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本資料は,青山練兵場(現在の明治神宮外苑)内に生えていたヒトツバタゴ(俗称ナンヂャモンヂャ)の写真で,明治41年(1908)4月,東京帝国大学農科大学教授であった白井光太郎氏より明治天皇へ奉呈されたものである。江戸時代以来,同地に生えていたヒトツバタゴは,長くその名称がわからず,「ナンヂャモンヂャ」と呼ばれていた。
ヒトツバタゴの自生する一帯は,明治19年(1886)に青山練兵場とされるが,同木は保存され,さらに大正13年(1924)に天然記念物にも指定されている。しかし,昭和8年(1933)に老木ということもあり枯れてしまう。現在,聖徳記念絵画館の前に残されている木は,白井氏が接ぎ木した2代目であるという。また,写真の背景には,近衛兵や軍馬,建物なども写り込み,当時の青山練兵場の様子をよく伝えている。
明治天皇には,全国からこうした写真や報告書など多くの文書が奉呈されており,それらは「明治天皇御手許書類」として,宮内公文書館に所蔵されている。当館では,これら資料のデジタル化を進め,書陵部所蔵資料目録・画像公開システムにて,順次公開している。併せて御参照いただきたい。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内省内に諸陵寮(しょりょうりょう)再興を求めた意見書の写しである。明治16年(1883)1月,宮内省御陵墓掛足立正声(あだち まさな)が宮内卿徳大寺実則(とくだいじ さねつね)へ提出したもので,古代の律令制において存在した諸陵寮を復活させようというものであった。
本資料自体は写本で,足立男爵家蔵本から写されたものである。大正12年(1923)の関東大震災により,陵墓関係の公文書のほとんどが失われたため,震災後に作成された貴重な資料である。
元治元年(1864),陵墓管理のため古代の律令制度にならい諸陵寮が再興されたが,維新後は神祇官(じんぎかん),教部省(きょうぶしょう),内務省などの所管官庁を変遷し,明治11年(1878)になって宮内省が陵墓事務を担当した。その後,宮内省内の御陵墓掛に就いた足立は,本資料の意見書を提出し,古代の諸陵寮の名称を再興しようとし,明治19年(1886)2月,宮内省に諸陵寮が設置された。以後,終戦直後まで陵墓の管理・考証・治定に関する事務は,概ね諸陵寮が担った。戦後,諸陵寮は廃止されたが,その事務はいくつかの変遷を経て,宮内庁書陵部陵墓課に引き継がれ,現在に至る。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
本資料は,大正3年(1914)11月30日に定められた皇室令第22号正本である。大正天皇の御名と御璽が見える。この皇室令の公布により,宮内省に臨時編修局が設けられた。皇室令とは旧皇室典範を頂点とする法体系で,皇室に関する諸規則や宮内省官制等に関して勅定を経た上で公布された。
宮内省臨時編修局は設置当初,霊南坂宮内大臣官舎(現・東京都港区)に事務室を構え,「明治天皇紀」の編修が始まった。「明治天皇紀」とは,明治天皇の御事蹟を編年叙述体で記した御一代記である。その後,大正5年(1916)11月に臨時帝室編修局に改称され,大正8年(1919)には庁舎が永田町の元学習院女学部幼稚舎跡(現・東京都千代田区)に移転した。官制改正や人員の拡充などを通じて,徐々に編修方針や事業計画が整えられていった。
本文が完成したのは昭和8年(1933)9月30日のことで,「明治天皇紀」260巻,及び附図一帙が昭和天皇へ奉呈された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(図書寮文庫)
ともに日本画家である久保田米亝(べいさん,1874-1937)と西澤笛畝(てきほ,1889-1965)の共編によるもので,各地に伝わる雛人形を集め,模写したもの。西澤は人形玩具の蒐集研究家としても知られている。巻頭には児童文学者巌谷小波(いわやさざなみ,1870-1933)の序文が添えられている。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇(第123代,1879-1926)宸筆の「徳感人風動物」六字大幅である。堂々たる筆致で,「徳は人を感ぜしめ,風は物を動かしむ」と読む。風が物を吹き動かすように,君子の徳が人民の心を動かすとの意である。皇位を嗣がれて間もない天皇の,君主としての御決意を示しているように思われる。天皇は漢詩文を好まれ,川田甕江(おうこう)や三島中洲(ちゅうしゅう)に学んでおり,造詣の深さが本幅にも表れている。久邇家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,大正天皇の皇后であった節子皇后(貞明皇后,1884-1951)が東伏見宮に下賜した色紙である。詞書に「沼津で得た竹の子を贈ったところ,その様が面白いので写生してこちらに贈ってくれた嬉しさに」とあり,東伏見宮妃の周子(かねこ)が竹の子の御礼に写生した絵を贈ったことに対する,皇后からの返礼の御歌と考えられる。御歌は竹の子になぞらえて東伏見宮を寿ぐ内容となっており,また料紙の継色紙は銀泥で鳥や草花が繊細に描かれ,流麗な文字をより華麗なものとしている。東伏見宮旧蔵。
(宮内公文書館)
大正期の宮内省下総牧場(現成田・富里市域)の写真。明治天皇行幸を記念して敷地内に植えられた御幸桜。三里塚は桜の名所として知られていた。御料牧場は,明治8年(1875)に開設した内務省の下総牧羊場・取香種畜場(とっこうしゅちくじょう)に淵源を持つ。明治18年に下総種畜場が宮内省の所管となって以降,名称を下総牧場,下総御料牧場等と変遷しながら,昭和44年(1969)に閉場した。
(宮内公文書館)
大正6年(1917)に大正天皇が習志野原の陸軍騎兵学校に行幸した際に玉座が設けられた御馬見所(ごばけんしょ)の図面。御馬見所は東京・目黒の陸軍騎兵実施学校の習志野への移転に伴い移されたもので,明治天皇の行幸のあったゆかりの建造物。現在では陸上自衛隊習志野駐屯地内(船橋市)に「空挺館」と名を改め,隊員の教育,伝統の継承などのため,空挺(落下傘部隊)に関わる貴重な資料などを展示している資料館となっている。