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(選択を解除)(図書寮文庫)
本資料は、花園天皇(1297-1348)の大嘗祭に先立ち、延慶2年(1309)10月21日に行われた賀茂川岸への御禊行幸に関する記録を、洞院公賢(とういんきんかた、1291-1360)がまとめた部類記である。
収録されている記録は順番に、良枝記(記主:清原良枝(きよはらのよしえ、1253-1331))、経親卿記(記主:平経親(たいらのつねちか、生没年未詳))、継塵記(記主:三条実任(さんじょうさねとう、1264-1338))で、本来は良枝記と経親卿記の間(掲出箇所)に図書寮文庫所蔵「園太暦」(415・309)が接続していたが、旧蔵者により分離されている。
御禊行幸は平安時代後期より上皇が沿道に御桟敷を設けて行列を見物されるのが通例となるが、この日は花園天皇の父・伏見上皇(1265-1317)と、兄・後伏見上皇(1288-1336)による御見物が行われた。平経親は伏見上皇の近臣として御見物に供奉しており、本資料は御見物の詳細を知ることができる貴重な記録といえよう。なお、この日の御見物は御桟敷を略して車中にて行われている。
(図書寮文庫)
令和6年(2024)は後亀山天皇(?-1424)の崩御から600年に当たる。後亀山天皇は明徳3年(1392)に南北朝の合一が果たされた時の南朝の天皇であり、本資料は、天皇が吉野(南山)から京都に入御され、三種の神器を北朝の後小松天皇(1377-1433)に譲られた際の記録である。
南朝勢力の減退が著しい中即位された後亀山天皇は、北朝方との和平交渉を進められた。そして、譲位の儀式による後亀山天皇から後小松天皇への神器の授与、両朝交互の皇位継承などの講和条件が、北朝方の室町幕府将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)から提示され、後亀山天皇はこれを受諾された。
掲出画像は、明徳3年10月28日に後亀山天皇が吉野を出発された際の行列部分である。腰輿に乗られた天皇が弟宮とわずかな廷臣・武士を従えた、少人数の一行であったことが分かる。翌閏10月2日、天皇は京都の大覚寺に入られ、同月5日に神器が後小松天皇のもとに移され内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)が行われたものの、譲位の儀式は行われなかった。
なお、応永19年(1412)、後小松天皇から皇子躬仁親王(みひと、称光天皇、1401-28)への譲位が行われ、後亀山天皇の御子孫が皇位につくことはなかった。
(図書寮文庫)
本資料は、嘉永元年(1848)11月に行われた、孝明天皇(1831-66)の大嘗祭(大祀とも称する)の豊明節会で用いられた笏紙である。豊明節会とは、五節舞姫(ごせちのまいひめ)による舞などが披露される饗宴儀礼であり、大嘗祭の場合は通例4日目の午の日に行われた。
笏紙とは、儀式本番での失敗を防ぐため公家たちが用いた、一種の手控えである。掲出画像左側にあるものを見ると、笏の形に合わせて縦30㎝弱に切られた紙に、儀式の次第が書き連ねられているのが分かる。これを笏の裏側に貼ることで、参列者は儀式当日に笏を構えた際、儀式の流れを暗に確認できた。
本資料は鷹司家に伝来したもので、豊明節会の内弁(ないべん、儀式の進行を統括する役職)を務めた鷹司輔煕(たかつかさすけひろ、1807-78)によって作成された。輔煕は念のため、天皇が出御した場合の笏紙(掲出画像の右)と、不出御となった場合の笏紙(同左)の2枚を作ったが、当日天皇は節会に出御したため、前者が用いられた。右の笏紙は次第を記した表面ではなく、裏面を掲出しているが、その上下端はわずかに変色している。これは当日、笏に貼り付けた際の糊跡である。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地は奈良市に所在する前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、墳長は約270mである。当参考地では、令和2年に整備工事に先立つ事前調査が行われ、墳丘第1段平坦面における円筒埴輪列などが確認された(令和4年3月刊行『書陵部紀要』第73号〔陵墓篇〕に掲載)。また、この調査の際には、墳丘の裾部分において多くの埴輪片が採集された(令和6年3月刊行『書陵部紀要』第75号〔陵墓篇〕に掲載)。
本資料は、上記の調査が実施される以前に採集されたもので(詳細は不明)、鰭付円筒埴輪の口縁部~胴部にかけての破片である。鰭付円筒埴輪とは円筒埴輪の側面2方向に板状の突出部(鰭)を取りつけたもので、古墳時代前期によくみられる円筒埴輪の一種である。本資料でみられる間隔の狭い口縁部や、三角形の透孔(すかしこう)も同様に古墳時代前期の埴輪にみられる特徴といえる。
しかし、当参考地の埴輪にみられるその他の製作技法(焼成方法や外面の調整方法)は古墳時代中期中頃の特徴を示すものであり、上記の外形的な特徴が盛行した年代とは齟齬をきたす。この点については、古墳時代前期における埴輪の外形的な特徴が復古的に採用されたと考えられている。
なお、本資料は外面に赤色顔料が塗布されており、欠損部分と比較すると本資料の完成時はかなり赤い色であったことが推測される。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)は直径約30mの円墳で、宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の飛地として昭和20年の終戦直前まで宮内省によって管理されていたが、進駐軍のキャンプ地に取り込まれたため、結果的に削平されて墳丘は現存していない。
築造されたと推定される位置から判断して宇和奈辺陵墓参考地の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる。大和6号墳は鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄の延べ板が昭和20年に削平された際に大量に出土したことで著名であり、しばしば教科書にも紹介されることがある。
本資料は、この大和6号墳から出土したと推測される鰭付円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪の一種の破片で、胴部から底部にかけて残存している。主墳(しゅふん)である宇和奈辺陵墓参考地とは古墳の形や規模が大きく異なるものの、使用されている円筒埴輪の形状や大きさが宇和奈辺陵墓参考地と同じ様相であり、大和6号墳の規模からすると大型なものが使用されている点が特徴的といえる。これは同時期における同規模の円墳では想定しがたい円筒埴輪の様相であり、主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)という関係を踏まえて埴輪の生産と供給を考える必要性をうかがわせる。
(陵墓課)
宇和奈辺陵墓参考地旧陪冢ろ号(大和6号墳:以下、このように呼称する)と同様に宇和奈辺陵墓参考地(奈良市所在の前方後円墳:墳長約270m)の陪冢(ばいちょう:付属的な墳墓)と考えられる直径約10mの円墳である。大和3号墳は大和6号墳(円墳:直径約30m)と同様に宇和奈辺陵墓参考地の陪冢とされるが、その墳丘の規模はかなり小さい。
大和3号墳の埴輪には、宇和奈辺陵墓参考地や大和6号墳と同様のものも含まれる一方で、本資料のような小型品も含まれる点が特徴といえる。本資料は奈良市周辺においてこうした小型品の出現期となるものであり、小型品が成立する過程を考えるうえで重要な資料といえる。
なお、朝顔形埴輪とは器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり、その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。朝顔形埴輪の壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となっている。朝顔形埴輪は円筒埴輪とともに古墳の墳丘平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成していた。本資料では壺部分の大半が失われている。
(陵墓課)
本資料は、海獣葡萄鏡と呼ばれる青銅製の鏡で、直径は13.6cm である。
海獣葡萄鏡は、中国の隋~唐代(7~8世紀)にかけて盛んに作られたもので、日本列島には飛鳥時代の末から奈良時代にかけて輸入された。有名なものとして、正倉院宝物や、奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(たかまつづかこふん)から出土したものなどがある。ただし、本資料は文様がやや不鮮明になっており、原鏡から型を取って新しい鋳型(いがた)を作る、「踏み返し(ふみかえし)」という手法によって作られたものとみられている。
海獣葡萄鏡という名称は、中国・清代の乾隆帝(けんりゅうてい)(在位:1736~1795)の時代につけられたものとされる。「海獣」というと、クジラやアザラシなど、海に生息する哺乳(ほにゅう)類を連想するが、ここでいう「海獣」はそうではなく、中国からみて「海の向こうの獣」という意味に解されている。
海獣葡萄鏡の文様は多様であるが、本資料では、中央の紐をとおす鈕(ちゅう)とその周囲の内区(ないく)にあわせて6頭の狻猊(さんげい)(=中国の伝説上の生き物でしばしば獅子(しし)と同一視される)、外区(がいく)に8羽の鳥、それぞれの隙間に葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)、鏡の縁に花文が表現されている。
当部では、本資料と同時に出土したものとして、法相華文八花鏡(ほうそうげもんはっかきょう)1面、伯牙弾琴鏡(はくがだんきんきょう)1面、素文鏡(そもんきょう)2面を所蔵しているが、出土地の周辺地域に2面の海獣葡萄鏡が受け継がれており、それらも同時に出土した可能性がある。
(図書寮文庫)
江戸時代後期の光格天皇(1771-1840)の葬送儀礼における、廷臣(ていしん)たちの装束を図示したものである。作者は平田職修(ひらたもとおさ、1817-68)という朝廷の官人で、この儀礼を実際に経験した人物である。
見開きの右側に描かれているのは、「素服(そふく)」と呼ばれる喪服の一種。白色の上衣(じょうい)であり、上着の上に重ね着する。見開きの左側が実際に着用した姿である。描かれている人物は、オレンジ色の袍(ほう)を全身にまとっている。そしてその上半身を見ると、白色に塗られた部分があり、これが素服である。ここに掲出した素服には袖がないが、袖の付いたものもあり、それらは着用者の地位や場面に応じて使い分けられた。
掲出したような、臣下が上着の上に着用するタイプの素服は、平安時代にはすでに存在したと考えられている。しかし、その色や形状は時代によって変化しており、ここで紹介したものは白色であるが、黒系統の色が用いられた時期もある。
(図書寮文庫)
明治天皇の侍従長徳大寺実則(とくだいじさねつね、1839-1919)の日記。
掲出箇所は、明治 22 年(1889)7 月 11 日から同 24 年 7 月 29 日までの出 来事を収めた第 25 冊の中の 24 年 5 月 11 日と 12 日の部分。従兄弟のギリシア皇子ゲオルギオス(1869-1957)を伴って来日中のロシア皇太子ニコライ(1868-1918)が、警護中の滋賀県巡査津田三蔵(つださんぞう、1854-91)によって切り付けられて重傷を負った、いわゆる大津事件とその後の状況について記載している。
内閣総理大臣や宮内大臣等から情報をお聞きになった天皇は、事件の発生を大いに憂慮された。天皇は「国難焼眉ノ急」(国難が差し迫っている)との言上を受けて、事件発生の翌日(12 日)午前 6 時宮城を御出発、急遽京都に行幸し、13 日滞在中のロシア皇太子を見舞われた。さらにロシア側の要請を容れられ、軍艦での療養を希望する同皇太子を神戸までお送りになった。
本書は、こうした天皇の御動静や、津田三蔵に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑宣告が申し渡されたことなど、事件をめぐる出来事を約 18 日間にわたって緊張感溢れる筆致にて伝える、貴重な資料である。
(陵墓課)
本資料は、奈良県桜井市に所在する孝霊天皇 皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した二重口縁壺形埴輪で、高さは約45cmである。
本資料の胴部(どうぶ)はほぼ球形で、上方にのびる頸部(けいぶ)がつき、頸部上端でいちど水平方向に開いたのち、そこからさらに斜め上方に大きく広がる口縁部がついている。「二重口縁」とは、本資料のように口縁部に段があって二回にわたって開くものを指す用語である。
写真では見えないが、本資料の底には穴があいている。この穴は胴部をつくったあとで焼成前にくり抜かれている。したがって、本資料は壺の形をしているものの、中に何かをためておくという壺本来の機能を果たすことを期待されていなかったことになる。「壺形土器(壺の形をした土器=土でつくられた壺)」ではなく、「壺形埴輪(壺の形をした埴輪)」と呼ばれるのは、それが理由である。
本資料は昭和40年代に大市墓の前方部先端の墳頂付近で出土したものである。大市墓では平成10年に台風被害で多くの倒木が発生したことがあるが、その根起きした箇所からもよく似た形のものが出土している。大市墓の前方部墳頂の平坦面には、多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(陵墓課)
鍬形石は古墳時代の石製品(せきせいひん)である。その名のとおり、写真下段の板のように見える部分が農具である鍬の先を思わせることから江戸時代にこの名がつき、現在の考古学でもそれを踏襲してこの名称が使われている。実際に農具の鍬として使用したものではない。
鍬形石は、弥生時代の九州地方で使用された貝製の腕輪である貝輪(かいわ)を起源とすることがわかっている。貝輪は古墳時代にも使われるが、主に北陸地方で産出する碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)と呼ばれるきれいな緑色の石材で製作されることが多く、単に装身具としての腕輪だけでなく宝器としての意味ももつようになる。
写真の鍬形石は上下で分かれているが、本来はそれぞれ別の個体である。上下の位置関係は正しいが全面に施されている装飾が異なるため、それぞれ違う鍬形石の破片であることがわかる。この刻みのような装飾は、初期の鍬形石にはないものであり、より貝輪に近かった当初の特徴が失われていることがわかる。そのため、本資料は鍬形石が作られた期間の中でも、もっとも後の時期に作られたと考えられている。二つの破片は細かい装飾で異なるが、全体の特徴はよく似ていることから、作り手が同じか、違う場合でもデザインを共有する近しい関係にあったことが推測される。
なお、ここで紹介した鍬形石の破片はどちらも奈良県北葛城郡広陵町に所在する巣山古墳からの出土が伝えられている資料である。
(陵墓課)
兵庫県神戸市西区に所在する玉津陵墓参考地出土として管理している金環(きんかん)である。金環とは耳環(じかん)と称されることもある古墳時代の耳飾りのことである。
書陵部では、本資料のように金色に輝く耳環の名称を、その色調から「金環」としているが、金環と呼ばれているものの中には、銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの、銀の含有量が多い金からできているものなど、材質にはさまざまなものがあり、金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。
本資料は、純金特有の黄色みが濃く、欠損部分では金の下に銅特有の緑色の錆がみられることから、銅芯を純度の高い金で覆った銅芯金張製品の可能性がある。
この金環は、直径27mmほどの大きさで、断面の厚さは4から5mmである。平面形はほぼ正円形であり、その断面形も正円形である。金環は本来両耳に着けて揃いで使用されるため、元々は2点1組であったうちの、片方のみが伝わっている。
(図書寮文庫)
明治4年(1871)2月、明治政府は、后妃・皇子女等の陵墓の調査を、各府藩県に対して命じた。掲出箇所は、それを受けた京都府が、管下の寺院である廬山寺(ろざんじ)に提出させた調書の控えとみられ、境内に所在する皇族陵墓の寸法や配置等が記されている。
当時、政府が所在を把握していた陵墓は、ほとんどが歴代天皇の陵のみであり、皇后をはじめとする皇族方の陵墓の治定(ちてい、じじょう:陵墓を確定すること)が課題となっていた。当資料のような調書等を参考に、以後、近代を通して未治定陵墓の治定作業が進められることとなる。
ところで、本資料は、明治4年に作成されたであろう調書の控えそのものではなく、大正12年(1923)11月に、諸陵寮(しょりょうりょう)の職員が、廬山寺所蔵の当該資料を書き写したものである。諸陵寮は、陵墓の調査・管理を担当した官署で、陵墓に関する資料を多数収集・保管していたが、大正12年9月に発生した関東大震災によって庁舎が被災し、保管資料の多くを失った。本資料は、震災後の資料復旧事業の一環として、書写されたとみられる。近代における陵墓に関する行政のさまざまな局面を想起させる、興味深い資料といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した埴輪で、現在は頭部のみ残存しているが、本来は四足・胴体もあわせて作られていたと考えられる。現状での残存高は約28.5㎝である。
記録によれば、本資料は明治33年、当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、今回一緒に紹介する馬形埴輪鞍部(くらぶ)や人物埴輪脚部とともに出土したようである。その出土位置を考えると、現状の第二堤上に作られた墳丘である茶山(ちゃやま)もしくは大安寺山(だいあんじやま)にともなうものであった可能性もある。
本資料は犬形埴輪として登録・管理されているものの、首をひねって振り返っているようにみえることから、近年は、そのような様子が表現されることの多い鹿形埴輪とする意見もある。その場合は角がないことから雌鹿ということになろう。
本資料が犬をあらわしたものであったとしても、鹿をあらわしたものであったとしても、四足動物が埴輪でみられるようになる初期の資料として重要といえる。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した馬形埴輪の鞍部(くらぶ)である。記録によれば、今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や人物埴輪脚部とともに、明治33年に当陵の後円部背後の三重濠(さんじゅうぼり)を掘削(くっさく)していた際、当時の濠底(ほりぞこ)から約1.5mの深さで出土したようである。
本来は頭部や脚部も含め、1頭の馬として作られていたと考えられるが、現状では鞍と尻繫(しりがい)の部分が残存しているのみである。現存長は約75.0cmである。鞍の下面には馬体を保護するための下鞍(したぐら)、鞍の上面には人が座りやすくするための鞍敷(くらしき)、そして鞍の横面には鐙(あぶみ、騎乗時に足を乗せる道具)を吊るす革紐と障泥(あおり)が表現されている。尻繫には辻金具(つじかなぐ、革紐を固定するための道具)を介して杏葉(ぎょうよう、飾り板)が吊り下げられている。本資料からは、このように華麗な馬具によって飾られた当時の馬の姿がうかがえる。
本資料は日本列島における初期の馬装を知りうる数少ない事例であるとともに、馬形埴輪としても初期段階のものであり、埴輪祭祀を知る上で重要な資料である。
(陵墓課)
大阪府堺市に所在する仁徳天皇百舌鳥耳原中陵から出土した人物埴輪の脚部である。記録によれば、明治33年に今回一緒に紹介する犬形埴輪(鹿形埴輪)頭部や馬形埴輪鞍部とともに出土したようである。
本資料は、一方が太くもう一方が細く作られている筒状の本体の中程に、細い粘土の帯(突帯「とったい」)を「T」字状に貼り付けている。現存高は縦方向で約32.0cmである。
これを人物埴輪の脚部と判定できるのは、ほかの出土例との比較による。
人物埴輪は、髪型、服装、持ち物、ポーズなどで、性別・地位・職などの違いを作り分けている。そのうち、脚をともなう立ち姿の男性を表現した埴輪では、脚の中程に横方向の突帯をめぐらせた例が多くあり、本資料はそうした例に類似しているからである。
この脚の中位にみられる突帯は、「足結」もしくは「脚結」(いずれも「あゆい」)と呼ばれ、膝下に結ぶ紐の表現と考えられる。本資料で「T」字状をなしているのは、結び目から垂れ下がる紐を表現しているからであろう。「足結」・「脚結」は、本来は袴(はかま)をはいている人物が、動きやすいように袴を結びとめるものであるが、埴輪では、袴をはいている人だけでなく、全身に甲冑(よろいかぶと/かっちゅう)をまとった武人や、裸にふんどしを締めた力士などでも同じような場所に突帯がみられる。このため、本資料の残り具合では、どのような全体像の埴輪であったのかまでは判断できない。「足結」・「脚結」やそれによく似た表現が男性の埴輪に多くみられる一方、女性の埴輪は、裳(「も」:現在でいうところのスカート)をはいていて脚が造形されていないものがほとんどであることから、本資料が男性の埴輪であることは断定してよいと思われる。
本資料は破片ではあるものの、人物埴輪の初期の資料として重要といえる。
(図書寮文庫)
鬼気祭(ききさい)とは、疫病をもたらす鬼神を鎮めるために行う陰陽道の祭祀であり、平安時代以降、疫病が流行したときに行われた。鬼気祭の中でも、主に内裏の四隅で行うものを「四角鬼気祭」、主に平安京周辺の国境四地点に使者を派遣して行うものを「四堺鬼気祭」などという。本資料は、壬生家に伝来した四角鬼気祭・四堺鬼気祭に関するいくつかの文書原本を、一巻にまとめたものである。文書の作成年代は平安時代末期から南北朝時代にわたる。
掲出の画像は、文治・建久年間(1185-98)頃に行われたと推定される、四堺鬼気祭を行う使者たちとその派遣先を列記した文書である。使者は武官である使と、陰陽道を学んだ人物からなる祝(はふり)・奉礼(ほうれい)・祭郎(さいろう)の一団によって構成される。派遣先は、平安京の四方に位置する四つの関、会坂(おうさか、近江国との境)・大枝(おおえ、丹波国との境)・龍花(りゅうげ、北方へ抜ける近江国との境)・山崎(やまざき、摂津国との境)である。これらの国境で祭祀を行うことにより、平安京周辺から疫鬼(えきき)を追い出し、疫病から守ろうとしたのである。
『図書寮叢刊 壬生家文書九』(昭和62年2月刊)に全文活字化されている。
(陵墓課)
この勾玉を作った人や使った人はどのような祈りや願いを込めていたのだろうか。
「勾玉」は古墳時代の人々が最も好んだ玉であるといえる。多くは管玉などほかの玉と組み合わされて首飾りなどのアクセサリーに用いられていた。勾玉の独特なかたちは日本列島内で独自に発展したものであるが,そのルーツについてはよくわかっておらず,動物の牙(きば)という説,胎児(たいじ)を模したものであるという説などがある。
今回紹介する「大勾玉」は,全長9.7㎝,重さ200g超と,類例のない大きさである。サイズ,ボリュームともアクセサリーとして身につけるにはあきらかに不向きといえよう。紐をとおすための孔の周囲は,曲線や直線,直線を組み合わせた三角形などが刻まれて飾られているが,これも通常の勾玉には見られないものである。
「玉」という名称は,「魂(たま)」や「霊(たま)」と語源が同じといわれ,マジカルな力やミステリアスな力を宿す呪術具としての意味を持つとも考えられている。以前に本コーナーで紹介した「子持勾玉」は,そうした呪術的な側面がかたちに表れているものであるが,本品も,かたちこそ通常の勾玉と同じであるが,その大きさや装飾は,身体を飾るアクセサリーとしてではない,呪術具としての側面を現しているものであると考えられる。
これだけ大きな勾玉は古墳時代の出土品としてはほかに例がない。本品は,古墳時代に生きた人々の精神的な活動を知るための手がかりとなる,重要な遺物といえよう。
(陵墓課)
我が国に仏教が伝わったのは古墳時代後期である6世紀中頃のことであるが,実は,それをはるかに遡る古墳時代前期の4世紀前半には仏の姿が伝わっていた。
本資料は,奈良県広陵町に所在する大塚陵墓参考地から出土した,「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。直径21.2㎝。
三角縁神獣鏡とは,鏡の縁(ふち)の断面が三角形で,文様に古代中国で神聖視されていた神仙(しんせん)や聖獣(せいじゅう)の図像を用いる鏡の総称である。神仙や聖獣,その他の図像に,それぞれ,数,組み合わせ,表現などの違いがあり,その文様の構成はバリエーションに富んでいる。本資料は,神仙に相当する人物形像と聖獣像を交互に3体ずつ配置しており,「三神三獣鏡」の一種に分類される。
人物形像に着目すると,体の前で脚を組んで座り,その脚の上で両手を組み合わせている。また,画像右上の人物形像の頭部周囲には,後光(ごこう)を示す輪がある。このような,脚・手・後光の表現はほかの三角縁神獣鏡の神仙像にはみられないもので,その特徴から,これらが仏(ほとけ)を表現しているものであることがわかる。
三角縁神獣鏡の中には,ごく少数ではあるが,本資料のような三角縁仏獣鏡が存在している。三角縁神獣鏡の製作地については決着をみていないが,仏を表現する鏡の存在は,その製作者が,仏を知り,その姿を理解して神仙とは作り分けていたことを示している。
本資料は,三角縁神獣鏡の製作地を考える上で示唆を与えてくれるだけではなく,我が国における仏教に関係する遺物としては最古となる,非常に重要な資料である。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府茨木市に所在する継体天皇三嶋藍野陵から出土した朝顔形埴輪である。口縁部(こうえんぶ)の直径約65cm。
朝顔形埴輪とは,器(うつわ)をのせるための台である「器台(きだい)」のうえに壺(つぼ)をのせた状態を模した埴輪であり,その様子が朝顔の花に似ることから名づけられた。壺部分より下は円筒埴輪とほぼ同様の形態となるが,本資料ではその円筒部分の大半が失われている。
朝顔形埴輪は,円筒埴輪とともに墳丘の平坦面上に列をなしてならべられた埴輪列を構成するものであり,埴輪が出現して間もないころからその終焉(しゅうえん)まで作り続けられた一般的な種類の埴輪といえる。壺はもともと飲食物の容器であり,それを器台にのせた状態を模した朝顔形埴輪は,円筒埴輪と同様に飲食物をささげる行為の象徴であったと考えられる。
なお,本資料では壺部分の肩部外面にイチョウの葉に似た線刻を観察することができる。タイトルのリンク先に線刻の画像を掲載しているので御覧いただきたい。