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(選択を解除)(図書寮文庫)
本資料は,室町期の公卿高倉永行(たかくらながゆき,?-1416)の日記『永行卿記』の明徳3年(1392)12月3日条の抄出で,北朝第3代崇光天皇(当時は上皇,1334-98)が御落飾(同年11月30日)された折の記録である。端裏書には「本院御落飾記 明徳三」とある。本院とは崇光上皇のこと。従来上皇の御落飾に関しては,簡略な記事しか知られなかったが,本資料によって詳しい状況を知ることができる。筆跡は永行自筆と考えられ,永行自身が上皇の御落飾の記事を日記から抄出したものとみられる。
内容は,御落飾の概要は冷泉範定からの情報としたうえで,その儀は内々のもので戒師が相国寺の常光国師(空谷明応)であったことやその様子,あるいは御供として出家した五辻朝仲のこと,また御落飾後の御法衣や国師の袈裟などについての記事である。高倉家は山科家とともに御服調進の家で,崇光上皇の御法衣も高倉家の調進であった可能性があり,それ故に装束についての詳細が記されたのではないだろうか。署名の官職等を勘案すれば,応永3年(1396)をさほど遡らない時期の筆跡と考えられ,御落飾当時のものである可能性もある。料紙に押紙を付して文字を訂正しているが,すべて当初の文字と同じで,その意図は不明。
(図書寮文庫)
本資料は,安徳天皇(1178-85)の御即位を山陵に奉告する宣命(せんみょう)の案(下書き)の写しである。宣命とは,天皇の命令や意思を和文体で書いたもの。
安徳天皇は治承4年(1180),3歳で皇位を継承された。当時の記録により,使者が天智天皇などの山陵に遣わされたことや,宣命の起草と清書を勤めたのは少内記(しょうないき)大江成棟であることが知られるが,宣命の内容は本資料でわかる。山陵の厚い慈しみを受けることで,天下を無事に守ることができるであろう,との旨が記されている。実際の宣命は「官位姓名」を使者の名に,「某御陵」を山陵名に書き換えて,山陵一所につき一通が使者に授けられる。
本資料が収められる『古宣命』は,室町時代に書写された安徳天皇・後伏見上皇・光厳上皇・後醍醐天皇・後小松天皇の宣命案と,壬生忠利(ただとし,1600-63)の筆による後西天皇の宣命案などからなる。なお,本資料の紙背(裏面)に書かれているのは,壬生晴富(はれとみ,1422-97)の子・梵恕(ぼんじょ,幼名は弥一丸)の日記『梵恕記』とされる。
(図書寮文庫)
大嘗祭において祭儀がとり行われる場である大嘗宮と,天皇の着替えや身の清めの場である廻立殿(かいりゅうでん)を描いた絵図。紙背に「暦応(りゃくおう)」とあることから,暦応元年(1338)光明天皇(1321-80)の大嘗祭で用いられたもので,大嘗宮の絵図としては現存最古のものである。
大嘗宮は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)からなり,天皇は両殿それぞれにおいて祭儀を行われる。掲出の絵図では,柴垣に囲まれた区画内の東側(画像右部)に悠紀殿,西側(同左部)に主基殿が描かれ,北側(同上部)の幕で囲まれた区画内に廻立殿が描かれている。その構造は平安時代の儀式書の記述ともよく一致し,さらに悠紀殿・主基殿の内部までもが描かれており,古い大嘗宮の姿を知ることのできる貴重な一品である。
なお,この頃の大嘗宮は,かつて政務・儀礼の場であった朝堂院(ちょうどういん)の跡地に設けられるのが例であったが,本絵図に「承光堂(じょうこうどう)」「修式堂(しゅしきどう)」など,朝堂院の建物の名が大嘗宮の南側(画像下部)に記されていることから,光明天皇の大嘗宮も朝堂院跡に設けられたことが知られる。大嘗宮を設ける場所については『皇室制度史料 儀制 大嘗祭 一』(宮内庁,令和3年3月)も参照。
(図書寮文庫)
即位礼で用いられる様々な物品の図像・解説を記した絵図。上・下2巻で構成され,上巻には儀場の調度品,下巻には臣下の装束を載せる。室町時代に作成された写本であり,「文安御即位調度図」の名で広く知られる絵図と同様の内容を含む。近年の研究によれば,これらの絵図は永治元年(1141)近衛天皇(1139-55)の即位礼に際して作成されたものがもとになっているという。
掲出の画像は,上巻の高御座(たかみくら)を図示した箇所。高御座は即位礼の際に天皇が登壇される玉座であり,台座の上に八角形の屋形が組まれ,天蓋には金色の鳳凰や鏡などの装飾品を施している。現在の「即位礼正殿の儀」で用いられる高御座は,大正天皇(1879-1926)の即位礼に際して古代以来の諸史料を勘案して製作されたものであるが,本絵図からは,平安後期に遡る高御座の姿を視覚的に知ることができる。
なお,高御座の上部に描かれているのは,儀場である大極殿(だいごくでん)に懸けられる帽額(もこう)という横長の幕で,中央に太陽が,左右に龍や獅子などの霊獣が刺繍されている。
(図書寮文庫)
本資料は,貞享4年(1687)に行われた,東山天皇(1675-1709)の大嘗祭に関連する儀式で実際に使用された文書である。室町時代後期より中絶していた大嘗祭は,東山天皇の代に至り,約220年ぶりに再興された。
掲出の画像は,例文(れいぶみ)と呼ばれる文書である。左の2巻は,大嘗祭の実務を取り仕切る役職である,検校(けんぎょう)と行事(ぎょうじ)を任命する儀式で用いられた。右の1巻は,神宮・石清水・賀茂の三社へ大嘗祭の挙行を告げる,三社奉幣使(さんしゃほうべいし)と呼ばれる使者を任命する儀式で用いられた。
例文とは,かつてその役職に任命された人物が記された文書のことで,元々は人物選定の参考として儀式で使われていた。その機能はこの頃すでに形骸化していたが,儀式の再興にあたり,古式に則り例文が作成されたのである。例文には直前の例を記すのが一般的だが,この時は直前となる文正元年(1466)の大嘗祭ではなく,吉例であるとの理由により,更にその前,永享2年(1430)に行われた大嘗祭の例が記された。
題籤軸(だいせんじく)を伴う装丁など,儀式で用いる文書の特殊な形態を知り得る,貴重な資料である。
(図書寮文庫)
御挿頭(おかざし,「御挿華」「御挿頭花」とも)とは,大嘗祭後の饗宴の際天皇に献上される花(冠に挿す造花)のことで,それを載せる飾り台を洲浜(すはま)という。
御挿頭と洲浜は,それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)の2つが作られ,花の選定や洲浜のデザインには天皇の長寿延命を祈念する意味が込められることが多い。
掲出画像は文政元年(1818)の仁孝天皇(にんこう)の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案。梨の花が描かれ,造花にする際の各部位の材質も判明する。「御治定」(ごちてい)の裏書きはこの案が採用されたことを示しており,御物(ぎょぶつ)として現存する御挿頭の実物と形状・色彩が一致している。
「御挿頭花洲浜伺絵形」は全10紙からなり,第1紙から第4紙までが文政度大嘗祭の御挿頭と洲浜の決定図で,第5紙から第10紙までは嘉永元年(1848)の孝明天皇の大嘗祭で検討された主基方御挿頭の図案である。特に第5紙以降は決定案である第6紙の梧桐(あおぎり)のみならず,不採用案(第5紙の芝草(しそう)・第7紙の大椿(だいちん)・第8紙から第10紙の芝草)も判明する。
御挿頭の花と材質が検討された経緯が視覚的にわかる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
大正天皇(1879-1926)の即位礼・大嘗祭は,大正4年(1915)11月,京都で行われた。大嘗祭では悠紀(ゆき)・主基(すき)の斎田で収穫された米・粟を神饌(しんせん)に用いるが,香川県は主基地方に選ばれ,綾歌郡(あやうたぐん)山田村大字山田上字田頃(現綾川町山田上)に斎田を選定した。
本資料は香川県内務部が編纂した写真帖で,光栄を永久に記念することを目的として,斎田をはじめとする各施設や器具,稲の生育状況,田植式・地鎮祭・抜穂式(ぬきほしき)といった各種行事や儀式,関係者の写真等が収められた。大正5年10月発行。資料名は図書寮で整理された際に付されたものである。
本資料を同じく香川県内務部編で大正5年3月に発行され,関係者に頒布された『主基斎田写真帖』と比べると,掲載写真や構成など内容的には同一であるが,全体に豪華なつくりとなっている。本資料が『主基斎田写真帖』を献上のため,特別に編纂し直したものであることが見て取れる。
掲出の写真は,大正4年5月27日,主基斎田における田植式の際に行われた田植えの光景である。田植歌の音頭のもと,早乙女たちがこれに唱和し,稲の苗を植えている。
(陵墓課)
「玉(たま)」は,石を主要な素材としている。美しい色や輝きを放つ石が使われることも多いが,それは「玉」がもつ構成要素のひとつでしかない。
本例は,頭部を欠いているものの現存する部分の長さが約8.6㎝ある大きな勾玉の体部各面に,小さな勾玉状の突起が複数表現されている。このように,大きな勾玉の周囲に小さな勾玉が取り付いているような形状の勾玉を,本体の勾玉を親に,周囲の勾玉を子になぞらえて,考古学の用語では「子持勾玉」と呼んでいる。
本例を始め,子持勾玉は,滑石(かっせき)と呼ばれる軟らかくて加工のしやすい石材で作られている。滑石は翡翠(ひすい)などと比べると見た目の美しさは控えめなため,子持勾玉を製作する際には,見た目の美しさではなく,その形を表現することに主眼が置かれていたものと考えられる。
子持勾玉は,本体の勾玉から新たな勾玉が生まれる様子が表現されていると考えられており,再生や誕生を願う祭具として使用されたと推定されている。古墳時代の中頃(5世紀頃)に出現して日本列島の広い範囲に分布し,古墳時代が終わった後も,飛鳥時代である7世紀後半まで使用されたことがわかっている。
(陵墓課)
大正5年(1916),京都府南部・奈良県北部・大阪府東部に所在する古墳を荒らし回っていた盗掘団が摘発された。その契機となったのが,垂仁天皇(すいにんてんのう)皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵に対する盗掘事件である。盗掘者によって持ち出された副葬品(ふくそうひん)は回収され,埋葬施設(まいそうしせつ)を復旧する工事の際にコンクリート製の箱に納めて埋め戻された。そのため現在は副葬品の実物を目にすることはできないが,石膏による精巧な模造品が残されており,大きさや形状について知ることができる。
石膏模造品が残されている狭木之寺間陵出土品のうち鏡は3面あるが,本品はそのうちの1面である。背面の文様を見ると,連続する内向きの円弧の文様があり,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡」という種類の鏡の文様をベースとしていることがわかる。その一方,中国の「内行花文鏡」では文様が施されない鏡の縁には,「直弧文」と呼ばれる,直線と曲線を組み合わせた日本特有の文様が巡らされている。また,背面中央にある紐を通すための半球形の突起の周囲には,「内行花文鏡」で一般的な葉っぱのような形の文様ではなく,イカの頭のような形の文様が四方に配置されている。さらに,大きさで見ると,本品の直径は34.3㎝であり,中国で見られる内行花文鏡に比べてかなり大きなものである。
本品は,文様や大きさから,大陸から伝わった鏡をモデルとしながらも日本独自のアレンジを加えて製作されたものであると評価することができる。古墳時代の日本列島における鏡生産体制を考えていく上で重要な鏡である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日に新橋鉄道館で開催された鉄道開業式の様子を写した写真である。明治2年(1869)11月,鉄道の敷設が決定されると,東京・横浜間の工事が始められた。開業式に先立つ,明治5年(1872)5月7日には,仮開業として品川・横浜間の旅客営業が開始されている。明治天皇も,7月12日に中国・西国巡幸の帰途,開業式に先駆けて横浜から乗車された。
鉄道開業式は,重陽の節句にあわせて9月9日に開催の予定であったが,雨天のため9月12日に延期となった。写真の右奥に写る建物が新橋鉄道館である。『明治天皇紀』によれば,当日は「霖雨(りんう)全く霽れ(はれ)、快晴にて微風(びふう)なし」とあり,晴天のもと大勢の人びとが,線路に沿って集まっている様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月19日,明治天皇・昭憲皇太后が赤坂離宮で行われた観菊会へ行幸啓になった際を描いたものである。明治天皇は毎年の陸軍大演習の統監により,久しく観菊会へ臨席されていなかったが,この年は秋の観菊会に臨まれ菊花をご覧になった。秋の観菊会は,戦前に現在の園遊会と同様の行事として,春の観桜会とともに行われていた。欧州の園遊会にならい,内外の要人を招待する皇室行事で,それぞれ桜と菊の観賞を目的とした社交の場として催されていた。明治13年(1880)に始まった観菊会は,昭和4年(1929)に会場を新宿御苑に変更するまで,赤坂離宮で行われていた。
本資料は,「明治天皇紀」とともに昭和天皇へ奉呈された附図の稿本に収められたものである。作者は,二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。
(陵墓課)
本品は「車輪石」と呼ばれる,古墳時代の前半期に見られる遺物である。楕円形を呈しており,長径は14.0cmである。その名称から,「石でできた車輪」を連想するかもしれないが,その用途は車輪ではない。そもそもわが国において,古墳時代に車輪を用いる「車」は確認されていない。それではその用途は何かといえば,以前に当コーナーで紹介した鍬形石(くわがたいし)と同様に,所有することに意義を持つ宝物であったと考えられる。鍬形石はゴホウラという巻貝から作られた腕輪を原形とするのに対し,車輪石はオオツタノハという巻貝から作られた腕輪を原形とする説が有力である。その理由は,車輪石の表面に見られる放射状の表現が,オオツタノハの貝殻のかたちによく似ているからである。鍬形石と車輪石をどのように使い分けていたのかについては様々な学説があるが,鍬形石は男性に,車輪石は女性に副葬されたのではないかという説がある。この「車輪石」という名称も,鍬形石と同様に,江戸時代の奇石収集家(きせきしゅうしゅうか)として有名な木内石亭(きうちせきてい)が名付けたとされており,作られた場所や流通などについて謎の多い出土品である。
(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
悠紀主基屏風は,大嘗会に際して卜定(ぼくじょう,占いによって決定される意)された悠紀・主基両国郡の名所風俗を絵に描き,悠紀・主基それぞれ六曲一双(6面で一隻の屏風2隻を一組としたもの)として制作されるもので,大嘗会毎に新調されるのを例とした。また,両国郡に因んだ和歌が詠進され,色紙形(しきしがた)とよばれる料紙に万葉仮名で書かれて屏風に貼られた。完成した屏風は,大嘗会後の節会で披露された。
大嘗会は応仁の乱(1467-77)以降行われなくなり,江戸時代前期の第113代東山天皇御即位の時(貞享4年,1687)に再興されたが,大嘗会の和歌詠進は,第115代桜町天皇の元文3年(1738)の大嘗会にようやく復活した。
掲出の図書は,その時の詠進者2名―悠紀国(滋賀県):烏丸光栄(からすまる みつひで),主基国(京都府):日野資時(ひのすけとき)―がそれぞれ18首ずつの和歌を自筆で記した懐紙原本である。詠進者の烏丸光栄・日野資時は共に日野一流で,当時著名な歌人として知られた公家であった。
文中にみえる六帖とは,1年12ヶ月を2ヶ月分で1回,月次和歌(つきなみわか)3首として詠進するため,その回数を6回(12ヶ月÷2ヶ月)と考えることによるもの。和歌は,悠紀・主基各18首(3首×6回)となる。もと外記局に伝来。
明治時代以降は歌数に変化があったが(明治各2首,大正以降各4首),令和度においても悠紀主基屏風は,名所が描かれた屏風一隻ごと(合計4隻)にそれぞれ和歌2首(合計8首)の色紙形が貼られ,大嘗宮の儀のあとに催された大饗の儀で披露された。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,昭和大礼における即位礼・大嘗祭後に催された饗宴(きょうえん)(大饗〈だいきょう〉)の際の献立である。大礼とは,践祚(せんそ)(皇位を継承すること)の後,即位を内外へ広く知らせるために行われる一連の儀式である。昭和天皇の即位礼は,昭和3年(1928)11月10日に京都御所にて挙行された。11月14日・15日の大嘗祭(だいじょうさい)を終えると,16日・17日の2日間にわたって大饗が催された。京都御所の東側に仮設された饗宴場にて,天皇・皇后の御臨席のもと,皇族,内閣総理大臣以下閣僚,官僚,各国大公使などを招いて行われた。1日目の「大饗第一日の儀」は944名が,2日目の「大饗第二日の儀」は203名が,同日の「大饗夜宴の儀」は2,779名がそれぞれ参列した。
写真は,17日の「大饗第二日の儀」の献立である。朱塗りの門を彩色で描いた表紙(写真右側)を開くと,写真左側には西洋料理のコース(和文・仏文)が見える。献立には鼈清羹(スッポンのコンソメスープ),鱒蒸煮(マスの料理),鶉煮冷(ウズラの冷製),牛肉焙焼(牛フィレ肉),凍酒(シャンパンのシャーベット),蔬菜(セロリのサラダ),七面鳥炙焼(七面鳥のロティ),温菓(デザート)というメニューが並んでいる。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。