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(選択を解除)(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(図書寮文庫)
本書は,江戸後期の蘭学者杉田玄白(1733-1817)らがオランダ語訳の医学書『ターヘル・アナトミア(解剖図表)』を翻訳し,安永3年(1774)に刊行したものである。玄白らは明和8年(1771)刑死人の解剖に立ち合い,『ターヘル・アナトミア』所載の挿図が正確なことに刺激を受け,同書の翻訳を思い立ったとされる。その苦労の様子は,玄白の著『蘭学事始』に記される。また秋田蘭画の小田野直武(1749-80)の手になる挿図模写は,原書と比較しても精巧であり,本書の価値を一層高めている。本書の出版法は,整版によっている。整版は,再版や訂正がしやすいというメリットがあり,江戸中期以降はほとんど整版法によっている。本書は,江戸幕府の儒官を務めた古賀家の旧蔵書。
(図書寮文庫)
あまがつ(天児)の由緒や作り方を示した,伊勢貞丈(さだたけ,1717-84)の著作。あまがつとは,人間の代わりに災厄を引き受ける人形のこと。祓えに用いられる使い捨ての人形と異なり,子の誕生と同時に新調され,一定期間その子の側に置かれた。伊勢流の礼法故実を伝える貞丈によれば,男子は15歳まで所持し,女子は嫁入りの時までも携帯すると説かれている。松岡家旧蔵本。
(宮内公文書館)
文久元年(1861)4月,和宮は14代将軍徳川家茂との婚儀が整うと内親王宣下(せんげ)を受け,兄である孝明天皇から「親子(ちかこ)」の名前を賜った。10月20日に京都を出発し中山道を進み,11月15日に江戸に到着,御三卿(ごさんきょう)の1つ清水家屋敷に入る。図はその行列と供奉(ぐぶ)した公卿や役人を描いている。史料の表題には,絲毛御車とあり,牛車で江戸まで下ったことがわかる。絲毛御車とは,牛車の車箱(しゃばこ)を色染めのより糸でおおって飾ったもの。おもに内親王,更衣(こうい)以上が乗用した。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
蹴鞠は,鞠を蹴り上げる技と回数を競う遊戯で,大陸から伝来したとされるが,その起源や伝来時期について,詳しいことはわかっていない。日本においては,12世紀には盛んに行われ,特に後白河天皇(1127-92)は,蹴鞠の名人であったとされる。後世「鞠聖(きくせい)」と神格化される藤原成通(なりみち)は,「蹴鞠は遊び事なのだから,夢中になって楽しめばよい」と語ったとされているように,本来は純粋な遊戯として,日本でも広く受け入れられて流行した。平安時代以降の貴族社会では,作法や装束・施設・用具などが細かく取り決められ,鎌倉時代後期の13世紀には,現在に伝わる蹴鞠の形がほぼ完成したと考えられている。
本書は,永徳元年(1381)3月と応永15年(1408)3月に開かれた蹴鞠会の様子を,古記録などから室町時代の末期に書き抜いたもので,画像は応永15年3月に足利義満の邸宅北山殿において開催された蹴鞠会の会場図。会場(鞠場)には「懸の木」と呼ばれる4本の柳が描かれ,その両脇に競技者(鞠足)が立って行われていた。懸の木は,蹴り上げられた鞠の軌道を不規則にして競技性を高めるために,鞠場には必須の設備とされていた。
(図書寮文庫)
本図は,馬に乗らず,立った姿勢で弓を射る歩射(ぶしゃ)の種目の一つ草鹿(くさじし)の射場の見取図で,画像は,鹿をかたどった的の部分。本図は江戸時代中期頃に書写されたもので,松岡家に伝えられた。
草鹿は,本来野の鹿を狩る練習として行われるものであるため,鹿をかたどった作り物を的として掛けていた。射手から的までは25m前後の距離があり,的の大きさは胴体部分が55cm×25cm程度のもの。実際の射技は,伝統的な作法にのっとって射ることや,星(胴体の斑点模様)に的中すること,更にはどの星に的中したのかを申告することで初めて当たりとみなされるなど,的中以外の要素も求められる競技となっていった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899)8月12日,横浜市雲井町(現・中区長者町5丁目の一部)より出火し,横浜の歓楽街をほとんど焼いた「雲井町大火」の火災状況図。図のうち赤い部分が焼失場所,青い部分が罹災者(りさいしゃ)避難場所(主に学校等)となっている。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(宮内公文書館)
明治6年(1873)の大和田原(現船橋・習志野・八千代市域)行幸の様子を描いたもの。この行幸の際に,同地は「習志野原」と命名された。本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇に奉呈された附図の稿本。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(宮内公文書館)
習志野原御猟場の全域図。大正9年(1920)写。四つの管轄区域を色分けして描いている。習志野原御猟場は明治14年(1881)に設置された後,区域を増縮しながら大正11年に廃止された。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。