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(図書寮文庫)
文永末年(1274)頃に成立した音楽説話集。文机房隆円(ぶんきぼうりゅうえん)という僧侶が,名手の活躍を中心に我が国の琵琶の歴史を物語るという構成。諸国修行の末,当時名人として世に知られた藤原孝時(たかとき)のもとに寄寓した隆円は,自身も堪能な琵琶奏者であった。伏見宮旧蔵の本書は巻二しか伝わらないものの,伝存する他の諸本にはみられない部分が多く含まれる貴重な一書。紙背に観応2年(1351)・文和4年(1355)の仮名暦がみえることから,南北朝期の写本と考えられる。図版にみえる「文和三年十一月一日」の日付は,古来,暦の頒布が前年の11月に行われていたことによる。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。
(宮内公文書館)
本資料は,三条実美の事蹟編集の過程で収集された資料の一つ。当時開拓次官であった黒田了介(清隆)が,明治天皇に言上したのち,改めて文書にして明治3年(1870)12月29日に右大臣岩倉具視(ともみ)へ提出した意見書。戊辰戦争で新政府軍に抗戦し,箱館五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚(たけあき)の処分などについて述べられている。箱館で新政府軍を指揮していた黒田は,敵将であった榎本の才覚を高く評価し,罪を赦してその能力を新しい時代に活かそうとしたとされる。
(宮内公文書館)
本資料には,明治4年(1871)9月に薩摩藩出身の伊地知正治(いじちまさはる)の名前で提出された建言書2通が綴じられている。一部に修正した痕跡があり,「本書は西郷隆盛自筆也」とあることから西郷隆盛が代筆した草案であると考えられる。祭政一致や勧農,租税などについての意見が記されている。
(宮内公文書館)
本資料は,明治2年(1869)8月26日に北沢正誠(まさなり)(乾堂(けんどう))が,木戸孝允に提出した建言書。北沢は,松代(まつしろ)藩の出身で佐久間象山に学び,廃藩後太政官に出仕した。本建言書では,同年7月に実施された版籍奉還後の国家のあり方について藩の体制,人材登用などの面で「旧習」を「御一新」するための構想が長文にわたって論じられている。本資料からは,地方の藩の一藩士が抱いていた国家構想がわかる。
(図書寮文庫)
平安時代後期の公卿,源俊房(みなもとのとしふさ,1035-1121)の自筆日記。世界記憶遺産となった藤原道長の自筆日記『御堂関白記』に次いで我が国で2番目に古く,図書寮文庫が所蔵する自筆日記の中で最古のものである。源俊房は文筆・政道に優れ,能書家としても知られた。白河天皇(1053-1129),堀河天皇(1079-1107),鳥羽天皇(1103-56)の三代,30年に渡って政務を総轄する左大臣の任についた。画像は康平7年(1064)3月28日条で,前九年の役 (1051-62)の顛末を伝える貴重な記事を伝えている。書名の由来は源の「氵(水)」と左大臣の「左」との組み合わせによる。
(図書寮文庫)
平安時代後期の関白藤原忠通(ただみち,1097-1164)の自筆日記。父忠実(ただざね,1078-1162)や弟頼長(よりなが,1120-56)との対立は,保元の乱(1156)の原因となった。晩年出家し法性寺に住んだことから,法性寺殿とも称される。文芸に優れたほか能書家としても知られ,その書風は法性寺流として鎌倉時代を通じて重んじられた。端正な書風は当日記からも窺える。画像は天治2年(1125)9月14日条で,斎王守子内親王(1111頃-56)の伊勢群行当日の記事である。
(図書寮文庫)
鎌倉時代の第92代伏見天皇(1265-1317)宸筆の御日記。天皇は後深草天皇(1243-1304)の第2皇子。政務や儀式を記す他,学問・文芸に優れたため,教養・趣味に関する記述も多い。屈指の能書家で,平安時代の優麗な書風に学ぶ伏見院流を開かれた。画像は永仁元年(1293)8月27日条で,伏見天皇が勅撰集『玉葉和歌集』の編纂を二条為世(ためよ)らにお命じになった際の記事である。
(図書寮文庫)
室町時代の公卿,万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)の自筆日記。内容は朝廷の儀式や所領経営の他,時房は室町幕府との連絡役であったことから,室町幕府の動向も詳しく記されている。画像は嘉吉元年(1441)6月24日条で,赤松満祐(あかまつみつすけ,1381-1441)が室町幕府第6代将軍足利義教(あしかがよしのり,1394-1441)に対して反乱を起こした嘉吉の乱(1441)に関わる伝聞記事。
(図書寮文庫)
室町時代,公卿山科家に仕えた大沢久守(おおさわひさもり,1429-98),重胤(しげたね)等の自筆の業務日記。特に久守は立花の名手としても知られる。主家山科家に関する記述を主としながらも,応仁の乱(1467-77)や土一揆の様子も記している。画像は延徳元年(1489)3月30日条で,近江国へ出陣中病没した室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ,1465-89)の遺骸を京に送る行列の中で,義尚の母日野富子(1440-96)が人目を憚らず号泣していた様子を記している。
(図書寮文庫)
戦国時代の前関白九条政基(くじょうまさもと,1445-1516)の自筆日記。所領であった和泉国日根荘(ひねのしょう,現・大阪府泉佐野市)に下り,自ら支配を行なった際(1501-04)に記したとされる。旅引付とは旅行中の記録のことで,公家の日記には珍しく,村落生活や周辺勢力の動向を記すなど,戦国時代の村の様相を知ることができる。画像は文亀元年(1501)年7月20日条で,日根荘内の瀧宮(火走神社)の社頭で行なわれた雨乞いの様子を記した記事である。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉時代に官人小槻(おづき)氏が皇統やそれに関する先例等を度々勘進(調査・報告)した文書群で,10数点が一巻にまとめられているもの。画像は,弘安4年(1281)に勘進された神武天皇以来の天皇の系図(末尾)。後宇多天皇(1267-1324,91代)から花園天皇(1297-1348,95代)までの5代が「当今」(=今上)と記されており,両統迭立(持明院統・大覚寺統両皇統の交互の即位)期に書き継がれていたことがわかる。また,現代の代数の数え方(明治期に確定)とは異なる点も見られる。
(図書寮文庫)
本書は,和銅元年(708)に但馬国朝来郡(現在の兵庫県朝来市)の粟鹿(あわが)神社の祭主神部直(かんべのあたい)氏が朝廷に上申したとされる祭神粟鹿大明神の系図である。素戔嗚尊に始まり,大国主命を経て上申者の神部直根〓《門+牛》まで,29代の系譜が記されている。鎌倉時代の写しだが,紙を縦にし,特殊な記号や表現を用いて書き連ねる竪系図(たてけいず)と呼ばれる原初的な形態を伝える貴重なものである。
(図書寮文庫)
本書は,鎌倉末~南北朝時代に起きた美濃国船木荘只越郷(ただこしごう,現在の岐阜県瑞穂市)をめぐる争いにおいて,当事者の一方の法眼盛祐が暦応2年(1339)に朝廷(北朝)に提出した訴状である。本文のあとに,参考資料として由緒を示す関係文書を書写したものとともに当事者双方の系図が付されており,盛祐が自らの相伝の正当性を示す論拠のひとつとしている。紙継目の裏には,訴訟の担当者である北朝の廷臣柳原宗光(1322-47)の花押が書かれている。
(図書寮文庫)
本書は,『源氏物語』の登場人物を整理した系図である。奥書によれば,本書は室町時代前期の駿河国の守護で歌人としても知られた今川範政(のりまさ,1364-1433)の著作で,江戸時代中期の河内狭山藩主で文武に秀でた北条氏朝(うじとも,1669-1735)が写したものとされている。『源氏物語』には数多くの人物が登場することから,その理解を助けるために早くから系図が作られ,講読に利用された。
(図書寮文庫)
本書は,嵯峨天皇(786-842,52代)から後村上天皇(1328-68,97代)までの箏(琴の一種)の師承関係を,南北朝時代に書写された系図である。箏は笙や篳篥などと異なり,女性もしばしば演奏した楽器であり,本書にも天皇や摂関,大臣などの貴族のほか,皇女や女房など女性の名も多く見える。末尾は後醍醐天皇皇女,後村上天皇,長慶天皇(1343-94,98代)と南朝方における相伝関係を示している。
(図書寮文庫)
本書は,朝廷に仕えた医師の和気(わけ)・丹波(たんば)・惟宗(これむね)3氏と陰陽師の賀茂(かも)・安倍(あべ)2氏の系図である。江戸時代に書写されたもので,5氏とも古代の始祖から室町時代の人物までの親子兄弟関係と官職等が記されている。朝廷では平安時代後期から江戸時代に至るまで,医道や陰陽道などの専門的技能とそれにかかわる役職を,こうした特定の家が家業・家職として独占的に継承したのであった。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。