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明治23年(1890)8月、北関東は暴風雨により洪水の被害に見舞われた。このときの水害では、利根川、荒川流域の堤防が決壊し、埼玉県にも被害をもたらした。
史料は、その際の被害状況を明治天皇に報告するために作成された書類のうち、南埼玉郡の浸水地域を示した図面である。南埼玉郡は、明治12年の郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)施行により成立した。史料右側が北の方角で、範囲は南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区、蓮田市、白岡市、久喜市、宮代町、春日部市、越谷市、草加市、八潮市)に相当する。史料の左側(南部)は垳川(がけがわ)を挟んで東京府南足立郡(現在の東京都足立区)と接している。史料中の緑色に着色された部分が浸水地で、南埼玉郡では5か町39か村が浸水したことが見て取れる。被害の大きな地域では、水が軒まで及ぶところもあったというほどである。
以上のような被害報告を受けて、救恤金(きゅうじゅつきん)として明治天皇から金700円、昭憲皇太后から金300円が埼玉県に下賜された。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(図書寮文庫)
即位礼で用いられる様々な物品の図像・解説を記した絵図。上・下2巻で構成され,上巻には儀場の調度品,下巻には臣下の装束を載せる。室町時代に作成された写本であり,「文安御即位調度図」の名で広く知られる絵図と同様の内容を含む。近年の研究によれば,これらの絵図は永治元年(1141)近衛天皇(1139-55)の即位礼に際して作成されたものがもとになっているという。
掲出の画像は,上巻の高御座(たかみくら)を図示した箇所。高御座は即位礼の際に天皇が登壇される玉座であり,台座の上に八角形の屋形が組まれ,天蓋には金色の鳳凰や鏡などの装飾品を施している。現在の「即位礼正殿の儀」で用いられる高御座は,大正天皇(1879-1926)の即位礼に際して古代以来の諸史料を勘案して製作されたものであるが,本絵図からは,平安後期に遡る高御座の姿を視覚的に知ることができる。
なお,高御座の上部に描かれているのは,儀場である大極殿(だいごくでん)に懸けられる帽額(もこう)という横長の幕で,中央に太陽が,左右に龍や獅子などの霊獣が刺繍されている。
(図書寮文庫)
御挿頭(おかざし,「御挿華」「御挿頭花」とも)とは,大嘗祭後の饗宴の際天皇に献上される花(冠に挿す造花)のことで,それを載せる飾り台を洲浜(すはま)という。
御挿頭と洲浜は,それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つが作られ,花の選定や洲浜のデザインには天皇の長寿延命を祈念する意味が込められることが多い。
掲出画像は文政元年(1818)の仁孝天皇(にんこう)の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案。梨の花が描かれ,造花にする際の各部位の材質も判明する。「御治定」(ごちてい)の裏書きはこの案が採用されたことを示しており,御物(ぎょぶつ)として現存する御挿頭の実物と形状・色彩が一致している。
「御挿頭花洲浜伺絵形」は全10紙からなり,第1紙から第4紙までが文政度大嘗祭の御挿頭と洲浜の決定図で,第5紙から第10紙までは嘉永元年(1848)の孝明天皇の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案である。特に第5紙以降は決定案である第6紙の梧桐(あおぎり)のみならず,不採用案(第5紙の芝草(しそう)・第7紙の大椿(だいちん)・第8紙から第10紙の芝草)も判明する。
御挿頭の花と材質が検討された経緯が視覚的にわかる興味深い資料である。
(宮内公文書館)
明治元年(1868)9月20日,明治天皇は東京へ行幸になるため京都を出発された(東幸)。行列には,総勢3,300人余が供奉(ぐぶ)したという。10月12日,品川宿に宿泊した御一行は,翌13日の午前7時ごろ同宿を出発された。高輪にあった久留米藩有馬頼咸邸にて小憩,次いで増上寺にて小休した後,午後2時ごろ江戸城西の丸(東京城)へ入られた。錦絵は,高輪の大木戸付近を通過する東幸の行列を描いたものである。背景には,小憩した有馬邸や当時英国公使館が置かれていた東禅寺,泉岳寺などが書き込まれている。中央の鳳輦(ほうれん)に明治天皇がお乗りになっている。史料は,軸装されており宮内省臨時帝室編修局が収集した錦絵のひとつである。臨時帝室編修局の蔵書印と合わせて,「東京林縫之助蔵書」とあることから,同局が林氏から入手した可能性が高い。
(宮内公文書館)
明治14年(1881)当時の赤坂仮皇居を描いた図面である。同地は,もと紀州徳川家の屋敷地であり,明治5年(1872)と明治6年(1873)の二度に分けて皇室へ献上された。前者には赤坂離宮が,後者には青山御所がそれぞれ設置されている。
明治6年(1873)の皇城炎上後,赤坂離宮が「仮皇居」と定められた。「仮皇居」は,紀州徳川家の武家屋敷をそのまま利用しており,明治天皇と昭憲皇太后,英照皇太后のお住まいと宮内省の庁舎が置かれていた。しかし,お三方のお住まいとして使うには狭小であり,明治7年(1874)に英照皇太后は青山御所へお移りになっている。その後赤坂仮皇居には,明治10年(1877)に太政官庁舎が,明治14年(1881)に祝宴の場として御会食所が新築されるなど,増改築が進められていった。
(宮内公文書館)
明治11年(1878)7月5日,明治天皇が英照皇太后とともに,青山御所に新設された能舞台で演能をご覧になる場面が描かれている。古典芸能のなかでも能楽(能・狂言)は,明治維新を経て衰退の一途をたどっていた。そこで能楽の再興に尽くされたのが,能楽鑑賞に親しまれた英照皇太后であった。英照皇太后は昭憲皇太后とともに,青山御所能舞台と芝公園能楽堂で度々能楽を御覧になるなど,能楽の振興に寄与された。
本資料は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇に奉呈された附図の稿本2巻の内の一つである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)で,「明治天皇紀」に所載される主な場面が描かれている。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(図書寮文庫)
本書は,江戸後期の蘭学者杉田玄白(1733-1817)らがオランダ語訳の医学書『ターヘル・アナトミア(解剖図表)』を翻訳し,安永3年(1774)に刊行したものである。玄白らは明和8年(1771)刑死人の解剖に立ち合い,『ターヘル・アナトミア』所載の挿図が正確なことに刺激を受け,同書の翻訳を思い立ったとされる。その苦労の様子は,玄白の著『蘭学事始』に記される。また秋田蘭画の小田野直武(1749-80)の手になる挿図模写は,原書と比較しても精巧であり,本書の価値を一層高めている。本書の出版法は,整版によっている。整版は,再版や訂正がしやすいというメリットがあり,江戸中期以降はほとんど整版法によっている。本書は,江戸幕府の儒官を務めた古賀家の旧蔵書。
(図書寮文庫)
あまがつ(天児)の由緒や作り方を示した,伊勢貞丈(さだたけ,1717-84)の著作。あまがつとは,人間の代わりに災厄を引き受ける人形のこと。祓えに用いられる使い捨ての人形と異なり,子の誕生と同時に新調され,一定期間その子の側に置かれた。伊勢流の礼法故実を伝える貞丈によれば,男子は15歳まで所持し,女子は嫁入りの時までも携帯すると説かれている。松岡家旧蔵本。
(宮内公文書館)
文久元年(1861)4月,和宮は14代将軍徳川家茂との婚儀が整うと内親王宣下(せんげ)を受け,兄である孝明天皇から「親子(ちかこ)」の名前を賜った。10月20日に京都を出発し中山道を進み,11月15日に江戸に到着,御三卿(ごさんきょう)の1つ清水家屋敷に入る。図はその行列と供奉(ぐぶ)した公卿や役人を描いている。史料の表題には,絲毛御車とあり,牛車で江戸まで下ったことがわかる。絲毛御車とは,牛車の車箱(しゃばこ)を色染めのより糸でおおって飾ったもの。おもに内親王,更衣(こうい)以上が乗用した。