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本資料は大阪府内の行幸・行啓を記録した資料で、明治元年(1868)から大正3年(1914)までを収める。宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のために、大正8年10月、大阪府立図書館所蔵の資料を底本として筆写した。この内、見開き箇所は明治天皇が初めて堺県を訪問された明治10年2月13日条である。
この明治10年行幸ではご滞在中、京都・神戸間鉄道開業式への臨席や、東大寺大仏殿を会場とした奈良博覧会の観覧、正倉院宝物の蘭奢待(らんじゃたい)と呼ばれる香木を切り取り焚いたことがよく知られている。1月24日の東京ご出発後、鹿児島で西郷隆盛ら私学校生徒が蜂起した西南戦争により、7月30日まで還幸は延期し、畿内滞在は半年近くに及んだ。堺へ到着した2月13日には、熊野(ゆや)小学校での授業天覧、堺県庁(本願寺堺別院内)での県令からの県勢報告、同所での県内物産陳列場の視察、戎島(えびすじま)綿糸紡績所での器械天覧などが行われた。堺の行在所(あんざいしょ)滞在中には、西南戦争に発展する、鹿児島での私学校生徒の挙兵の一報が明治天皇に伝えられた。
(宮内公文書館)
本資料は、大阪府泉北郡向井村(現・大阪府堺市堺区)の灌漑(かんがい)状況についてまとめられた資料に綴じこまれた図面である。明治36年(1903)4月、明治天皇・皇后(昭憲皇太后)は、大阪天王寺で開催される第5回内国勧業博覧会を御覧になるため、大阪に行幸・行啓になった。このとき天皇は、博覧会開会の勅語を読まれたほか、各会場や附属水族館などを御覧になった。
天皇と同じく皇后も博覧会に関連する各施設を訪れた。同時に、大阪府内の各所に侍従を差遣(さけん)し、状況を視察させた。5月2日、皇后は侍従の米田虎雄(こめだとらお)を向井村に差遣した。かねてより向井村やその周辺の村々では、灌漑用水の不足に悩まされていた。図面の左側にみえるのが大和川、中央部には田畑が広がり、仁徳天皇陵がその右側に位置する。大和川から仁徳天皇陵に向かって、土地は高くなり、したがって大和川から取水することが困難であった。そこで、明治29年(1896)、灌漑用水の不足を解消すべく向井村の村長八木栄次郎(やぎえいじろう)は、蒸気機関を用いた揚水機を設置し、灌漑用水とする工事を計画、早くも翌年には竣工となった。
本資料は、明治天皇の御手許(おてもと)へとあげられた書類であり、皇后による米田の向井村差遣に前後して作成されたと推測される。
(宮内公文書館)
明治36年(1903)4月、明治天皇は大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会に行幸になり、開会式で勅語を述べられた。改正条約実施後初の博覧会であるため諸外国からの出品も認められ、夜間には電灯によるイルミネーションが施されるなど、最後の内国勧業博覧会にして最大規模となった。博覧会の第2会場である堺には「附属水族館」(現・大浜公園内)が設置され、天皇と皇后(昭憲皇太后)は、5月5日と同6日にそれぞれ行幸・行啓になった。その後、堺の名所として知られるようになった堺水族館には、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)(後の大正天皇)や同妃(後の貞明皇后)、明治天皇の皇女常宮昌子内親王(つねのみやまさこないしんのう)(後の竹田宮恒久王妃)、周宮房子内親王(かねのみやふさこないしんのう)(後の北白川宮成久王妃)なども訪れている。
立面図は、第5回内国勧業博覧会関係資料の一部として明治天皇の御手許へとあげられた資料(明治天皇御手許書類)(めいじてんのうおてもとしょるい)である。宮内公文書館では、水族館の図面のほか、博覧会で使用された各建物の図面等も所蔵している。
(図書寮文庫)
本資料は、「賢人右府」(けんじんうふ)と称された藤原実資(ふじわらのさねすけ、957-1046)の日記である。掲出箇所は長和5年(1016)正月29日に、三条天皇(976-1017)から敦成親王(あつひら、後一条天皇、1008-36)への譲位に当たり、皇位の象徴である剣璽(けんじ)が親王のもとに移される場面である。
当時、藤原道長(みちなが、966-1028)は、娘藤原彰子(しょうし、988-1074)所生の敦成親王を即位させようと、三条天皇に度重なる圧力をかけていた。天皇は持病の眼病の悪化もあり、ついにこの日位を退かれた。この時、天皇の御在所である枇杷院(びわいん)から、幼少の敦成親王が住む道長邸の土御門殿(つちみかどどの)へ、どのように剣璽を移動させるかが議論となった。その結果、公卿たちが行幸の如く行列を組み、京内を移動して剣璽が土御門殿にもたらされることとなった。
掲出箇所には、土御門殿到着後、左大臣の道長らが剣璽のそばに付き従い、母后(彰子)のいる寝殿の前を通過したことが記されている。絶頂期を迎えつつあった道長政権を象徴する一幕といえよう。
なお、本資料は、平安時代から鎌倉時代頃に書写された九条家旧蔵本で、掲出箇所を含む長和5年正月の部分については、現存する唯一の古写本である。
(図書寮文庫)
室町時代以前には、大嘗祭を挙行する年の10月末に、天皇が賀茂川岸に行幸し、自ら身を清められる御禊行幸が行われていた。本資料は、延慶2年(1309)10月21日に行われた花園天皇(1297-1348)の御禊行幸について、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)が記した記録である。
洞院公賢はその邸宅「中園殿」(なかぞのどの)にちなんで中園太政大臣と称されたため、彼の日記は『園太暦』と呼ばれる。掲出画像冒頭に「愚記」とあるのは自らの日記を謙遜した呼称である。本資料所収の記事は一般に流布した日次記には含まれず、知られる限りでは最も古いものである。本書は図書寮文庫所蔵「大嘗会御禊行幸記」(415・307)と接続するもので、もともとは御禊行幸の部類記を構成する記録の1つであったが、極めて貴重な自筆の園太暦ということで旧蔵者により個別に装訂された。
洞院公賢は当時参議左大弁で、この日の御禊行幸に随従した公卿のうちの1人である。彼は河原に到着した後は幄舎(あくしゃ)で待機していたらしく、天皇の御禊儀に関する記述は伝聞によるものだが、行幸に供奉した官人の一覧を、行列次第の順に記しているのが注目され、当時の行幸のあり方を知ることができる点で興味深い。
(図書寮文庫)
本資料は、花園天皇(1297-1348)の大嘗祭に先立ち、延慶2年(1309)10月21日に行われた賀茂川岸への御禊行幸に関する記録を、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)がまとめた部類記である。
収録されている記録は順番に、良枝記(記主:清原良枝(きよはらのよしえ、1253-1331))、経親卿記(記主:平経親(たいらのつねちか、生没年未詳))、継塵記(記主:三条実任(さんじょうさねとう、1264-1338))で、本来は良枝記と経親卿記の間(掲出箇所)に図書寮文庫所蔵「園太暦」(415・309)が接続していたが、旧蔵者により分離されている。
御禊行幸は平安時代後期より上皇が沿道に御桟敷を設けて行列を見物されるのが通例となるが、この日は花園天皇の父・伏見上皇(1265-1317)と、兄・後伏見上皇(1288-1336)による御見物が行われた。平経親は伏見上皇の近臣として御見物に供奉しており、本資料は御見物の詳細を知ることができる貴重な記録といえよう。なお、この日の御見物は御桟敷を略して車中にて行われている。
(図書寮文庫)
令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(宮内公文書館)
明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった小山(現栃木県小山市)・高橋家の御座所を撮影した1枚。同家は旧日光街道脇本陣で、明治9年(1876)6月、明治天皇は東北・北海道巡幸の折に、栃木県内で初めてお立ち寄りになった地である。栃木県は東北・北海道へと至る陸羽(りくう)街道(旧奥羽街道)が通る交通の要衝であった。明治14年の巡幸時にも再び、小山駅高橋満司宅が行在所となった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、収集されたもので、大正・昭和初期の様子がうかがえる。
その後、小山行在所となった家の門前には、大正14年(1925)6月に記念碑が建てられた。揮毫(きごう)は明治天皇側近として宮内省で侍従などを歴任した藤波言忠(ふじなみことただ)による。昭和8年(1933)11月には史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく明治天皇の「史蹟」として指定された(昭和23年指定解除)。
(宮内公文書館)
この写真は、明治38年(1905)11月に栃木中学校(前第二中学校、現栃木県立栃木高等学校)に建てられた聖駕駐蹕碑(せいがちゅうひつひ)である。「元帥公爵山縣有朋(げんすいこうしゃくやまがたありとも)」の題字になるこの碑は、明治32年の栃木県行幸に際して、第二中学校が行在所(あんざいしょ)となったことを記念して建立された。
当初、この行幸では第二中学校に隣接する新築の栃木尋常小学校が行在所にあてられる予定だった。行幸に先立ち、侍従の廣幡忠朝(ひろはたただとも)などが下見を行ったところ、新築であるがゆえに、尋常小学校の壁が乾燥しきっていないことが判明した。廣幡らの報告を受け、宮内省内で再検討が行われた結果、行在所は尋常小学校から第二中学校へと変更された。他方で、尋常小学校の関係者を中心に、行在所が変更されたことに対する失望も広がった。そこで栃木町町民総代から宮内大臣宛に、同校を物産陳列所とし、天覧を願いたいとの請願書が提出された。この請願は聞き入れられ、明治天皇は、物産陳列所として設営された尋常小学校において、県内の名産品などを天覧になった。
(宮内公文書館)
明治42年(1909)11月6日、栃木県那須郡那須村高久(現那須町)における御統監(ごとうかん)のご様子を写した明治天皇の御写真。明治天皇が統監された地は御野立所(おのだてしょ)として、那須野が原を眼下に見下ろす眺望のきく高台であった。本史料は宮内省の「明治天皇紀」編修事業のため、昭和2年(1927)に臨時帝室編修官長三上参次より寄贈された。
明治42年の栃木県行幸では、11月5日から11日までの間、陸軍特別大演習統監のため滞在された。明治32年の行幸と同様に、栃木県庁を大本営とした。この大演習は非常に大規模なものとなり、演習地も高久(現那須町)、泉村山田(現矢板市)、阿久津(現高根沢町)、氏家(現さくら市)など広範囲に及んだ。明治42年の行幸後、明治天皇の高久御野立所には記念の木標が建てられ、同地にはその後、大正4年(1915)11月に石碑が建立された。昭和9年11月には文部省によって「明治天皇高久御野立所」として史蹟に指定された(昭和23年指定解除)。現在は「聖蹟愛宕山公園」として整備されている。
(宮内公文書館)
大正13年(1924)ころ、東宮御用掛の西園寺八郎を筆頭に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と同妃(後の香淳皇后)の御避暑御用邸新設候補地の調査が進められた。本史料は、大正14年4月に作成された調査の復命書である。
復命書の冒頭では、避暑行啓の必要性を述べ、現在所有する御用邸のうち葉山は近隣の発展が著しく警備に難があり、沼津・宮ノ下・熱海・塩原は狭隘(きょうあい)であるとして、新たな御用邸を設置する必要性を説いている。復命書にあげられている候補地は、油壷(現神奈川県)、那須嶽山麓地方(現栃木県)、箱根(現神奈川県)の3か所である。このうち、那須嶽山麓地方については、気候が爽涼(そうりょう)であり景色も雄大であること、既に那須御料地として宮内省が土地を取得しており土地の売買が不要であること、「御運動」のための土地を十分に確保できていること、などが記されている。結論として海岸地方の第一候補を油壷、山麓地方の第一候補を那須として復命書をまとめている。
最終的に大正15年7月、那須御料地内に御用邸が新設され、那須御用邸と命名された。同月16日に御用邸は竣工し、8月12日には裕仁親王が初めて那須御用邸へ行啓になっている。
(宮内公文書館)
明治天皇は明治9年(1876)の東北・北海道巡幸で、初めて栃木県を訪問された。巡幸は天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることをいい、特に明治5年から同18年にかけて6度にわたる日本各地への巡幸は「六大巡幸」と呼ばれる。本史料は日光山の絵図で、行幸啓に関する公文書である「幸啓録」に収められている。絵図には、中央に日光山内の二社一寺である、日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、日光東照宮(とうしょうぐう)、日光山満願寺(まんがんじ、現・輪王寺)の境内地、左上に華厳滝(けごんのたき)や中禅寺湖が精細に描かれている。
明治9年の巡幸では、6月6日に宇都宮を出発されたのち、行在所である満願寺に入られた。翌7日は大雨の中、日光山内の東照宮や二荒山神社を巡覧された。雨の収まった8日には7時30分に満願寺を出発、正午には中宮祠(ちゅうぐうし)へ到着され、中禅寺湖や華厳滝をご覧になった。同湖はその後、この行幸に因んで「幸の湖(さちのうみ)」とも呼ばれるようになった。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(図書寮文庫)
本資料は江戸時代初期に作成されたとみられる、天皇の行幸とそれに従う公卿(くぎょう)や武官らの行列を描いた絵図。外題には「香春神社祭礼図巻物」(かわらじんじゃ、福岡県田川郡)との貼紙があるが、これは後世の誤解により付されたもので、実際は寛永20年(1643)10月3日、明正天皇(めいしょうてんのう、1624-96)から後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633-54)への譲位の日の様子を描いたものである。
当時の記録によれば、当日はまず明正天皇が皇居土御門内裏(つちみかどだいり、現在の京都御所)から、その北に新造した御殿へと遷り、後光明天皇は養母である東福門院(とうふくもんいん、1607-78)の御所から土御門内裏に入られた。新造の御殿にて譲位の儀式が行われた後、土御門内裏へと剣璽(けんじ)渡され皇位が継承された。
本資料には、行幸に付き従う人物の名前が貼紙で記されており、当時の記録と照合すると、明正天皇が御殿へと行幸する際の様子を描いたものであることがわかる。当日不参であった者の姿まで描かれていることから、行列次第をもとに作成されたものであろう。
掲出の画像は鳳輦(ほうれん)という、行幸の際に天皇が乗用された乗物。屋形の動揺を防ぐために多くの駕輿丁(かよちょう)に支えられている様子が印象的である。
(宮内公文書館)
明治天皇の利根川御渡船の様子を描いた絵図の写し。明治9年(1876)6月4日、明治天皇は巡幸の途中、栗橋宿(現久喜市)の池田鴨平宅で御小休になった。栗橋からその先の茨城県へ向かう間には利根川があり、明治天皇は御座船に乗って渡られている。この御渡船中に、明治天皇は利根川の鯉漁(こいりょう)を御覧になった。白衣を身にまとい潜水した漁夫数人がこぞって鯉を抱きかかえて捕獲したとされ、計48尾に上ったという。
史料は、昭和3年(1928)に宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のため、池田家から借用して作成されたものである。絵図下部に池田鴨平宅、上部が茨城県の中田駅、中央にある利根川の堤と明治天皇の御座船が描かれている。画賛(がさん)には利根川御渡船の経緯と、この時供奉(ぐぶ)した宮内省皇学御用掛近藤芳樹が詠んだ次の歌2首が記されている。「龍の門登らで老し身にも猶/こひねがはるゝ/君の千代かな」「利根川の淀みに引し/網の目に洩ぬ恵みの/深さをぞ思ふ」。なお、近藤の歌については「十府の菅薦」と校合し、適宜濁点を付した。
(宮内公文書館)
宮内省では、巡幸(じゅんこう)中の現地での出来事などを記録した供奉(ぐぶ)日記を作成している。巡幸とは天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることで、特に明治前期のものを総称して「六大巡幸」と呼ばれ、明治天皇は、明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり日本各地を巡幸になった。史料は、明治9年に東北・北海道へ巡幸された際の宮内省の巡幸供奉日記のうち、明治9年6月3日条の記事で、行幸啓に関する公文書がまとめられている「幸啓録」に収められている。
史料の記事は、巡幸の途中で埼玉県東部を通られた時のものである。明治9年6月3日、明治天皇は、埼玉県令白根多助(しらねたすけ)の進言により、草加駅(現草加市)と大沢駅(現越谷市)の間にある蒲生村(現越谷市)にてしばらく馬車を停め、挿秧(そうおう、田植え)を御覧になっている。同地では、200名ほどのたすき掛けの農夫による田植えの光景が見られたという。また、田植え御覧のことは各新聞社にも発表され、多くの人びとにも知られることとなった。六大巡幸で立ち寄られた各地では、このように明治天皇が自らその土地の風景や地域の生業(せいぎょう)を視察された。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
「明治天皇紀」を編修する臨時帝室編修局によって取得された。明治天皇がお召しになった御料四人乗割幌馬車の写真である。同馬車は,明治4年(1871)に宮内省が当時のフランス公使であるウートレーより購入したもので,同年5月に吹上御苑にて天覧に供された記録も残されている。多くの行幸に用いられており,なかでも明治9年の東北・北海道巡幸,同11年の北陸・東海道巡幸,同13年の甲州・東山道巡幸,同18年の山口・広島・岡山巡幸と実に4度の巡幸に用いられている点が特徴である。その後,宮内省主馬寮に保管されていたが,大正11年(1922)12月に「明治天皇御紀念」として,同馬車を含む3輌が帝室博物館へ管轄換えとなっている。戦後,帝室博物館は宮内省の管轄から離れたため,同馬車は現在も帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
明治天皇は,明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり大規模な巡幸を実施し,六大巡幸とも称されている。明治9年6月2日,明治天皇は六大巡幸の1つである東北・北海道へ巡幸の途に就いた。同月13日に福島県下白河に到着すると,白河城址に臨み,県下長坂村ほか14か村から集められた産馬1500頭余を御覧になった。この他に牧馬の業を興した八田部才助を近くに召しその功労を賞するなどした。写真は,産馬天覧の様子を写真師の長谷川吉次郎が撮影したものである。大正15年(1926)10月5日に白河町長の丸野実行から「明治天皇紀」を編修するために設置された宮内省臨時帝室編修局へ寄贈された。この東北・北海道巡幸ではこの他にも福島県下の須賀川や宮城県,岩手県においても産馬を御覧になっている。特に岩手県下水沢においては,のちに明治天皇の御料馬として知られる金華山号が買い上げられている。