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(宮内公文書館)
この写真は,明治期若しくは大正期に撮影された初代の宮内省庁舎である。明治21年(1888),明治宮殿とともに竣工した宮内省庁舎は,建坪が1592坪,二階建のレンガ造建築であった。
明治27年(1894)6月,東京湾北部を震源とする地震(明治東京地震)が発生すると,宮内省庁舎も被害を受けた。明治29年から被害箇所の復旧工事が行われるなど,多少の改修を経ながらも使用されてきた。しかし,初代庁舎は,大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたために取り壊され,昭和10年(1935)に現在の二代目の庁舎が完成した。
なお,本写真を収める「宮城写真」は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が「明治天皇紀」編修のため収集した明治宮殿などの写真帳である。明治宮殿の内部の写真など27点が収められている。昭和20年(1945)の戦災で焼失する以前の「宮城」内の様子がうかがえる貴重な写真帳である。
(宮内公文書館)
本図は,新宿御料地(現在の新宿御苑)の総図で,明治20年(1887)から同24年頃に作成されたと推定される。図面左が北の方角で,左下の方向に現在の新宿駅がある。建物や田畑等の位置が示されておらず,御料地内の詳しい様子は分からないが,現在の新宿御苑とは異なる区画がうかがえる点で貴重な一枚である。図面中央下の特徴的な池が,鴨猟の行われる鴨場である。鴨場は明治13年12月から翌年6月にかけて新たに整備された施設で,明治35年に廃されるまで,皇室の狩猟場としての役割を担っていた。
(宮内公文書館)
本資料は,「新宿御苑総図」と称される図面で,大正10年(1921)に調査を行い,翌11年に作成された。縮尺1200分の1。総面積は18万4731坪とされ,現在,環境省が所管する敷地(約17万6千坪)よりも,若干大きかったことが分かる。御苑内は,自然の景観美を追求したイギリス風景式庭園,花壇を中央に左右対称に美しく整形されたフランス式整形庭園,中心に池を設け,その周囲を巡りながら観賞する日本庭園が構成されており,現在と同様の姿がほぼ出来上がっていることがわかる。
(宮内公文書館)
新宿御苑内の玉藻池(たまもいけ)付近に建てられていた庭園と御殿の写真である。玉藻池を中心とする庭園は,安永(あんえい)元年(1772)に完成した内藤家の庭園「玉川園」の面影が残る。
明治5年(1872),大蔵省は内藤新宿にあった高遠藩(たかとおはん)内藤家の邸宅地と周辺地を購入し,牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。明治7年に内務省,明治12年に宮内省へ所管が移され「植物御苑」と改称された。御殿は,内務省から宮内省へ「事務所」として移管された建物を改修したもので,行幸・行啓の際には,しばしば御休所として利用されている。明治29年に洋館御休所が新築されると,利用頻度は減ったが,植物御苑の時代を支えた建物の一つといえる。昭和20年(1945)5月の空襲で焼失した。
(宮内公文書館)
洋館御休所は,明治29年(1896)に竣工した。本図の作成年代は不明であるが,明治29年の新築時のものと考えられる。新築にあたっては,御苑内の旧養蚕室の木材が再利用された。大正期の後半には,新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され,皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになる。洋館御休所はクラブハウスのように利用され,事務室は食堂へ模様替え,浴室や給湯施設が増築された。現在,御苑内に残る旧洋館御休所は関東大震災後に復旧された仕様が維持されており,当時の姿をよく伝えている。
(宮内公文書館)
昭和初期に撮影された新宿御苑内の御凉亭(ごりょうてい)(台湾閣)と目の前の池の写真(部分)。当時としては珍しいパノラマ写真である。御凉亭は,皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念して台湾在住者から贈られ,昭和2年(1927)に竣工した。裕仁親王は大正13年(1924)4月12日より5月1日まで,台湾へ行啓しており,台湾側はそれに感謝の意を表すため,募金活動を実施し,御涼亭の献上に至った。戦災を免れ,現在まで新宿御苑に伝わる貴重な建物の一つである。
(宮内公文書館)
昭和3年(1928)4月17日に開催された観桜会での昭和天皇と香淳皇后。ご即位後,初めての観桜会であった。春に催される観桜会は現在の園遊会と同様の行事として,秋の観菊会(かんぎくかい)とともに内外の要人を招待する皇室行事であった。それぞれ桜と菊の観賞を目的にした社交の場として催されている。明治14年(1881)に吹上御苑で始まった観桜会は,明治16年から大正5年(1916)まで浜離宮で行われていたが,浜離宮は「狭隘(きょうあい)」との理由から会場を変更し,大正6年から新宿御苑が観桜会の会場となった。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭に使用された調度品や儀式の模様を描いた画帖。上・下二冊からなり,作者は不詳である。上巻には祭具や神饌が,下巻には悠紀(ゆき)・主基(すき)国郡卜定(こくぐんぼくじょう)から大嘗祭当日までの諸儀の場面などが描かれている。本絵図は大嘗祭当日,明治天皇が廻立殿(かいりゅうでん)(沐浴をし,装束を改める殿舎)を出られ,柴垣内の斎殿に向かわれる場面を描いている。この後,悠紀殿(ゆきでん),続いて主基殿(すきでん)へと移り,祭儀が進められた。
「明治天皇紀」編修の過程で宮内省臨時帝室編修局が取得したが,その前は同省式部職が所蔵していた。作成年は不明であるが,画家浮田可成(うきたよしなり)が一部を模写したものが国立公文書館所蔵「公文附属の図」に含まれており,その奥書に明治27年(1894)3月と年紀があることから本資料はそれ以前の作だと判明する。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日,憲法発布式が午前10時40分から宮中の正殿において催された。式典には,内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)や枢密院議長伊藤博文(いとうひろぶみ)をはじめ,皇族や元老,閣僚,陸海軍将官,地方長官,高級官僚,各国公使以下の外国人らが出席している。明治天皇は内大臣の三条実美から憲法の入った筥(はこ)を受け取った後,勅語を述べられ,憲法を黒田に授けられた。式典後,天皇は青山練兵場へ行幸し観兵式(かんぺいしき)に臨まれ,午後7時からは豊明殿(ほうめいでん)ほかで宴会が催された。
絵画は,薩摩藩出身で司法省検事の床次正精(とこなみまさよし)が描いた記録絵画のうちの1枚である。絵画は8枚組であり,観兵式臨幸之図(かんぺいしきりんこうのず)や豊明殿御陪食之図(ほうめいでんごばいしょくのず)などが含まれ,発布式当日に行われた一連の行事の様子が伝わる。
(宮内公文書館)
明治27年(1894)3月9日,明治天皇と昭憲皇太后の御結婚満25年を祝う式典が挙行された。天皇・皇后は鳳凰(ほうおう)の間に出御(しゅつぎょ)し,有栖川宮熾仁親王をはじめとした皇族方や,内閣総理大臣伊藤博文ら200余名の拝賀を受けた。その後,在日外交官を通じて外国元首からの祝賀を受けられ,青山練兵場にて観兵式(かんぺいしき)に臨まれた。還御(かんぎょ)後,豊明殿(ほうめいでん)にて祝宴が催され,さらに正殿にて舞楽を御覧になっている。
絵画は舞楽のうち,太平楽を御覧になっている場面で,記録に基づいて祝典当日の模様を再現描写したものである。正面中央の台座に着席された天皇の右側には皇族男子,及び宮内大臣をはじめとする高官・外国使臣とその夫人が,一方,皇后の左側には皇族女子が陪席している。舞楽の陪覧者は男子1072人,女子136人に上った。
(宮内公文書館)
文久元年(1861)4月,和宮は14代将軍徳川家茂との婚儀が整うと内親王宣下(せんげ)を受け,兄である孝明天皇から「親子(ちかこ)」の名前を賜った。10月20日に京都を出発し中山道を進み,11月15日に江戸に到着,御三卿(ごさんきょう)の1つ清水家屋敷に入る。図はその行列と供奉(ぐぶ)した公卿や役人を描いている。史料の表題には,絲毛御車とあり,牛車で江戸まで下ったことがわかる。絲毛御車とは,牛車の車箱(しゃばこ)を色染めのより糸でおおって飾ったもの。おもに内親王,更衣(こうい)以上が乗用した。
(宮内公文書館)
明治維新後,和宮は明治2年(1869)2月に上洛し京都に住んだが,明治7年に再び東京へ上り,同10年に薨去(こうきょ)するまで麻布市兵衛町の旧南部家の屋敷を住まいとした。史料は明治8年1月28日に宮中で催された月次(つきなみ)歌会で詠進(えいしん)した短冊を綴じたもの。「水辺若菜(みづのほとりのわかな)」を題目に詠んだもので,右端が和宮の歌。「沢水にそでハぬるともきみがためちよをわかなにつミてさゝげむ」とあり,明治天皇の治世が幾久しく続くように,と詠まれている。後述のように,同月31日には明治天皇,昭憲皇太后の行幸啓を受けており,皇室と和宮の交流の一端をうかがえる。なお,和宮の隣の短冊は有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)のものである。和宮と熾仁親王は,嘉永4年(1851)に婚約し許嫁のなかであったが,和宮が家茂に嫁ぐことが決まり,婚約が破棄されたという経緯がある。
(宮内公文書館)
明治8年(1875)1月31日に和宮邸へ行幸啓した際の関係書類。和宮は明治7年に東京へ戻ると麻布市兵衛町に居を構えた。正午に宮邸に到着された明治天皇は,先に到着されていた昭憲皇太后と合流し,昼食,酒肴(しゅこう)を取られた。橋本実麗(さねあきら)らの陪席もあり,午後5時に皇后と共に還幸された。また明治9年5月にも和宮邸へ行幸啓があった。その際には式部頭の坊城俊政(ぼうじょうとしただ)らが演じる能楽が催された。能楽は午後9時まで続き,その後は酒が供され,宮内卿徳大寺実則(さねつね)らの陪席もあり,午後11時30分に還幸された。また,各行幸啓の数日後には英照皇太后の行啓もあり,和宮と皇室の交流がうかがえる。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
平安時代末期に相撲節会(すまいのせちえ)が途絶えた後,武士の世においては,相撲は武術として奨励され,また興行相撲など娯楽としても流行した。本書は江戸時代の寛政3年(1791)6月11日に,江戸城内の吹上で行われた第11代将軍徳川家斉臨席による初めての上覧相撲の様子を書きとめたもの。本書は,陪観(身分の高い人に付き従い見物すること)を許された幕府の旗本であった成島峯雄が書いた記録で,この時の出場力士には小野川・谷風の両横綱や最強と讃えられた雷電の名も見える。
本書は,寛政6年,松岡辰方が人に依頼し書写させたもの。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(宮内公文書館)
宮内省臨時帝室編修局が編修した明治天皇の御一代記「明治天皇紀」の附図の下絵である。2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(1827-92)により昭和8年(1933)に作成された。同資料には,明治23年(1890)以降,明治宮殿鳳凰の間で催された歌会始の図が収められている。皇后の出御をはじめとする女性の参加など前近代からの変化が見られる。
(宮内公文書館)
「御歌録」は,歌会始に関する文書などを綴った簿冊である。宮内省に置かれていた御歌所とその前身となる組織・役職(文学御用掛ほか)で作成・取得された文書で,明治6年(1873)から昭和21年(1946)までの35冊が伝来している。明治23年の分には歌会始の席割図が綴じられており,「上」とある玉座のほか皇后や宮内卿,諸役などの位置がわかる。