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(選択を解除)(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(図書寮文庫)
古代において、土地税である田租の賦課対象でありながら、災害等により特定の年に耕作不能となった田地を、不堪佃田(ふかんでんでん、佃(たつく)るに堪えざる田)という。
平安時代には、不堪佃田は各国の官長である受領(ずりょう)が朝廷に申請し、天皇の裁可を得ることにより、その年の租税の一部を免除された。この手続きは、各国の申請をとりまとめ、先例を調査した結果を記した勘文(かんもん)とともに奏上する荒奏(あらそう)、天皇の指示を受けて公卿が審議する不堪佃田定(ふかんでんでんさだめ)、審議の結果を記した定文(さだめぶみ)を奏上する和奏(にぎそう)からなる。
本資料は、建長 6 年(1254)度の申請を対象とする手続きにあたり作成された文書の写しで、申請国を整理した注文と勘文・定文(掲出箇所)の 3 種類が貼り継がれている。鎌倉時代のものであるが、平安時代の儀式書に記された文書様式とよく一致し、古い政務の具体像を復元する一助となる。
本資料の勘文は文永 3 年(1266)、定文は元応元年(1319)に奏上された旨が記されており、申請年と荒奏・和奏の間隔が大きく離れていて、租税免除の実態は既に失われている。政務が形骸化しつつも、地方統治を象徴する吉礼として行われたと考えられる。
(図書寮文庫)
本資料は、寛永 20 年(1643)に行われた後光明天皇(1633-54)の即位礼に際して作られたと推定される、天皇の礼服(らいふく)のミニチュア・モデルである。礼服とは、古代中国の制度を起源とする、特定の国家的儀式で着用する礼装のことである。日本においては、平安時代前期に即位礼などで用いられる服装として定められ、弘化 4 年(1847)に行われた孝明天皇の即位礼に至るまで用いられた。
天皇の礼服は、中国の皇帝が同様の儀式で着する衣装を踏襲したもので、多くの服飾から成るが、本資料で模造されているのは、上下の上着部分である大袖(おおそで、掲出画像の上部)および裳(も、掲出画像の下部)のみである。実物は鮮やかな赤色の生地であり、左右の袖に織られた二匹の龍をはじめ、十二章(じゅうにしょう)と総称される文様が刺繍されているが、ここでは紙を切り合わせて縦 20 ㎝・横 30 ㎝前後のサイズで形状を再現し、文様や折り目を墨で描いている。ただし、現存する天皇の礼服と比べると、図像の一部に相違や省略がある。なお、礼服の詳細については、『皇室制度史料 儀制 践祚・即位 二』(宮内庁、令和 5 年 3 月)も参照されたい。
(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
福井県三方上中郡若狭町に所在する西塚古墳から出土した鉄鏃(てつぞく)である。
鉄鏃とは矢の先端に取り付けられた鉄製の鏃(やじり)のことで、全国の古墳から普遍的に出土するものの、時期や地域によって特徴が異なるため、古墳の築造時期や鉄鏃製作時の生産体制、地域間交流を検討するうえで重要な資料といえる。
本資料は片刃(かたば)の長頸鏃(ちょうけいぞく)42点が錆びてまとまり、塊状になったものである。長頸鏃とは、刃がある鏃身部(ぞくしんぶ)と鏃を矢柄に固定する茎部(なかごぶ)との間の部分である頸部(けいぶ)が伸長化した鉄鏃のことをいう。本資料における各鉄鏃の長さは約10~11cm(塊としては長さ15.2cm)、鏃身部の長さは約3cmである。本資料はその形状から製作時期を5世紀後半に位置づけることができる。
なお、鉄鏃の長頸化は5世紀中葉以降にみられる特徴で、鉄製武具の普及によって貫通能力が求められたことや、朝鮮半島からの影響も推測されており、当時の対外交流を考えるうえでも重要である。
(図書寮文庫)
延喜式は律令格式(りつりょうきゃくしき)のうちのひとつである式を官司別に編纂したもので、醍醐天皇(だいごてんのう、885~930)の命により、延喜5年(905)に編纂がはじめられ延長5年(927)に完成、康保4年(967)に施行された。式は施行細則という性格上、延喜式も細かい内容の規定が多く見られ、百科全書的な趣を持ち、歴史学のみならず、考古学、薬学、食品学、技術史等の各分野の研究対象となっている。
本資料は「勢多蔵書」印や勢多章純(せたのりずみ、1734~95)の印である「家世明法儒中原氏蔵書」印を持つ勢多家旧蔵本で、50巻49冊からなる板本である。正保4年(1647)及び慶安元年(1648)の跋を持つが、内容的には正保4年に板行された本を改訂したものである。ただし、巻1、巻4、巻6は嘉永7年(1854)に火災で焼失したために安政3年(1856)に書写後補、巻2、巻3は他の巻とは異なる時期に板行された本を合綴したものである。勢多治勝(せたはるかつ、1625~79)の奥書を持つほか、勢多章甫(せたのりみ、1830~94)までの歴代当主による書き込みが見られる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(陵墓課)
この勾玉を作った人や使った人はどのような祈りや願いを込めていたのだろうか。
「勾玉」は古墳時代の人々が最も好んだ玉であるといえる。多くは管玉などほかの玉と組み合わされて首飾りなどのアクセサリーに用いられていた。勾玉の独特なかたちは日本列島内で独自に発展したものであるが,そのルーツについてはよくわかっておらず,動物の牙(きば)という説,胎児(たいじ)を模したものであるという説などがある。
今回紹介する「大勾玉」は,全長9.7㎝,重さ200g超と,類例のない大きさである。サイズ,ボリュームともアクセサリーとして身につけるにはあきらかに不向きといえよう。紐をとおすための孔の周囲は,曲線や直線,直線を組み合わせた三角形などが刻まれて飾られているが,これも通常の勾玉には見られないものである。
「玉」という名称は,「魂(たま)」や「霊(たま)」と語源が同じといわれ,マジカルな力やミステリアスな力を宿す呪術具としての意味を持つとも考えられている。以前に本コーナーで紹介した「子持勾玉」は,そうした呪術的な側面がかたちに表れているものであるが,本品も,かたちこそ通常の勾玉と同じであるが,その大きさや装飾は,身体を飾るアクセサリーとしてではない,呪術具としての側面を現しているものであると考えられる。
これだけ大きな勾玉は古墳時代の出土品としてはほかに例がない。本品は,古墳時代に生きた人々の精神的な活動を知るための手がかりとなる,重要な遺物といえよう。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。
(図書寮文庫)
固関(こげん)とは,古代において天皇の崩御や譲位などの重大事に際し,畿内に通じる主要道に設けられた三関,すなわち伊勢国鈴鹿関(すずかのせき),美濃国不破関(ふわのせき),越前国愛発関(あらちのせき,平安遷都後ほどなくして近江国逢坂関(おうさかのせき)にかわる)を封鎖する儀である。この儀では木契(もっけい)と呼ばれる割符を使用し,片方を関に赴く使者に携行させ,後日封鎖を解除する際に別の使者にもう片方を持参させ,現地で合わせて正式な使者であることを確認させた。
本資料は宝永6年(1709)東山天皇から中御門天皇への譲位儀に際して行われた固関儀で用いられたと推定される木契の実物で,その寸法は長さ約9.2㎝,両片を合わせた底面は約3㎝四方である。江戸時代には既に三関は廃絶していたが,固関儀は古式にのっとり引き続き行われていた。本資料は上卿を務めた九条輔実(すけざね,1669-1729)の手元に残され伝わったと考えられ,伊勢国あての左右と美濃国・近江国あての右片が現存する。当時の宮中儀礼の実像を知ることのできる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
本資料は,室町期の公卿高倉永行(たかくらながゆき,?-1416)の日記『永行卿記』の明徳3年(1392)12月3日条の抄出で,北朝第3代崇光天皇(当時は上皇,1334-98)が御落飾(同年11月30日)された折の記録である。端裏書には「本院御落飾記 明徳三」とある。本院とは崇光上皇のこと。従来上皇の御落飾に関しては,簡略な記事しか知られなかったが,本資料によって詳しい状況を知ることができる。筆跡は永行自筆と考えられ,永行自身が上皇の御落飾の記事を日記から抄出したものとみられる。
内容は,御落飾の概要は冷泉範定からの情報としたうえで,その儀は内々のもので戒師が相国寺の常光国師(空谷明応)であったことやその様子,あるいは御供として出家した五辻朝仲のこと,また御落飾後の御法衣や国師の袈裟などについての記事である。高倉家は山科家とともに御服調進の家で,崇光上皇の御法衣も高倉家の調進であった可能性があり,それ故に装束についての詳細が記されたのではないだろうか。署名の官職等を勘案すれば,応永3年(1396)をさほど遡らない時期の筆跡と考えられ,御落飾当時のものである可能性もある。料紙に押紙を付して文字を訂正しているが,すべて当初の文字と同じで,その意図は不明。
(図書寮文庫)
本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(図書寮文庫)
即位礼で用いられる様々な物品の図像・解説を記した絵図。上・下2巻で構成され,上巻には儀場の調度品,下巻には臣下の装束を載せる。室町時代に作成された写本であり,「文安御即位調度図」の名で広く知られる絵図と同様の内容を含む。近年の研究によれば,これらの絵図は永治元年(1141)近衛天皇(1139-55)の即位礼に際して作成されたものがもとになっているという。
掲出の画像は,上巻の高御座(たかみくら)を図示した箇所。高御座は即位礼の際に天皇が登壇される玉座であり,台座の上に八角形の屋形が組まれ,天蓋には金色の鳳凰や鏡などの装飾品を施している。現在の「即位礼正殿の儀」で用いられる高御座は,大正天皇(1879-1926)の即位礼に際して古代以来の諸史料を勘案して製作されたものであるが,本絵図からは,平安後期に遡る高御座の姿を視覚的に知ることができる。
なお,高御座の上部に描かれているのは,儀場である大極殿(だいごくでん)に懸けられる帽額(もこう)という横長の幕で,中央に太陽が,左右に龍や獅子などの霊獣が刺繍されている。
(図書寮文庫)
本資料は,貞享4年(1687)に行われた,東山天皇(1675-1709)の大嘗祭に関連する儀式で実際に使用された文書である。室町時代後期より中絶していた大嘗祭は,東山天皇の代に至り,約220年ぶりに再興された。
掲出の画像は,例文(れいぶみ)と呼ばれる文書である。左の2巻は,大嘗祭の実務を取り仕切る役職である,検校(けんぎょう)と行事(ぎょうじ)を任命する儀式で用いられた。右の1巻は,神宮・石清水・賀茂の三社へ大嘗祭の挙行を告げる,三社奉幣使(さんしゃほうべいし)と呼ばれる使者を任命する儀式で用いられた。
例文とは,かつてその役職に任命された人物が記された文書のことで,元々は人物選定の参考として儀式で使われていた。その機能はこの頃すでに形骸化していたが,儀式の再興にあたり,古式に則り例文が作成されたのである。例文には直前の例を記すのが一般的だが,この時は直前となる文正元年(1466)の大嘗祭ではなく,吉例であるとの理由により,更にその前,永享2年(1430)に行われた大嘗祭の例が記された。
題籤軸(だいせんじく)を伴う装丁など,儀式で用いる文書の特殊な形態を知り得る,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
御挿頭(おかざし,「御挿華」「御挿頭花」とも)とは,大嘗祭後の饗宴の際天皇に献上される花(冠に挿す造花)のことで,それを載せる飾り台を洲浜(すはま)という。
御挿頭と洲浜は,それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つが作られ,花の選定や洲浜のデザインには天皇の長寿延命を祈念する意味が込められることが多い。
掲出画像は文政元年(1818)の仁孝天皇(にんこう)の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案。梨の花が描かれ,造花にする際の各部位の材質も判明する。「御治定」(ごちてい)の裏書きはこの案が採用されたことを示しており,御物(ぎょぶつ)として現存する御挿頭の実物と形状・色彩が一致している。
「御挿頭花洲浜伺絵形」は全10紙からなり,第1紙から第4紙までが文政度大嘗祭の御挿頭と洲浜の決定図で,第5紙から第10紙までは嘉永元年(1848)の孝明天皇の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案である。特に第5紙以降は決定案である第6紙の梧桐(あおぎり)のみならず,不採用案(第5紙の芝草(しそう)・第7紙の大椿(だいちん)・第8紙から第10紙の芝草)も判明する。
御挿頭の花と材質が検討された経緯が視覚的にわかる興味深い資料である。