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(図書寮文庫)
旧石見津和野藩主の亀井伯爵家の当主亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は明治22年(1889)に開催されたパリ万国博覧会を見学しており,その際に収集したパリの写真帖。画像はエトワール凱旋門。エトワール凱旋門はアウステルリッツの戦いの勝利を記念してナポレオン・ボナパルトの命で1806年に建設が開始され,ナポレオン没後の1836年に完成した。
(図書寮文庫)
オーストリア=ハンガリー帝国の二つの首都ウィーンとブダペストの写真。画像はウィーンのシュテファン大聖堂の写真。
ドイツ留学中の亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,帰国が決まると,明治24年(1891)7月13日にベルリンを発ってオーストリア各地を歴訪し,同27日にシュテファン大聖堂などを見学したのちイタリアのベニス(ヴェネツィア)に向かった。シュテファン大聖堂はハプスブルグ家の歴代君主の墓所であるほか,W・A・モーツァルトの結婚式及び葬儀が行われたことで有名。この大聖堂を含むウィーン歴史地区は2001年に世界遺産に登録されている。
(図書寮文庫)
イタリアのベニス(ヴェネツィア)およびローマの写真帖。画像はベニスの有名な観光名所であるリアルト橋とゴンドラの写真。ベニスのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つであるリアルト橋は,1591年に完成し,「白い巨象」とも呼ばれた。ヴェネツィア共和国が設計案を一般公募した際には,ミケランジェロも応募したといわれている。
明治24年(1891)7月28日にオーストリアよりベニスに着いた亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,北イタリアを歴訪し,8月14日にローマに着いた。約2週間滞在したのち,さらにイタリア各地を回り帰国の途に就いた。同年11月6日に帰朝,12月17日に明治天皇に拝謁している。
(図書寮文庫)
ポンペイの遺跡は19世紀後半から本格的な発掘調査が行われており,明治期にヨーロッパに留学した亀井茲明(かめいこれあき,1861-96)は,ポンペイだけで2冊の写真帖を作成している。画像はポンペイ市街の写真。
(図書寮文庫)
新田義貞(にったよしさだ,1300-38)が公卿四条隆資(しじょうたかすけ)に,法隆寺が所有していた播磨国(現在の兵庫県南部)の所領保全と訴訟の取り計らいを依頼した書状。内容から,義貞の軍勢が足利尊氏方の赤松一族を討つため,播磨国に出陣した延元元年(1336)のものと推定されている。義貞自筆ではなく右筆(書記)が書いたものと考えられるが,義貞の出した文書として貴重なものである。法隆寺旧蔵。
(図書寮文庫)
室町幕府初代将軍足利尊氏(1305-58)が,公卿柳原資明(やなぎわらすけあきら)に宛てた書状で,「天下静謐」(内乱の終息)を喜び,神祇伯(神祇官の長官)の人事についても触れている。観応3年(1352)の,尊氏自筆のものと推定される。公家の日野家旧蔵。
(図書寮文庫)
応仁元年(1467),室町幕府8代将軍足利義政(1436-90)が,陰陽道を司った公家土御門有宣(つちみかどありのぶ,刑部卿)に所領の領有を認めた文書。将軍の花押(御判)が書かれた「御判御教書」(ごはんのみぎょうしょ)は,主として室町幕府将軍が用いた文書様式である。有名な陰陽師安倍晴明の子孫である土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
中国地方の戦国大名大内義興(おおうちよしおき,1477-1528)が,土御門家に宛てた所領の獲得を祝した書状。書かれた年代は不明。義興は,室町幕府10代将軍足利義稙(よしたね)を助けて幕府の実権を握るなど中央でも活躍し,大内氏の最盛期を築いた人物として知られている。本文は右筆(書記)が書いたものと思われ,日付の下に義興の名と花押が書かれている。土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
天正5年(1577),織田信長が「やうしゆん院」に銭や米の得分を与えたもので,著名な「天下布武」の朱印が押されている。かな書きであることや日野家に伝えられたものであることから,「やうしゆん院」は日野家ゆかりの尼僧と推測される。信長の自筆ではなく右筆(書記)が書いたものと考えられる。
(図書寮文庫)
天正10年(1582),豊臣(羽柴)秀吉が織田信長の三男信孝(のぶたか)に,本能寺の変後の動向を伝え,自身の活躍を訴えたもの。27ヶ条におよび,信長死後の織田家の相続を定めた清洲会議や,秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いの顛末が記されている。秀吉の自筆ではなく,控えとして写したものか,後世に写し取られたものと考えられる。幕末・明治期の国学者谷森善臣の旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,御在位1287-98)の宸筆や関連文書をまとめたもので,2通目が伏見天皇の宸筆。また3通目は,病が重くなられ,御自身で筆を執ることができなかったために関白二条道平(にじょうみちひら)が代筆し,それに伏見天皇が御本人の証として御手印(おていん,手形)を押されたものである。現在の遺言状にあたるもので,伏見天皇はこの文書を作成された翌月に崩御された。
(図書寮文庫)
本書は,元亨4年(1324)に,後伏見天皇(第93代,御在位1298-1301)が皇子量仁親王(ときひと,後の光厳天皇)の立太子を祈願してお書きになった,神仏に捧げるための文書。この当時,後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統が互いに皇位を競っており,後伏見天皇が持明院統の繁栄を願って寺社に捧げた願文類は,この他にも現存している。
(図書寮文庫)
本書は花園天皇(第95代,御在位1308-18)宸筆の御日記で,この巻には元弘元年(1331)10月1日から15日までの記事が残されている。この年の8月,後醍醐天皇(第96代,御在位1318-39)は鎌倉幕府討幕の行動を起こすが,本書には後醍醐天皇が幕府方に捕らえられたことや,その時の様子が記されており,南北朝時代の史料として価値が高いものである。
(図書寮文庫)
本書の内容は,平安時代後期の公卿で,管絃の名手であった藤原師長(もろなが,1138-92)が編んだ琵琶の譜面集成。本書は正平10年(1355),後村上天皇(第97代,南朝,御在位1339-68)に授けられた際のもので,裏には伝受された後村上天皇御自身による書き付けが見られる。黄蘗(きはだ)で染められた和紙に書かれており,南朝に関する史料が少ない中,貴重な史料の一つである。なお,「三五」とは琵琶の異称で,長さが三尺五寸であったことに由来する。
(図書寮文庫)
本書は,光厳天皇(北朝初代,御在位1331-33)の宸筆や関連文書をまとめたもので,1通目と3通目が光厳天皇の宸筆。1通目は元徳3年(1331)に御自身の即位を願って伊勢神宮に奉じた文書の,3通目は所領と皇位継承について書かれた文書の,それぞれ控え。
(図書寮文庫)
本書は,崇光天皇(北朝第3代,御在位1348-51)によって書写された,琵琶の最秘曲とされた啄木(たくぼく)の秘事口伝に関するもの。譜面の他,撥(ばち)の持ち方や弾き方などの秘伝も図示されているが,描き直しをされている箇所も見られる。朱線が引かれた後の部分は,崇光天皇の第1皇子の栄仁親王(よしひと,1351-1416)が書き継いでいる。
(図書寮文庫)
近江仁正寺藩(にしょうじはん)藩主市橋長昭(ながあき)が桜井雪鮮(さくらいせつせん)に描かせたもの。江戸時代後期に存在していた様々な種類の桜の花を美しく描いた画帖で,このように彩色が施された精密な桜の絵は,この時期としては非常に珍しい。画像は普賢象(ふげんぞう,普賢堂とも)という桜で,皇居東御苑にも同じ品種の桜がある。
(図書寮文庫)
日本でもっともよく知られた詞華集(アンソロジー)。藤原定家撰。書かれた年次(文安2年〈1445〉)のわかる最古の百人一首の写本。画像冒頭は小野小町の「はなの色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに」。
(図書寮文庫)
霊元天皇(御在位1663-87)は和歌に力を注がれた天皇である。また能書でも知られている。
寛文13年(1673)3月21日の水無瀬殿法楽(後鳥羽天皇を祀る水無瀬神宮に献ずる法楽和歌)のうちの一首を掛け幅に仕立てたもの。松間花(まつのあいだのはな/しょうかんのはな)の題で詠まれた霊元天皇宸筆の御詠草。「立ちまじる松のときはにとりそへて千世もちらすな花の春風」と書かれている。(天皇は,通常自らの御製に御名を記されない。)
(図書寮文庫)
霊元天皇が古歌をお書きになった桜と楓の短冊。短冊本体に絵が描かれていて,輪郭に沿って切り取られた美麗な品である。桜には藤原定家(1162-1242)の「かざしおる道行人の袂までさくらに匂ふ二月の空」,紅葉には慈円(1155-1225)の「詠(ながめ)つる心の色をまづ染て木のはにうつるむら時雨哉」が書かれている。有栖川宮・高松宮に引き継がれていたもの。