的儀式で着用する礼装のことである。日本においては、平安時代前期に即位礼などで用いられる服装として定められ、弘化 4 年(1847)に行われた孝明天皇の即位礼に至るまで用いられた。
天皇の礼服は、中国の皇帝が同様の儀式で着する衣装を踏襲したもので、多くの服飾から成るが、本資料で模造されているのは、上下の上着部分である大袖(おおそで、掲出画像の上部)および裳(も、掲出画像の下部)のみである。実物は鮮やかな赤色の生地であり、左右の袖に織られた二匹の龍をはじめ、十二章(じゅうにしょう)と総称される文様が刺繍されているが、ここでは紙を切り合わせて縦 20 ㎝・横 30 ㎝前後のサイズで形状を再現し、文様や折り目を墨で描いている。ただし、現存する天皇の礼服と比べると、図像の一部に相違や省略がある。なお、礼服の詳細については、『皇室制度史料 儀制 践祚・即位 二』(宮内庁、令和 5 年 3 月)も参照されたい。
(図書寮文庫)
資料名の「甲子」は幕末期の元治元年(1864)の干支(かんし)に当たり、「兵燹」は“戦争で生じた火災”を指す。本資料は元治元年 7 月 19 日、政治的復権を図る長州藩軍と、京都御所を警備する会津藩・薩摩藩らの間で勃発した禁門の変を描いた絵巻。京都生まれの画家前川五嶺(ごれい、1806-76)の実見記と画を縮図して、明治 26 年(1893)8 月 5 日付で発行された。
この戦いでは長州藩邸から出た火によって大規模火災が発生し、翌日夜までに焼失した町数は 811、戸数は 2 万 7513 軒にものぼったとされ、京都市中に甚大な被害をもたらした。
掲出図は、燃える土蔵を竜吐水(りゅうどすい、手押しポンプ)により消火している場面で、本資料は被害を受けた京都民衆の姿を中心に描いている点が特徴的である。
「甲子兵燹図」は異本(いほん)が各地に現存しているが、本資料は明治 26 年 10月、戦没者の三十年慰霊祭の首唱者である旧長州藩士松本鼎・阿武素行から明治天皇に献上されたものである。
(図書寮文庫)
「大日本維新史料稿本」は、明治維新の政治過程を明らかにするために、文部省維新史料編纂会(1911-41)が編纂した 4,000 冊を超える史料集。孝明天皇が即位した弘化 3 年(1846)から廃藩置県の明治 4 年(1871)までが対象で、手書きで年月日順に綱文(見出し)を立てて史料を配列し、事件の概要を示している。
本資料はその「大日本維新史料稿本」の複本で、タイプライターで作成されている点を特徴とする。大正 12 年(1923)の関東大震災で収集資料に被害を受けた維新史料編纂会は危機感を強め、タイプライターで複本を 4 部作成し、1 部を編纂会の倉庫で保存し、1 部を明治神宮に奉納し、2 部を「宮廷」(皇室)に献上することにした。このうち皇室献上の分は 1 部が宮内省図書寮で、もう 1 部は遠隔地の京都御所で保管されることになった。
昭和 3 年(1928)から段階的に作成されたが、第二次世界大戦の影響からか、複製業務は未完で終了した。
掲出箇所は明治元年 3 月の五箇条御誓文の原案の一つ。タイプ打ちで表現困難な史料は写真を挟むなど、複本作成時の工夫がみられる。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、日露戦争の際に旅順要塞の攻略戦を第 3 軍司令官として指揮した乃木希典(のぎまれすけ、1849-1912)による同時期の自筆日記である。内容は明治 37 年(1904)11 月1日から翌年 1 月 12 日までの時期で、203 高地の攻撃、次男の戦死、水師営におけるステッセル将軍との会見の記事が含まれる。
掲出箇所は 37 年 11 月 3 日条で、戦地でも天長節(てんちょうせつ、ここでは明治天皇の誕生日)の祝宴が催されたと記述がある。また「外国武官」とあるように、戦地には諸外国の観戦武官も滞在しており、翌日条からは彼らにもシャンパンが贈られたことが分かる。この他、本資料には乃木と面会した人物として従軍記者、日本人の僧侶、視察に訪れた議員なども登場し、戦地近傍を多様な人びとが往来していた様子が浮かび上がってくる。加えて、病院への砲撃状況につきロシア側から軍使が派遣された際の法律顧問有賀長雄(ありがながお、1860-1921)を交えた答案協議など、直接的な戦闘に限らない戦地の様相を窺い知ることもできる。
なお、本資料を含む全 26 冊の日記及び記録は、昭和 9 年(1934)に甥の玉木正之ほかより図書寮に献納されたものである。
(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。受講者が書き留め、後に加筆されたのが本書にあたる。
九条家旧蔵本で、本書の2冊目~4冊目は関白九条稙通(くじょうたねみち、1507-94)の筆。
稙通は『源氏物語』をこよなく愛し、その注釈書である『孟津抄』(もうしんしょう)を著したが、戦乱の世の中で京都を離れ、摂津、播磨、大和などを往還し、武力との繋がりを持ってもいた。下向先で土地の権力者に『源氏物語』や『古今和歌集』の講釈を行っていたこともわかっている。この『古今集注』もそのような用途であったかと考えられる。
天正6年(1578)5月16日に書き始めたことが附属の紙罫(しけい、罫線が引いてある紙製の下敷き)の書き付けからもわかる。稙通はこのとき、72歳。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に全文が活字化されている。
(陵墓課)
千葉県木更津市に所在していた祇園大塚山古墳から出土した青銅製の鏡である。祇園大塚山古墳は墳長110~115mの前方後円墳で、古墳時代中期の関東地方を代表する古墳の一つであるが、その墳丘はすでに完全に削平されており、現存しない。ここで紹介する四仏四獣鏡のほか、動物文が彫刻された金銅製眉庇付冑(こんどうせいまびさしつきかぶと、東京国立博物館所蔵)などが出土したことでも著名である。
本資料は、中国における南北朝時代の南朝最初の王朝である宋で製作された踏返鏡(ふみかえしきょう:同型鏡(どうけいきょう)ともいう)の一種である。直径は30.4cm、重さは2,748gで、非常に大型の鏡である。長野県御猿堂(おさるどう)古墳出土鏡など数面が知られている画文帯環状乳仏獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうぶつじゅうきょう)の同型鏡を文様の笵(はん)として利用しつつ、素文(そもん)で幅広の外周と断面形状が台形となる縁(ふち)をつけくわえるとともに、鈕(ちゅう:中央のつまみのような突起)をひとまわり大きくする改変がほどこされている。
内区(ないく:内側の文様区画のことで鈕のまわりに位置する)には四つの乳(にゅう:小さな突起)にからむように龍虎を配し、そのあいだには如来(にょらい)の坐像や菩薩(ぼさつ)の立像といった仏像表現がみられる。内区の外側には半円方形帯(はんえんほうけいたい)がめぐり、半円内には花文、方形内には銘が配されているが、鋳造の仕上がりが悪く銘文の判読は困難である。
なお、我が国に仏教が伝わったのは6世紀中頃のことであるが、本資料は5世紀後半頃に日本列島へもたらされており、古墳時代にもたらされた仏像表現として三角縁仏獣鏡(さんかくぶちぶつじゅうきょう)とともに注目される。
(図書寮文庫)
本書は、『古今和歌集』の注釈書。宗祇(そうぎ、1421-1502)の講釈を肖柏(しょうはく、1443-1527)が書き留めた『古聞』をもとにした作品で、肖柏は講釈にあたって『古聞』をそのまま用いるのではなく、受講者に合わせたテクストを使用したと考えられる。本書は、その講釈を受けた人物が書き留めた中書本的存在で、『古今集注』(九・5322)と同系ではあるが、一方が他方を見て書写したというわけではないらしい。『古今集注』と比べると走り書きの様子が看て取れる。
九条家旧蔵本で、『古今和歌集』の春上から墨滅歌(すみけちうた)まで記す。ただし、6冊目(巻10物名歌、巻20大歌所御歌)については『古聞』の注本文に一致する。講釈が5冊目で終わり、『古聞』の書写で代えたものか。
奥書に「伝受之事 永正十年五月七日よりして六月廿六日終畢、守継」とある(永正10年は1513年)。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)に対校本文として用いた。
(陵墓課)
鍬形石は古墳時代の石製品(せきせいひん)である。その名のとおり、写真下段の板のように見える部分が農具である鍬の先を思わせることから江戸時代にこの名がつき、現在の考古学でもそれを踏襲してこの名称が使われている。実際に農具の鍬として使用したものではない。
鍬形石は、弥生時代の九州地方で使用された貝製の腕輪である貝輪(かいわ)を起源とすることがわかっている。貝輪は古墳時代にも使われるが、主に北陸地方で産出する碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)と呼ばれるきれいな緑色の石材で製作されることが多く、単に装身具としての腕輪だけでなく宝器としての意味ももつようになる。
写真の鍬形石は上下で分かれているが、本来はそれぞれ別の個体である。上下の位置関係は正しいが全面に施されている装飾が異なるため、それぞれ違う鍬形石の破片であることがわかる。この刻みのような装飾は、初期の鍬形石にはないものであり、より貝輪に近かった当初の特徴が失われていることがわかる。そのため、本資料は鍬形石が作られた期間の中でも、もっとも後の時期に作られたと考えられている。二つの破片は細かい装飾で異なるが、全体の特徴はよく似ていることから、作り手が同じか、違う場合でもデザインを共有する近しい関係にあったことが推測される。
なお、ここで紹介した鍬形石の破片はどちらも奈良県北葛城郡広陵町に所在する巣山古墳からの出土が伝えられている資料である。
(図書寮文庫)
江戸時代前期の九条家当主である九条幸家(くじょうゆきいえ、1586-1665)が記した目録。『古今集注』(九・5322)『古今集聞書』(九・5321)と同じ箱に納められていた。慶安元年(1648)8月2日に九条家の文庫からこれらの書を取り出した時のもの。幸家は『古今集注』を書写した九条稙通(くじょうたねみち)の孫。
1行目に『古今聞書』として「東光院殿御自筆 六冊」とあるが、これに相当する『古今集聞書』(九・5321)は東光院(九条稙通のこと)の筆ではない。ほかにもこの目録によって「逍遥院」(しょうよういん、三条西実隆、1455-1537、稙通の祖父)筆や「後浄土寺殿」(のちのじょうどじどの、九条道房、1609-47、幸家の子)筆の注釈書があったことがわかるが、現在の図書寮文庫蔵九条家本には見当たらない。
『図書寮叢刊 九条家旧蔵古今集注』(令和5年3月刊)解題中に翻刻を掲載している。
(図書寮文庫)
本文書は、正安元年(1299)に鎌倉幕府が御家人長沼宗秀(ながぬまむねひで)に与えた下文で、宗秀の亡父宗泰の譲与のとおりに、美濃国石太・五里郷(いそほ・ごのりごう、現在の岐阜県大野町)や下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)等の領有を認めたものである。ときの執権「相模守」北条貞時と連署の「陸奥守」同宣時が花押をすえている。
長沼氏は長沼荘を本領とする御家人で、藤原秀郷の末裔、同国の大豪族小山氏の分流にあたる。家祖の宗政(小山政光の二男、宗秀の曾祖父)は、父や兄弟の小山朝政・結城朝光とともに治承・寿永の内乱(源平合戦)や承久の乱でも活躍し、陸奥国長江荘(現在の福島県南会津町ほか)や淡路国守護職を獲得した。この文書にも、長沼家が相伝した列島各地の所領等が列記されている。
本文書は本来、長沼家とその末裔皆川家の家伝文書(現在は個人蔵および文化庁所蔵などに分割)の一通だったと思われるが、いつしか分かれて園城寺(現在の滋賀県大津市)のもとに移り、のち当部の所蔵するところとなった。
(陵墓課)
兵庫県神戸市西区に所在する玉津陵墓参考地出土として管理している金環(きんかん)である。金環とは耳環(じかん)と称されることもある古墳時代の耳飾りのことである。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料は、純金特有の黄色みが濃く、欠損部分では金の下に銅特有の緑色の錆がみられることから、銅芯を純度の高い金で覆った銅芯金張製品の可能性がある。
この金環は、直径27mmほどの大きさで、断面の厚さは4から5mmである。平面形はほぼ正円形であり、その断面形も正円形である。金環は本来両耳に着けて揃いで使用されるため、元々は2点1組であったうちの、片方のみが伝わっている。
(図書寮文庫)
本文書は、永徳元年(1382)に安房国守護結城直光(ゆうきただみつ、法名聖朝、1330?-1396)が、安房国長狭郡(あわのくにながさぐん、現在の千葉県鴨川市)の龍興寺に寺領の知行を保証したものである。土地を寺社に寄附する寄進状の体裁をとっているが、対象地はすでに寺領であり、実際には所領の領有を保証する安堵状というべきものである。4行目の「寺」の字には修正痕があり、その裏にすえられた花押は、本文書を作成した結城家の右筆のものかと推測される。南北朝期の東国守護家の右筆のものとして貴重である。
龍興寺は、鎌倉府の御料所(直轄領)長狭郡柴原子郷にあった寺院で、鎌倉公方の厚い保護を受け、のちに鎌倉府の祈願所となった。そうしたなかで守護結城氏も同寺を保護したことをうかがわせるのが、本文書である。龍興寺は戦国期に廃絶し、織豊期に龍江寺として再興されたという。
結城直光は、秀郷流藤原氏の一流、下総結城氏の当主で、足利方に属して父や兄の戦死後も南北朝の内乱を戦い抜き、鎌倉府の信任も得て安房国守護に任じられた。平安時代以来の源氏の威光を描いた軍記物『源威集』の著者ともいわれている。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したもので、醍醐天皇(だいごてんのう、885~930)の命により、延喜5年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。式は施行細則という性格上、延喜式も細かい内容の規定が多く見られ、百科全書的な趣を持ち、歴史学のみならず、考古学、薬学、食品学、技術史等の各分野の研究対象となっている。
本資料は「勢多蔵書」印や勢多章純(せたのりずみ、1734~95)の印である「家世明法儒中原氏蔵書」印を持つ勢多家旧蔵本で、50巻49冊からなる板本である。正保4年(1647)及び慶安元年(1648)の跋を持つが、内容的には正保4年に板行された本を改訂したものである。ただし、巻1、巻4、巻6は嘉永7年(1854)に火災で焼失したために安政3年(1856)に書写後補、巻2、巻3は他の巻とは異なる時期に板行された本を合綴したものである。勢多治勝(せたはるかつ、1625~79)の奥書を持つほか、勢多章甫(せたのりみ、1830~94)までの歴代当主による書き込みが見られる。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
伏見法皇(第92代)は文保元年(1317)6月14日に御発病後、御領等の処置について4紙にわたる10箇条の御置文(おんおきぶみ)をしたためられた。当部にはそのうち2紙目から4紙目までが所蔵されており、掲載の写真はその2紙目と3紙目(全体の3紙目と4紙目)の裏の紙継ぎ目にすえられた法皇の御花押である。
紙継ぎ目の裏花押は、各紙が分離した際に、本来接続して一体である証拠となることなどを目的にすえられる。本御置文の1紙目(全体の2紙目)裏にも、御花押の右半分が残されているが、実は東山御文庫に所蔵されている「伏見天皇御処分帳」(勅封番号101-1-1-1)一通の裏に、御花押の左半分が存在し、表の記載内容からも、両者が本来一体のものであったことが判明する。裏花押の役割が全うされた好例といえるだろう。
なお、御置文がしたためられた当時の朝廷は、鎌倉幕府の影響を受けつつ内部に対立状況が存在し、本来花園天皇(第95代)が継承されるべき御領は半減しており、御置文で法皇はその完全な回復を切望されている。また、法皇御近親の女性皇族方への御配慮の御様子も伺われ、法皇の本置文の内容を後世に伝え残そうとする強いお気持ちから、紙継ぎ目に御花押をすえられたものと思われる。法皇の御病状はその後快復されることなく、同年9月3日、53歳で崩御されている。