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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)は水戸藩の出身で、明治期に長く侍従を務め、御猟場掛長、主猟局長、主殿(とのも)頭などを歴任した。史料は山口正定の日記で、大正9年(1920)に臨時帝室編修局が写したものである。宮内公文書館には、明治9年(1876)から亡くなる明治35年までの日記が断続的に残されている。
史料は、明治17年4月21日から25日に至る記事である。この時、山口は御猟場掛長として、江戸川筋御猟場の区域内を巡回している。記事を見ると、21日には巡回中に藤塚村(現在の春日部市)の高橋豊吉宅で鯉魚の饗宴があり、夜は幸手宿(現在の幸手市)の田口清平宅に宿泊している。22日には行幸堤(みゆきづつみ、現在の幸手市)を訪れ、土手に咲く満開の菜花を見て詩を詠んでいる。22日から24日までは西宝珠花村(にしほうしゅばな、現在の春日部市)の中島市平宅に宿泊しており、依頼を受けて揮毫をしたり、雉子(きじ)猟をしたりするなど、地域の人びとと交流している。山口にとって、御猟場の巡回は、区域内を見回るだけでなく、御猟場の運営に携わる地域の人びととの交流も目的にあったことがうかがえる。
(宮内公文書館)
御猟場は多くの場合、官有地ではなく民有地(民間の土地)に設定された。そのため宮内省では、各御猟場に監守長を置き、その下に監守を置いて御猟場の管理・運営にあたらせていた。監守の業務は、猟具の管理や担当する区域内の見回りなど多岐にわたるが、御猟場の境界に設置された標木の管理もその一つである。江戸川筋御猟場も多くの御猟場と同様に、ほとんどが民有地に設定されていた。そのため、御猟場の境界がわかりにくく、御猟場設置の当初から標木が設置されており、御猟場の縮小や拡大があるたびに、監守は標木の差し替えを行っていた。
史料はこうした標木のうち、明治32年(1899)に定められた江戸川筋御猟場に設置する標木の英文表記である。ここでは、“IMPERIAL PRESERVES”すなわち皇室の御猟場(直訳すると皇室の保護区)において鳥や動物を撃ったり、罠にかけたりすることを固く禁じている。こうした英文の標木が設置されたことは、明治32年当時において江戸川筋御猟場の利用者に日本人のみならず、一定程度の外国人もいたことを示している。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
明治23年(1890)8月、北関東は暴風雨により洪水の被害に見舞われた。このときの水害では、利根川、荒川流域の堤防が決壊し、埼玉県にも被害をもたらした。
史料は、その際の被害状況を明治天皇に報告するために作成された書類のうち、南埼玉郡の浸水地域を示した図面である。南埼玉郡は、明治12年の郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)施行により成立した。史料右側が北の方角で、範囲は南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区、蓮田市、白岡市、久喜市、宮代町、春日部市、越谷市、草加市、八潮市)に相当する。史料の左側(南部)は垳川(がけがわ)を挟んで東京府南足立郡(現在の東京都足立区)と接している。史料中の緑色に着色された部分が浸水地で、南埼玉郡では5か町39か村が浸水したことが見て取れる。被害の大きな地域では、水が軒まで及ぶところもあったというほどである。
以上のような被害報告を受けて、救恤金(きゅうじゅつきん)として明治天皇から金700円、昭憲皇太后から金300円が埼玉県に下賜された。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
皇城・吹上御苑の図面。図面中央下のだ円形の箇所が,406間(約738メートル)の馬場である。明治6年(1873)の皇城炎上により,明治天皇が赤坂仮皇居にお住まいを移されてからも,吹上御苑にはしばしば行幸になった。
吹上御苑で催された天覧競馬は,初回の明治8年以降,明治宮殿が竣工する直前の明治17年まで続いた。競馬実施にあたっては,明治9年に皇室建築を担当する宮内省内匠課(たくみか)が吹上御苑内の広芝に廻馬場を整備した。馬場のコース両側には丸太柵を設けて,拡張したものであった。明治14年には,吹上御苑内での競馬を御覧になるための「御馬見所」が新設された。吹上御苑競馬は乗馬奨励を目的として,主に軍人や宮内官,華族らが参加し,勝者には賞品として織物が下賜された。
以後,明治天皇は皇居近郊の戸山競馬や上野不忍池競馬,三田育種場競馬などに行幸になった他,東京府外にも足を伸ばし,横浜根岸の天覧競馬では,明治32年を最後とするまで13回を数えた。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(図書寮文庫)
本書は,室町幕府政所の文書の手控えを江戸時代に写したもので,南北朝時代から戦国時代までの,洛中での徴税や九州の所領問題などさまざまな文書の写しが収められている。そのなかに,永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に関して,政所執事伊勢貞国(いせさだくに,?-1454)が関東の諸大名たちに送ったと思われる書状の草案も11通あり,いずれも他には伝わらない貴重な内容を含んでいる。
結城合戦とは,永享の乱(1438-39)で鎌倉公方足利持氏が室町幕府と対立して滅んだのち,下総の結城氏朝らがその遺児を擁して起こした反乱である。幕府は上杉氏や千葉氏など関東の諸将に対応を命じつつ,京都から軍勢も派遣して嘉吉元年(1441)4月に鎮圧した。掲出した画像は,永享12年3月末,謀反が発覚する直前の結城に伊勢が送った書状案の写し(日付などは次頁)で,当初幕府よりの態度を示した結城が褒美を与えられていたことなどが記されている。ただし,このときすでに結城は挙兵しており,幕府の予想をこえて関東の情勢が刻々と変化していたようすがうかがえる。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)に竣工した東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の記録写真。明治期の写真家である小川一真が撮影した。
明治5年(1872)に設置された赤坂離宮は,明治31年(1898)8月,老朽化のため取り壊された。敷地内には,東宮御所として利用するための新たな建物の建設が進められた。東宮御所御造営局の技監に任じられた片山東熊(明治37年(1904)からは内匠(たくみ)頭)が工事の全体統括を務めた。完成した建物は,石造りで3階建のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築であり,震災予防のため壁中に縦横に鉄骨が入っている。床には鉄板を用いるなど耐火構造にもなっている。一見して,洋風の建築であるが,屋根の意匠(いしょう)には,甲冑(かっちゅう)の武者像が用いられているなど,所々に「和風」のデザインが用いられている。
また,建物の竣工後も庭園や外構の造成は宮内省内匠寮(たくみりょう)や内苑寮(ないえんりょう)が中心となって引き続き進められ,明治42年(1909)に完成した。庭園には,紀州藩徳川邸あるいは赤坂仮皇居時代からの茶屋や建物も多く残されていた。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。