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明治39年(1906)に竣工した東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)の記録写真。明治期の写真家である小川一真が撮影した。
明治5年(1872)に設置された赤坂離宮は,明治31年(1898)8月,老朽化のため取り壊された。敷地内には,東宮御所として利用するための新たな建物の建設が進められた。東宮御所御造営局の技監に任じられた片山東熊(明治37年(1904)からは内匠(たくみ)頭)が工事の全体統括を務めた。完成した建物は,石造りで3階建のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築であり,震災予防のため壁中に縦横に鉄骨が入っている。床には鉄板を用いるなど耐火構造にもなっている。一見して,洋風の建築であるが,屋根の意匠(いしょう)には,甲冑(かっちゅう)の武者像が用いられているなど,所々に「和風」のデザインが用いられている。
また,建物の竣工後も庭園や外構の造成は宮内省内匠寮(たくみりょう)や内苑寮(ないえんりょう)が中心となって引き続き進められ,明治42年(1909)に完成した。庭園には,紀州藩徳川邸あるいは赤坂仮皇居時代からの茶屋や建物も多く残されていた。
(宮内公文書館)
現在の港区六本木1丁目(旧・麻布区市兵衛町(あざぶくいちべえちょう))にあった麻布御殿の写真帳。もとは,江戸幕府14代将軍徳川家茂へ嫁いだ静寛院宮(和宮,親子内親王)の邸宅として,明治7年(1874)に旧八戸藩南部家の邸宅を宮内省が購入したものである(麻布第二御料地)。静寛院宮が薨去した後は,梨本宮家の邸宅として利用された。
また宮内省は,明治24年(1891)に隣接する旧長府藩毛利家の邸宅を購入し,明治天皇の皇女である允子(のぶこ)内親王(富実宮),聡子(としこ)内親王(泰宮)の御養育所として利用した(麻布御料地)。明治40年(1907)には,麻布御料地と麻布第二御料地を併せて,麻布御殿を称する旨が達せられている。大正・昭和期には,東久邇宮邸として利用された。
写真は,麻布御殿の御車寄を撮影したものである。これは,明治24年(1891)に購入した毛利家の建物を利用している。麻布御殿は,戦後に取り壊され現在その痕跡はほとんど残されていない。
(宮内公文書館)
皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)が撮影した芝離宮庭園の記録写真。写真には庭園内の州浜(すはま)と灯籠(とうろう)が写る。江戸時代初期の典型的な回遊式泉水庭園の特徴がよく表れている。
現在,東京都が管理する都立庭園である旧芝離宮恩賜庭園は,かつて宮内省が管理する離宮であった。前身となる庭園は江戸後期に堀田家,清水徳川家,紀州徳川家へと渡り,維新後は有栖川宮の所有となった。明治8年(1875)には同地を宮内省で買い上げ,翌9年(1876)に芝離宮となった。園内には外国人貴賓の宿泊所として西洋館が建てられ,外賓接待の場として用いられた。大正12年(1923)の関東大震災の際には建物などに甚大な被害を受けた。翌13年(1924)1月には,皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御成婚記念として東京市に下賜され,同年4月に一般公開された。
(宮内公文書館)
高輪の東宮御所内にあった東宮御学問所写真。皇室建築を担当する宮内省内匠寮(たくみりょう)で撮影された。東宮御学問所の建物外観を撮影したもので,洋館建物の外には遊具があったことが分かる。その他,運動場・教室・体育館などがあり,学校そのものであった。
御学問所の洋館は元々,明治35年(1902)12月,高輪にお住まいになった明治天皇の皇女のために高輪御殿内に新設された。その後高輪御殿は,大正3年(1914)2月24日に東宮御所と改められ,皇太子裕仁親王(昭和天皇)がお住まいになった。東宮御所内には,同年5月に東宮御学問所が設置されると,大正10年(1921)2月まで約7年間にわたり皇太子裕仁親王(昭和天皇)がご修学になった。主に始業式や終業式などに使われた。大正12年(1923)の関東大震災では御殿や旧御学問所を焼失するなど甚大な被害を受けたため,翌年1月に赤坂離宮を東宮仮御所と定められ,東宮御所の名称は廃止された。
(宮内公文書館)
昭和8年(1933),朝香宮邸は白金御料地(現・国立科学博物館附属自然教育園)の南西部分に建設された。朝香宮鳩彦(やすひこ)王(久邇宮朝彦親王第8王子)・同妃允子(のぶこ)内親王(明治天皇第8皇女)のパリでの生活経験,フランス滞在中のアール・デコ博覧会での印象などが設計に反映されたと言われている。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)が,室内装飾はフランスの画家・装飾美術家であるアンリ・ラパンが担当した。戦後は吉田茂外務大臣(のちに内閣総理大臣)の公邸,迎賓館として使用され,現在は東京都庭園美術館となっている。写真は「朝香宮邸(写真帳)」というアルバムに収められた1枚で,ほかにも応接間や鳩彦王同妃の居間などの写真が収められている。モノクロ写真のため色合いは見て取れないが,現在の東京都庭園美術館と変わらない様子がうかがえる。現在も残る車寄せ前の唐獅子は高輪南町御用邸から移設された。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)9月1日午前11時58分,神奈川県相模湾北西部を震源として地震が発生した。被災の範囲は関東近県におよび,港区域の皇室関連施設も多大な被害を受けた。宮内公文書館には宮内省内匠寮(たくみりょう)が皇室関連施設の被害状況を撮影した「震災写真帳」というアルバムが全4冊所蔵されている。このうち第1,3冊に港区域の皇室関連施設の被害状況を写した写真が収録されている。写真は高輪南町御用邸(現・グランドプリンスホテル高輪)の被害状況を記録したもので,東屋を支える4本の支柱が折れ,屋根が地面に落下している。震災当時,同御用邸には白金に移転する前の朝香宮邸が置かれ,また竹田宮邸,北白川宮邸が隣接しており,それぞれ被害を受けている。なお,当館所蔵の別の資料(「麻布御殿・高輪南町御用邸(写真帳)」)には倒壊以前の写真も収められている。
(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
武蔵国の多摩川下流域南岸,現在の神奈川県川崎市中原区から高津区にかけての一帯に,かつて稲毛荘(いなげのしょう)と呼ばれる荘園が存在した。藤原摂関家の荘園で,12世紀後半には東西に本荘と新荘に分かれ,いずれも九条家に伝領されたが,鎌倉時代中ごろまでには周辺の武士の勢力が及んで九条家の支配は実態を失ったと考えられる。
九条家本『中右記部類』巻2の紙背(裏)に残された本文書は,承安元年(1171)にその稲毛本荘の田数を調査・報告(検注という)したものである。冒頭の1紙しか残存していないが,263町8段180歩の全田地のうち1町2段の荒田があるものの,平治元年(1159)の検注以降に開発した新田として55町余を検出していることなどがわかる。また,荘内に稲毛郷・井田郷・小田中郷などの郷が存在したこともうかがえる。
『図書寮叢刊 九条家本紙背文書集 中右記部類外』(宮内庁書陵部,令和2年3月刊)に全文活字化されている。
(図書寮文庫)
本書は,室町時代末期から戦国時代初期に上野国の新田岩松氏に仕えた長楽寺(現在の群馬県太田市に所在)の僧,松陰軒(1438-?)の回想録。新田岩松氏の動向や関東の状勢を伝える貴重な史料だが,松陰軒の自筆本は現存せず,新井白石(1657-1725)が書写した本書も第1・3を欠いて全文は伝わらない。
画像は,文明8年(1476)に関東管領上杉顕定の重臣長尾景春(1443-1514)が主家に対して起こした「長尾景春の乱」に関する箇所(第5)。このころ,上杉氏は利根川を挟んで古河公方足利氏と争っていた(享徳の乱,1454-82)が,景春は主人顕定らと対立して,鉢形城(現在の埼玉県寄居町に所在)に立て籠もった。翌9年,景春は上杉方の本陣武蔵五十子(いかっこ/いかつこ,現在の同本庄市)を壊滅させたものの,各地の景春派は上杉方の太田道灌らに鎮圧され,古河公方と結んで抵抗を続けた景春もまもなく没落した。その後も再起を繰り返し,晩年には越後の長尾為景(上杉謙信の実父)や伊豆の伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)と結んで顕定と戦い続けた景春は,関東の戦国時代の幕開けを象徴する人物のひとりに数えられる。
(宮内公文書館)
本資料は,大正7年(1918)3月12日に小川一真写真店にて撮影された土方久元の写真である。土方は,宮内大臣や宮中顧問官を歴任しており,このときは,臨時帝室編修局初代総裁を務めていた。同年11月4日に在職中のまま死去したことを考えれば,最晩年の写真といえるだろう。
臨時帝室編修局は,大正3年(1914)12月1日に「明治天皇紀」編修のために設けられた臨時編修局が前身である(大正5年(1916)に臨時帝室編修局と改称)。臨時編修局は,土方を総裁,帝室博物館総長兼内大臣秘書官である股野琢を編修長として創設され,その事業は臨時帝室編修局へと引き継がれていった。当初は5か年の編修計画であり,土方は股野編修長を中心に資料蒐集に着手させた。また,土方は維新史料編纂会とも協定を結び,嘉永(かえい)5年(1852)から明治4年(1871)に至る期間の資料蒐集を同会へ委託している。
しかし,事業は5年では終わらず,土方の存命中に,「明治天皇紀」の完成には至らなかった。同局の総裁職は田中光顕,金子堅太郎へと引き継がれ,「明治天皇紀」は,昭和8年(1933)に完成し,昭和天皇へ奉呈された。臨時帝室編修局は,同年をもって廃局となっている。
(宮内公文書館)
本資料は,大正3年(1914)11月30日に定められた皇室令第22号正本である。大正天皇の御名と御璽が見える。この皇室令の公布により,宮内省に臨時編修局が設けられた。皇室令とは旧皇室典範を頂点とする法体系で,皇室に関する諸規則や宮内省官制等に関して勅定を経た上で公布された。
宮内省臨時編修局は設置当初,霊南坂宮内大臣官舎(現・東京都港区)に事務室を構え,「明治天皇紀」の編修が始まった。「明治天皇紀」とは,明治天皇の御事蹟を編年叙述体で記した御一代記である。その後,大正5年(1916)11月に臨時帝室編修局に改称され,大正8年(1919)には庁舎が永田町の元学習院女学部幼稚舎跡(現・東京都千代田区)に移転した。官制改正や人員の拡充などを通じて,徐々に編修方針や事業計画が整えられていった。
本文が完成したのは昭和8年(1933)9月30日のことで,「明治天皇紀」260巻,及び附図一帙が昭和天皇へ奉呈された。
(宮内公文書館)
本資料は,大正15年(1926)の三年町御料地(現在の文部科学省庁舎一帯)を描いたものである。明治19年(1886)に文部省所管の工科大学敷地が宮内省へ移管され,明治20年6月に宮内省御料局の管轄となり,三年町御料地が設定された。当初は,学習院の移設を想定して取得されたが,紆余曲折の中で様々な施設に土地や建物が貸し渡されていた。その中で,書陵部の前身である図書寮の庁舎(図面の中央右側)も置かれていたのである。
明治17年に発足した図書寮は,赤坂仮皇居内(赤坂離宮)の宮内省内に新設された。明治21年宮内省庁舎が紅葉山下(現在の宮内庁庁舎の場所)に竣工し,宮内省は移転したが,図書寮は赤坂離宮内から移らなかった。明治32年,東宮御所御造営が始まると,赤坂離宮内から三年町御料地内へ移転する。
更に明治44年6月には,文部省に新設された維新史料編纂会の事務局として建物が貸し渡され,三年町御料地には省をまたぎ編纂事業を所管する2つの部局が置かれていた。
その後,御料地は関東大震災後における復興事業の中で払下げを求められ,昭和4年(1929)に大蔵省営繕管財局へ無償で引き渡されている。御料地内にあった図書寮庁舎は,その前年に引き払い,現在書陵部庁舎がある皇居内へと移転している。
(宮内公文書館)
この写真は昭和3年(1928)9月に撮影された宮内省図書寮庁舎である。
図書寮庁舎は,昭和2年に本丸天守台の東側に完成した。明治17年(1884)8月に発足した図書寮は,当初「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍,古器物,書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされた。以来,皇室や公家などに伝えられてきた資料のほか,明治以降に宮内省で作成された公文書類を保存・管理してきた。
この図書寮庁舎は,本館と東・西書庫からなる左右対称の三階建て(地下一階)からなる。書庫では現在の書陵部と同様に自然換気の徹底を特徴としたほか,その日の天候に合わせて窓の開閉を行い,室内の温湿度を調整するなど,資料にとって適切な処置が講じられた。
その後,昭和24年(1949)6月には,宮内庁内に図書寮と諸陵寮の業務を引き継いだ,書陵部が設置された。以後も旧図書寮庁舎を使用してきたが,老朽化と狭隘(きょうあい)により,平成9年(1997)3月に現在の書陵部庁舎に建て替えられ,現在に至っている。
(宮内公文書館)
この図面は,皇居御造営事務局が明治25年(1892)に初期の宮内省庁舎を描いたものである。近代の宮内省は,明治2年(1869)7月8日の職員令によって設置された。平成31年(2019)は近代宮内省の誕生から150年にあたる。
発足当初の宮内省の職掌は宮中の庶務であり,庁舎は太政官や天皇の住まいと共に皇城(こうじょう)(旧江戸城西の丸)内に置かれていた。明治6年(1873)5月に皇城が焼失し,明治天皇が即日仮皇居と定められた赤坂離宮へ移徙(いし)すると,宮内省も仮皇居内へ移動している。皇室との距離の近さは,宮内省の職掌をよく表しているといえるだろう。
その後,新たに明治宮殿が造営されるなか,宮内省庁舎は紅葉山下に建設されることが決定する。宮内省は,たび重なる官制の改正により所掌事務が増大し,組織も拡大していた。明治21年(1888)の庁舎落成によって,宮内省は初めて天皇の住まいから独立したものとなったのである。
(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。