時代/地域/ジャンルで選ぶ
(図書寮文庫)
本文書は、正安元年(1299)に鎌倉幕府が御家人長沼宗秀(ながぬまむねひで)に与えた下文で、宗秀の亡父宗泰の譲与のとおりに、美濃国石太・五里郷(いそほ・ごのりごう、現在の岐阜県大野町)や下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)等の領有を認めたものである。ときの執権「相模守」北条貞時と連署の「陸奥守」同宣時が花押をすえている。
長沼氏は長沼荘を本領とする御家人で、藤原秀郷の末裔、同国の大豪族小山氏の分流にあたる。家祖の宗政(小山政光の二男、宗秀の曾祖父)は、父や兄弟の小山朝政・結城朝光とともに治承・寿永の内乱(源平合戦)や承久の乱でも活躍し、陸奥国長江荘(現在の福島県南会津町ほか)や淡路国守護職を獲得した。この文書にも、長沼家が相伝した列島各地の所領等が列記されている。
本文書は本来、長沼家とその末裔皆川家の家伝文書(現在は個人蔵および文化庁所蔵などに分割)の一通だったと思われるが、いつしか分かれて園城寺(現在の滋賀県大津市)のもとに移り、のち当部の所蔵するところとなった。
(陵墓課)
兵庫県神戸市西区に所在する玉津陵墓参考地出土として管理している金環(きんかん)である。金環とは耳環(じかん)と称されることもある古墳時代の耳飾りのことである。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料は、純金特有の黄色みが濃く、欠損部分では金の下に銅特有の緑色の錆がみられることから、銅芯を純度の高い金で覆った銅芯金張製品の可能性がある。
この金環は、直径27mmほどの大きさで、断面の厚さは4から5mmである。平面形はほぼ正円形であり、その断面形も正円形である。金環は本来両耳に着けて揃いで使用されるため、元々は2点1組であったうちの、片方のみが伝わっている。
(図書寮文庫)
本文書は、永徳元年(1382)に安房国守護結城直光(ゆうきただみつ、法名聖朝、1330?-1396)が、安房国長狭郡(あわのくにながさぐん、現在の千葉県鴨川市)の龍興寺に寺領の知行を保証したものである。土地を寺社に寄附する寄進状の体裁をとっているが、対象地はすでに寺領であり、実際には所領の領有を保証する安堵状というべきものである。4行目の「寺」の字には修正痕があり、その裏にすえられた花押は、本文書を作成した結城家の右筆のものかと推測される。南北朝期の東国守護家の右筆のものとして貴重である。
龍興寺は、鎌倉府の御料所(直轄領)長狭郡柴原子郷にあった寺院で、鎌倉公方の厚い保護を受け、のちに鎌倉府の祈願所となった。そうしたなかで守護結城氏も同寺を保護したことをうかがわせるのが、本文書である。龍興寺は戦国期に廃絶し、織豊期に龍江寺として再興されたという。
結城直光は、秀郷流藤原氏の一流、下総結城氏の当主で、足利方に属して父や兄の戦死後も南北朝の内乱を戦い抜き、鎌倉府の信任も得て安房国守護に任じられた。平安時代以来の源氏の威光を描いた軍記物『源威集』の著者ともいわれている。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したもので、醍醐天皇(だいごてんのう、885~930)の命により、延喜5年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。式は施行細則という性格上、延喜式も細かい内容の規定が多く見られ、百科全書的な趣を持ち、歴史学のみならず、考古学、薬学、食品学、技術史等の各分野の研究対象となっている。
本資料は「勢多蔵書」印や勢多章純(せたのりずみ、1734~95)の印である「家世明法儒中原氏蔵書」印を持つ勢多家旧蔵本で、50巻49冊からなる板本である。正保4年(1647)及び慶安元年(1648)の跋を持つが、内容的には正保4年に板行された本を改訂したものである。ただし、巻1、巻4、巻6は嘉永7年(1854)に火災で焼失したために安政3年(1856)に書写後補、巻2、巻3は他の巻とは異なる時期に板行された本を合綴したものである。勢多治勝(せたはるかつ、1625~79)の奥書を持つほか、勢多章甫(せたのりみ、1830~94)までの歴代当主による書き込みが見られる。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
伏見法皇(第92代)は文保元年(1317)6月14日に御発病後、御領等の処置について4紙にわたる10箇条の御置文(おんおきぶみ)をしたためられた。当部にはそのうち2紙目から4紙目までが所蔵されており、掲載の写真はその2紙目と3紙目(全体の3紙目と4紙目)の裏の紙継ぎ目にすえられた法皇の御花押である。
紙継ぎ目の裏花押は、各紙が分離した際に、本来接続して一体である証拠となることなどを目的にすえられる。本御置文の1紙目(全体の2紙目)裏にも、御花押の右半分が残されているが、実は東山御文庫に所蔵されている「伏見天皇御処分帳」(勅封番号101-1-1-1)一通の裏に、御花押の左半分が存在し、表の記載内容からも、両者が本来一体のものであったことが判明する。裏花押の役割が全うされた好例といえるだろう。
なお、御置文がしたためられた当時の朝廷は、鎌倉幕府の影響を受けつつ内部に対立状況が存在し、本来花園天皇(第95代)が継承されるべき御領は半減しており、御置文で法皇はその完全な回復を切望されている。また、法皇御近親の女性皇族方への御配慮の御様子も伺われ、法皇の本置文の内容を後世に伝え残そうとする強いお気持ちから、紙継ぎ目に御花押をすえられたものと思われる。法皇の御病状はその後快復されることなく、同年9月3日、53歳で崩御されている。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は、東山天皇(第113代)の第6皇子で、閑院宮初代、直仁親王(なおひと、1704-53)詠、御筆の和歌懐紙である。本懐紙のように、男性の和歌懐紙は、歌題、署名、歌の順に書き、歌は3行と3文字にかけて書くのが通常の書式である。閑院宮家旧蔵資料であるが、初代当主御直筆の懐紙として掛軸に表装され、大切に伝えられたのであろう。
本資料に記された歌題や署名からは和歌会の年次を探ることはできなかったが、その後の調査で、この時に詠まれた懐紙原本の一群が発見された。寛延3年(1750)3月9日に有栖川宮家で催された和歌会であり、参会者34名の懐紙の中に直仁親王が詠まれた和歌懐紙(有栖・19のうち)も存在したことから、本懐紙は清書ではなく下書き、あるいは控えと位置づけられるに至った。双方の懐紙を比較したところ、ほぼ同一の書きぶりとなっており、清書に際しては師匠のお手本が存在した可能性もあろう。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
本資料は寛永16年(1639)10月5日に行われた歌合で、和歌奉行(世話役)を務めた勧修寺経広(かじゅうじつねひろ、1606-88)による記録の写しである。本歌合は後水尾上皇(第108代)によって仙洞で催された。本歌合以前に行われた会は天正8年(1580)の天正内裏歌合まで遡り、そのため歌合の経験があったのは参加者24名のうち西洞院時慶(にしのとういんときよし、1552-1639)1名のみであった。久しぶりの会のため提出する懐紙の封をする作法が分からなくなっている様子が、参加者の一人であった九条道房(くじょうみちふさ、1609-47)の『道房公記』寛永16年記(九・5119のうち)からうかがえる。本資料では歌合に出詠された和歌と詠作者名が記されないのに対して、今までの記録に詳述されていない事前の準備(催行日時および歌題の通知など)や当日の式次第などが中心となって記録されている。これは、経広が具体的な先例が残されていないために苦慮したことからあえて記したものと推測される。本歌合での和歌などについては『寛永十六年仙洞歌合』(鷹・357のうち)などによっても知ることはできるが、本資料以外では奉行という立場から記されている資料は存在しないため貴重な資料であると言えよう。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(図書寮文庫)
本資料は、江戸時代後期の天保12年(1841)閏正月27日、前年11月に崩御した太上天皇(御名は兼仁(ともひと)、1771-1840)に「光格天皇」の称号が贈られた際の詔書。年月日部分のうち、日付の「廿七」は仁孝天皇(1800-46)の自筆で御画日(ごかくじつ)という。
「光格」は生前の功績を讃(たた)える美称で諡号(しごう)に該当する。諡号は9世紀の光孝天皇(830-87)を最後に、一部の例外を除き贈られなくなり、代わりに御在所の名称などを贈る追号(ついごう)が一般的となっていた。
さらに「天皇」号も10世紀の村上天皇(926-67)が最後で、以後は「〇〇院」などの院号が贈られることが長く続いていた。そのため、「光格天皇」号は、「諡号+天皇号」の組み合わせとしては約950年ぶりの復活であった。院号は幕府の将軍から庶民まで使用されていたことから、天皇号の再興(さいこう)は画期的なことといえた。
これは、光格天皇が約40年に及ぶ在位期間中に、焼失した京都御所を平安時代の規模で再建させたことを始め、長期間中断していた朝廷儀式の再興や、簡略化されていた儀式の古い形式への復古(ふっこ)に尽力したことが高く評価されたためであった。
(図書寮文庫)
嘉永7年・安政元年(1854)10月、江戸幕府から下田に来航したロシア使節プチャーチン(1803-83)の応接を命じられた、勘定奉行兼海防掛川路聖謨(かわじとしあきら、1801-68)の日記。同月17日から安政2年4月29日までの出来事を記述する。
掲出箇所は、長楽寺において日露和親条約の調印式が行われた、安政元年12月21日条。この日は、本来ならば日本側から豪勢な料理を提供し、満艦飾(まんかんしょく)のロシア軍艦から祝砲が撃たれるはずであったが、11月4日に発生した大地震と津波によって下田は壊滅的被害を受け、ロシア軍艦も沈没したため、いずれも実施できず、わずかに酒三献と鯛を台の上に積み上げて供したと、尋常ならざる状況下で調印式が行われたことを日記は伝えている。
日米和親条約(同年3月)・同附録(5月)、日英約定(8月)に続いて調印された日露和親条約について、日記には「日本魯西亜(ロシア)永世之会盟とも可申(申すべし)」とあることから、川路がもはや鎖国への回帰は困難であると捉えていたことがうかがわれよう。日記にはこのほかにも、川路が「布恬廷(プチャーチン)はいかにも豪傑也」(安政元年12月14日条)と評価していたことなどが記述されていて興味深い。
(図書寮文庫)
安政4年(1857)、アメリカから通商条約の締結を要求された江戸幕府は、世界情勢の変化を考慮して許可することを決定し、その経緯を朝廷に報告した。さらに勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を得た後に条約を締結することとし、翌5年2月、勅許を求めるために派遣された老中(ろうじゅう)が京都に到着した。
本資料は、その直前に当たる安政5年正月17日、孝明天皇(1831-66)から関白九条尚忠(ひさただ、1798-1871)に宛てて書かれた天皇自筆の書状。通商条約に「日本国中不服」では「大騒動」が起きてしまうと憂慮した内容で、“自分の代でそのようになっては後々までの恥の恥となるであろうし、伊勢神宮を始めとする神々にはまことに恐縮である。さらに歴代天皇に対する「不孝」となり、自分は身の置きどころがない”と苦しい心中が記載されている。
結局、条約を勅許するには公家のみならず、御三家(水戸藩・尾張藩・和歌山藩)を始めとする全国の諸大名からの広い合意が必要と判断した孝明天皇は、条約の勅許を認めなかった。それ以降、条約勅許問題は幕末政治の大きな争点となっており、本資料は孝明天皇の意思がうかがえる貴重なものである。
(図書寮文庫)
鳩杖(はとづえ・きゅうじょう)とは、主に長寿を祝う品として贈られた、鳩の装飾が施された杖である。なかでも皇室から老齢の重臣等に贈られたものは、明治以降に宮中杖と呼ばれた。意匠に鳩が選ばれた理由は、餌を食べても喉を詰まらせない鳥であることから健康祈願を託したなど、諸説あり定かでない。
中国では、漢の時代、高齢者や老臣に対し鳩杖を贈る制度があった。日本においても、平安時代には鳩杖という言葉が、鎌倉時代には老臣への鳩杖下賜が文献に確認される。江戸時代半ば以降は現物ではなく、宮中での使用許可と製作料を与えるかたちが通例となった。現行憲法下では、吉田茂はじめ4名に現物が贈られている。
宮内省図書寮編修課は昭和13年(1938)から宮中年中行事調査の一環として鳩杖・宮中杖の調査を行った。本写真帳はその参考資料とみられ、「現行宮中年中行事調査部報告9 宮中杖」の附属写真帳「鳩杖聚成(しゅうせい)」と内容が一致する。ただし、本資料では裏書きに「昭和九」と確認でき、写真自体は調査開始以前の撮影と思われる。
掲出箇所は、前記報告書の「子爵萩原家所蔵員光(かずみつ)ノ鳩杖」に該当する写真である。萩原員光(1821-1902)は幕末・明治の公家・華族。明治34年(1901)に「老年ニ付特旨ヲ以テ」杖の使用を許され、併せて贈られた杖料で本杖を製作した。本体は木製漆塗り(一部銀製)で長さは約1m10cm、鳩形は純銀製で約4cmとある。
(宮内公文書館)
明治天皇の利根川御渡船の様子を描いた絵図の写し。明治9年(1876)6月4日、明治天皇は巡幸の途中、栗橋宿(現久喜市)の池田鴨平宅で御小休になった。栗橋からその先の茨城県へ向かう間には利根川があり、明治天皇は御座船に乗って渡られている。この御渡船中に、明治天皇は利根川の鯉漁(こいりょう)を御覧になった。白衣を身にまとい潜水した漁夫数人がこぞって鯉を抱きかかえて捕獲したとされ、計48尾に上ったという。
史料は、昭和3年(1928)に宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のため、池田家から借用して作成されたものである。絵図下部に池田鴨平宅、上部が茨城県の中田駅、中央にある利根川の堤と明治天皇の御座船が描かれている。画賛(がさん)には利根川御渡船の経緯と、この時供奉(ぐぶ)した宮内省皇学御用掛近藤芳樹が詠んだ次の歌2首が記されている。「龍の門登らで老し身にも猶/こひねがはるゝ/君の千代かな」「利根川の淀みに引し/網の目に洩ぬ恵みの/深さをぞ思ふ」。なお、近藤の歌については「十府の菅薦」と校合し、適宜濁点を付した。
(宮内公文書館)
宮内省では、巡幸(じゅんこう)中の現地での出来事などを記録した供奉(ぐぶ)日記を作成している。巡幸とは天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることで、特に明治前期のものを総称して「六大巡幸」と呼ばれ、明治天皇は、明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり日本各地を巡幸になった。史料は、明治9年に東北・北海道へ巡幸された際の宮内省の巡幸供奉日記のうち、明治9年6月3日条の記事で、行幸啓に関する公文書がまとめられている「幸啓録」に収められている。
史料の記事は、巡幸の途中で埼玉県東部を通られた時のものである。明治9年6月3日、明治天皇は、埼玉県令白根多助(しらねたすけ)の進言により、草加駅(現草加市)と大沢駅(現越谷市)の間にある蒲生村(現越谷市)にてしばらく馬車を停め、挿秧(そうおう、田植え)を御覧になっている。同地では、200名ほどのたすき掛けの農夫による田植えの光景が見られたという。また、田植え御覧のことは各新聞社にも発表され、多くの人びとにも知られることとなった。六大巡幸で立ち寄られた各地では、このように明治天皇が自らその土地の風景や地域の生業(せいぎょう)を視察された。