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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
蹴鞠は,鞠を蹴り上げる技と回数を競う遊戯で,大陸から伝来したとされるが,その起源や伝来時期について,詳しいことはわかっていない。日本においては,12世紀には盛んに行われ,特に後白河天皇(1127-92)は,蹴鞠の名人であったとされる。後世「鞠聖(きくせい)」と神格化される藤原成通(なりみち)は,「蹴鞠は遊び事なのだから,夢中になって楽しめばよい」と語ったとされているように,本来は純粋な遊戯として,日本でも広く受け入れられて流行した。平安時代以降の貴族社会では,作法や装束・施設・用具などが細かく取り決められ,鎌倉時代後期の13世紀には,現在に伝わる蹴鞠の形がほぼ完成したと考えられている。
本書は,永徳元年(1381)3月と応永15年(1408)3月に開かれた蹴鞠会の様子を,古記録などから室町時代の末期に書き抜いたもので,画像は応永15年3月に足利義満の邸宅北山殿において開催された蹴鞠会の会場図。会場(鞠場)には「懸の木」と呼ばれる4本の柳が描かれ,その両脇に競技者(鞠足)が立って行われていた。懸の木は,蹴り上げられた鞠の軌道を不規則にして競技性を高めるために,鞠場には必須の設備とされていた。
(図書寮文庫)
本図は,馬に乗らず,立った姿勢で弓を射る歩射(ぶしゃ)の種目の一つ草鹿(くさじし)の射場の見取図で,画像は,鹿をかたどった的の部分。本図は江戸時代中期頃に書写されたもので,松岡家に伝えられた。
草鹿は,本来野の鹿を狩る練習として行われるものであるため,鹿をかたどった作り物を的として掛けていた。射手から的までは25m前後の距離があり,的の大きさは胴体部分が55cm×25cm程度のもの。実際の射技は,伝統的な作法にのっとって射ることや,星(胴体の斑点模様)に的中すること,更にはどの星に的中したのかを申告することで初めて当たりとみなされるなど,的中以外の要素も求められる競技となっていった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
杉田玄白らが安永3年(1774)に刊行した,日本最初の西洋医学の翻訳書。序文と図からなる1冊と,本文4冊によって構成されている。図と本文は各篇毎に対応していて,各篇内の図には,本文に付された数字などが割り振られ,本文の記述が人体のどの部位を指しているかがわかるように工夫されている。
(図書寮文庫)
本書は,後桜町上皇(第117代,女性の天皇,1740-1813,在位1762-1770)七十の御賀の記録の一つ。上皇の御賀は,文化6年(1809)12月14日に催された。御賀に際しては,屏風の色紙形に貼られる和歌が詠進され,四季の情景を描いた屏風(六曲一双)が制作された。本書は,この折に制作された屏風絵の小下絵で,宮廷画家の鶴沢探泉(つるさわたんせん,?-1816)によるものであることが他の記録よりわかる。華やかな大和絵で描かれた屏風の様子を具体的に窺うことができる資料である。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇(第108代,1596-1680,在位1611-29)八十の御賀の記録の一つ。法皇は,歴代の天皇の中でもご長寿で,宝算85歳を数えられた。法皇八十の御賀は,延宝3年(1675)11月14日に催された。本書は,一枚の料紙を六曲一隻の屏風風に折りたたみ,屏風の形を再現する珍しい資料である。表・裏両面に書かれてはいるが,本来は別々に制作される一双を表したものと考えられる。これによって屏風の大きさや,各面の絵柄,和歌を書いた色紙形がどのような配列に貼られたのかなどが具体的にわかる。
(図書寮文庫)
本書は,後水尾法皇八十の御賀に際して,法皇に贈呈された杖を描いたもの。杖は老の象徴だが,御賀の折には長寿を願い杖を贈る習慣があった。その素材は長寿を象徴する竹だったが,後には竹をかたどって白銀で作られることもあった。法皇に贈られた杖は白銀製であったことが本書よりわかる。『拾遺和歌集』にも,杖にちなんだ「君がため今日切る竹の杖なればまたともつきせぬ世々ぞこもれる」(巻5,賀)というお祝いの和歌がみえる。絵は白描(墨一色を用い筆線を主体として描く技法)ながらほぼ原寸大に描かれている。
(図書寮文庫)
赤穂浪士討入り時の吉良家の屋敷図。堀部安兵衛,大石主税(ちから)など,建物を取り囲む各浪士の配置位置が朱字で記され,臨場感あふれる仕上がり。文政13年(1830)の写しで,100年以上前の討入りへの関心の高さを示す。