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(陵墓課)
奈良県葛城市に所在する小山古墳から出土した耳環(じかん)と呼ばれる耳飾りである。書陵部では,本資料のように金色に輝く耳環の名称を,その色調から「金環」としているが,金環と呼ばれているものの中には,銀製の芯材に鍍金(ときん=メッキ)したもの,銀の含有量が多い金からできているものなど,材質には様々なものがあり,金環の全てが純度の高い金でできているとは限らない。本資料は純金特有の黄色みが淡いことから,金と銀の合金で作られている可能性がある。金と銀の合金は,その色調から「琥珀金(こはくきん)」とも「エレクトラム」とも呼ばれ,銀の比率が高くなるにつれて,金色が薄れて銀色が強くなる。この材質についての所見はあくまでも観察によるものであり,材質を確定させるためには,蛍光X線(けいこうエックスせん)などの理化学的分析が必要となる。
本資料の2点は,全体をみると,ともに直径18㎜ほどで,厚みは1㎜から2㎜である。画像右側のものは正円形に近く,左側のものは楕円形に近いといえるが,大きくは変わらない。環の本体をみると,その断面形はともに正円形である。耳環は,両耳に着けるものであるため,2個で1セットが本来の姿である。本資料の2点は,色調から類推される材質,大きさ,形状などに統一感があり,本来のセットを保っている可能性が高い。しかし,本資料の出土状況は不明であるため,出土時の位置関係を知ることができず,本来のセットであったかどうかを確定させる方法はない。
(図書寮文庫)
本状は,九条家領荘園のひとつ摂津国生嶋荘(いくしまのしょう・現在の兵庫県尼崎市)の関連史料で,写真はその本文部分。作成者覚照は,同荘を開発した一族の流れを汲むと称する人物である。彼によれば,理由なく没収された同荘の返還を九条家に求めたところ,同家領荘園の播磨国田原荘(たはらのしょう・現在の兵庫県福崎町)西光寺(さいこうじ)院主職(いんじゅしき)が代替として与えられることになったが,西光寺の僧侶や田原荘の住人たちは激しく反発して受け入れられなかった。そこで正応4年(1291)7月改めて生嶋荘の返還を要求したのが,本状である。覚照は田原荘の住人たちが様々な悪行を行って抵抗したとしており,別の文書ではその中心人物である行心たちを「悪党」と糾弾している。
悪党は,13世紀末期以降の地域社会において,統治体制の変化などから自らの権益や正当性が脅かされそうになったとき,実力でその保全を達成しようとした人びとに対する呼称である。覚照が新たに田原荘の中核的寺院の要職に送り込まれることは,住人が作り上げ,維持していた地域社会のバランスが動揺する危険をはらんでいた。行心たちは,荘園領主九条家の事情によってもたらされた地域社会の危機に対応したのである。
(図書寮文庫)
固関(こげん)とは,古代において天皇の崩御や譲位などの重大事に際し,畿内に通じる主要道に設けられた三関,すなわち伊勢国鈴鹿関(すずかのせき),美濃国不破関(ふわのせき),越前国愛発関(あらちのせき,平安遷都後ほどなくして近江国逢坂関(おうさかのせき)にかわる)を封鎖する儀である。この儀では木契(もっけい)と呼ばれる割符を使用し,片方を関に赴く使者に携行させ,後日封鎖を解除する際に別の使者にもう片方を持参させ,現地で合わせて正式な使者であることを確認させた。
本資料は宝永6年(1709)東山天皇から中御門天皇への譲位儀に際して行われた固関儀で用いられたと推定される木契の実物で,その寸法は長さ約9.2㎝,両片を合わせた底面は約3㎝四方である。江戸時代には既に三関は廃絶していたが,固関儀は古式にのっとり引き続き行われていた。本資料は上卿を務めた九条輔実(すけざね,1669-1729)の手元に残され伝わったと考えられ,伊勢国あての左右と美濃国・近江国あての右片が現存する。当時の宮中儀礼の実像を知ることのできる興味深い資料である。
(図書寮文庫)
本資料は,伏見宮家旧蔵「故宮御詠百五十首」断簡(現在は『貞成親王御筆歌書類』のうち)の紙背に遺されたものである。前後を欠くが,『文保一品経』から『御卅首(おんさんじっしゅ)』まで26の経典や歌集などが列記されており,なかには後伏見天皇や花園天皇,後光厳天皇など持明院統・北朝の歴代天皇宸筆の記録等も含まれている。筆跡は伏見宮家第3代貞成親王(さだふさ,1372-1456)のものと見られることから,室町時代の伏見宮家蔵書目録の一部と推測される。
同趣のものは,貞成親王の日記『看聞日記』(特・107)巻7・9の紙背にあり,いずれも応永24~33年(1417-26)ごろ,親王が大光明寺や法安寺,即成院といった山城伏見の寺院に蔵書を預け置いた際に作成したものである。なかでも,本資料に見える『文保一品経』や『林鳥』(後鳥羽天皇の日記),『心日』(後伏見天皇の日記),『塵影録』(光厳・光明両天皇の著作),『正治建仁懐紙』(鎌倉初期の和歌懐紙)は,巻7紙背の応永27年2月27日付け法安寺預置文書目録,および巻9紙背の応永32年6月8日付け大光明寺預置記録目録にも見え,その他重複する書目は少なくない。当時の宮家が,貴重書のまとまりを御所近隣の寺院に移しながら保管していたことをうかがわせる一通である。
(図書寮文庫)
『白氏文集』(はくしぶんしゅう)は,中国唐代中期の詩人・白居易(はく・きょい,772-846,字は楽天)の詩文集。はじめ親友の元稹(げん・じん,779-831)により編まれ,その後居易自身が生涯にわたって加筆したもの。『文集』は早くも居易の生前よりもてはやされ,日本にも存命中に渡来した。日本の漢文学はもちろん,『源氏物語』など国文学へも強く影響したことが知られる。
さて,本資料は,九条家旧蔵の残巻類の包みより出現した,鎌倉初期の書写と思われる『文集』巻16の残簡1葉。大ぶりの料紙に墨で界線(枠)を引き,毎行15字で書かれ,欠損はあるが24行残存している。内容は巻頭の「東南行(東南のうた)」という詩の一部である。居易が左遷された都・長安より東南の江州の景や,長安での思い出を詠んだ作品。文中の小字は居易自身による注釈(自注)を写したもの。本資料はたった1枚にすぎないが,唐代に写本で流布した『文集』の本文が我が国において保存された,いわゆる「旧鈔本」(ふるい手書き本)のひとつの姿を伝える点に意義がある。
なお,『管見記』(F11・1)巻102の紙背にも,鎌倉時代の書写で,同じく『文集』巻16の別の部分(巻末)が遺る。
(図書寮文庫)
本資料は,室町期の公卿高倉永行(たかくらながゆき,?-1416)の日記『永行卿記』の明徳3年(1392)12月3日条の抄出で,北朝第3代崇光天皇(当時は上皇,1334-98)が御落飾(同年11月30日)された折の記録である。端裏書には「本院御落飾記 明徳三」とある。本院とは崇光上皇のこと。従来上皇の御落飾に関しては,簡略な記事しか知られなかったが,本資料によって詳しい状況を知ることができる。筆跡は永行自筆と考えられ,永行自身が上皇の御落飾の記事を日記から抄出したものとみられる。
内容は,御落飾の概要は冷泉範定からの情報としたうえで,その儀は内々のもので戒師が相国寺の常光国師(空谷明応)であったことやその様子,あるいは御供として出家した五辻朝仲のこと,また御落飾後の御法衣や国師の袈裟などについての記事である。高倉家は山科家とともに御服調進の家で,崇光上皇の御法衣も高倉家の調進であった可能性があり,それ故に装束についての詳細が記されたのではないだろうか。署名の官職等を勘案すれば,応永3年(1396)をさほど遡らない時期の筆跡と考えられ,御落飾当時のものである可能性もある。料紙に押紙を付して文字を訂正しているが,すべて当初の文字と同じで,その意図は不明。
(図書寮文庫)
詔書とは,国家の重要な案件について,天皇の意志を伝えるために作成される文書である。掲出の資料は,安政3年(1856)8月8日,九条尚忠(ひさただ,1798-1871)を関白に任じる際に作られた詔書の原本である。
内容は,尚忠を関白に任じる旨の命令を,修辞を凝らした漢文体で記したものである。文章の起草・清書は大内記(だいないき,天皇意志に関わる文書の作成を職掌とする)東坊城夏長(なつなが)が担当し,料紙には黄紙(おうし)と呼ばれる鮮やかな黄蘗(きはだ)色の紙が用いられた。また,文書末尾の年月日部分のうち,日付の「八」のみ書きぶりが他と異なるが,これは自らの決裁を示す孝明天皇(1831-66)の宸筆であり,この記入を御画日(ごかくじつ)という。
尚忠は関白就任後,幕末の困難な政治情勢下において,江戸幕府と朝廷の間の折衝役として尽力した。しかし,日米修好通商条約の締結などをめぐって孝明天皇や廷臣の支持を得られず,最終的には文久2年(1862)に関白を辞任した。
なお,この時の関白任命にあたっては,いくつかの関連文書も共に作成されたが,図書寮文庫にはそれらの原本も所蔵されている(本資料のもう一点「随身兵仗勅書」および函架番号九・1638「九条尚忠関白・氏長者・随身牛車宣旨」)。
(図書寮文庫)
「神武必勝論」は,幕末に尊王攘夷論を唱えて活動した平野国臣(くにおみ:1828-1864)が,文久2年(1862)から翌年にかけ福岡の獄中にあった際,攘夷に関する自らの基本方策をつづったものである。筆や墨を得られなかったことから,紙捻(こより)を切り張りした文字で記された。
平野は出獄後,文久3年(1863)に尊攘派公家沢宣嘉(のぶよし)を擁して但馬国生野(兵庫県朝来(あさご)市)で挙兵したが捕らえられ(生野の変),翌年処刑された。この際,同書は同志の農民等に遺品として与えられ,その子孫が保管してきたが,明治20年(1887)の明治天皇京都行幸の途次,兵庫県知事内海忠勝を通じて献上された。
本資料はこれを複製したもので,原本が世に知られていないことを遺憾とした明治天皇の命により,宮内省を通じ,大蔵省印刷局が石膏版を用いて作成したとみられる。内閣総理大臣伊藤博文による序文と,皇太后宮大夫杉孫七郎による跋文(ばつぶん)が付されており,1ページに2面ずつ,紙捻文字の凹凸を再現するかたちで印刷されている。
本資料は侍従職が保管したのち図書寮に移されたものであるが,献上者をはじめ,皇族や大臣等にも同種の複製が下賜されたという。なお,紙捻製の原本は御物とされたのち,現在は三の丸尚蔵館に所蔵されている。
(宮内公文書館)
「明治天皇紀」を編修する臨時帝室編修局によって取得された。明治天皇がお召しになった御料四人乗割幌馬車の写真である。同馬車は,明治4年(1871)に宮内省が当時のフランス公使であるウートレーより購入したもので,同年5月に吹上御苑にて天覧に供された記録も残されている。多くの行幸に用いられており,なかでも明治9年の東北・北海道巡幸,同11年の北陸・東海道巡幸,同13年の甲州・東山道巡幸,同18年の山口・広島・岡山巡幸と実に4度の巡幸に用いられている点が特徴である。その後,宮内省主馬寮に保管されていたが,大正11年(1922)12月に「明治天皇御紀念」として,同馬車を含む3輌が帝室博物館へ管轄換えとなっている。戦後,帝室博物館は宮内省の管轄から離れたため,同馬車は現在も帝室博物館の後身である東京国立博物館に所蔵されている。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮が取得した,主馬寮庁舎とその周辺部分を描いた図面。表題には「御造営残業掛ヨリ引継」とあり,皇居御造営事務局から引き継いだことがうかがえる。図面の中央には逆コの字型の主馬寮庁舎が描かれ,庁舎の裏手には現在も残る二の丸庭園の池がある。主馬寮庁舎は,明治宮殿の造営に併せて皇居内二の丸に新築され,明治20年12月に落成した。庁舎は2階建で,1階には宿直室や馬医・蹄鉄(ていてつ)工の部屋が,2階には主馬寮の事務室や馭者(ぎょしゃ)の部屋があった。図面を見ると,主馬寮庁舎の上部に朱で加筆されていることがわかる。これは明治22年5月に起工された御料馬車舎であり,既存の馬車舎に加え新たに増築されたものである。主馬寮は,明治宮殿造営後,皇居内の本庁の厩と赤坂分厩を併用して業務にあたる予定であったが,実際に業務が始まると遠隔の赤坂分厩とは,調整がうまく行かなかった。結局,必要な馬匹と馬車を赤坂分厩に残し,皇居内に厩舎と馬車舎を増築することになり,先に予算の付いた馬車舎が建築された。ここから,図面は明治22年前後の二の丸の様子を描いたものであることがわかる。
(宮内公文書館)
宮内省主馬寮には,皇居のほかに,赤坂離宮や高輪御殿などにも厩舎が置かれており,それぞれ赤坂分厩,高輪分厩と呼ばれていた。明治22年(1889)に明治宮殿が完成し,明治天皇が赤坂仮皇居から移られると,主馬寮も皇居二の丸付近に庁舎を構えた。しかし,皇居内の厩舎では馬匹を賄いきれず,赤坂離宮内の厩も引き続き利用されている。
図面は,大正10年(1921)に作成された赤坂分厩庁舎の平面図である。主馬寮の本庁舎よりは小振りであるが,二階建てであるなどある程度の規模を備えており,明治30年から翌年にかけて大規模な工事によって整備された。赤坂分厩は現在の東門付近に設けられており,これは和歌山藩邸時代のものを援用したと考えられる。赤坂分厩には,毎日主馬寮の職員が2~3人詰め,嘉仁親王(後の大正天皇)や裕仁親王(後の昭和天皇)の乗馬練習が実施されたり,病馬の治療が実施されるなど主馬寮本庁舎とは異なる役割があったと考えられる。
(宮内公文書館)
新冠(にいかっぷ)御料牧場の広大な土地に洋種牝馬(ひんば)を放牧している様子がうかがえる写真。明治期に撮影されたものと思われる。本写真は明治天皇御手許書類のなかに収められた,新冠御料牧場写真4枚の内の1枚である。
新冠御料牧場は,明治5年(1872)に開拓使が北海道日高国に設置した牧場をはじまりとする。明治5年に開拓使が設置した牧場は,北海道日高国静内(しずない)・新冠・沙流(さる)の3郡にまたがる約7万ヘクタールの土地に設けられた。明治16年12月,農商務省所管の新冠牧馬場が宮内省へ移管され,明治21年には主馬寮の所管となり,同場の名称も新冠御料牧場に改められた。牧場開設以来,日本在来馬の改良・繁殖に力を注いだ。大正11年(1922)には,宮内省下総牧場での馬の繁殖が中止となり,それに伴って同場から優秀な洋種の種馬と繁殖牝馬が移され,馬の生産は新冠で行われることとなった。新冠では,外国から各品種の種牡馬と種牝馬を輸入して,馬の飼養に力を入れた結果,優良な洋種が多数生産された。
(宮内公文書館)
明治38年(1905)春季,横浜・根岸競馬場において「皇帝陛下御賞典」(帝室御賞典)が始まった際の記事。宮内省で儀式に関する事務を行う式部職において作成・集積された日本競馬会に関する書類に収められている。本記事からは,「此度ノ賞品ハ例年ノモノニ比シ一層大形ニシテ革張ノ函ニ収容シアリ,頗ル美事ナルモノ」であったことがわかる。
現在の天皇賞につながる優勝賞品の下賜は,明治13年に根岸競馬場で行われた「ミカドズベースレース」(Mikado's Vase Race)に遡る。明治32年5月に明治天皇の最後となった競馬行幸以降も,皇室からの優勝賞品の下賜が続いた。以後,皇室としては,花瓶等の優勝賞品の下賜を通じて近代競馬の普及に貢献した。そして,これまでの御下賜品競走を統一して,最大の栄誉を勝馬と馬主に与えようとして生まれたのが,明治38年のエンペラーズカップ(皇帝陛下御賞盃競走,明治39年以降,帝室御賞典競走に名称を統一)である。下賜の賞品も,例年より豪華でサイズも大きい銀鉢へと変わった。
(宮内公文書館)
吹上御苑家根(やね)馬場の内部写真。雨天時に乗馬を行う場所であった。屋内であっても天井と両側の窓により,採光を確保する工夫が施されている。小川一真写真館撮影。本写真は大臣官房総務課が作成・取得したもので,吹上御苑内家根馬場の外観写真2枚とともにアルバムに収められている。
吹上御苑内に家根馬場(屋根附馬場)が竣工したのは,大正3年(1914)11月のことであった。これは屋根の付いた馬場(覆馬場(おおいばば))のことで,天候に左右されない屋内専用の乗馬練習場である。約559坪の広さであった。主馬頭などを歴任した藤波言忠の回顧談によれば,「主馬頭奉職中,今上陛下が雨天の際御乗馬の為に建築したるものにして,頗る堅牢なるもの」であったという。家根馬場は,主に大正天皇や皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御乗馬などに使用された。
なお,建物自体は,吹上御苑から皇居三の丸へ移築され,旧窓明館として現存している。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
明治天皇は,明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり大規模な巡幸を実施し,六大巡幸とも称されている。明治9年6月2日,明治天皇は六大巡幸の1つである東北・北海道へ巡幸の途に就いた。同月13日に福島県下白河に到着すると,白河城址に臨み,県下長坂村ほか14か村から集められた産馬1500頭余を御覧になった。この他に牧馬の業を興した八田部才助を近くに召しその功労を賞するなどした。写真は,産馬天覧の様子を写真師の長谷川吉次郎が撮影したものである。大正15年(1926)10月5日に白河町長の丸野実行から「明治天皇紀」を編修するために設置された宮内省臨時帝室編修局へ寄贈された。この東北・北海道巡幸ではこの他にも福島県下の須賀川や宮城県,岩手県においても産馬を御覧になっている。特に岩手県下水沢においては,のちに明治天皇の御料馬として知られる金華山号が買い上げられている。
(宮内公文書館)
皇城・吹上御苑の図面。図面中央下のだ円形の箇所が,406間(約738メートル)の馬場である。明治6年(1873)の皇城炎上により,明治天皇が赤坂仮皇居にお住まいを移されてからも,吹上御苑にはしばしば行幸になった。
吹上御苑で催された天覧競馬は,初回の明治8年以降,明治宮殿が竣工する直前の明治17年まで続いた。競馬実施にあたっては,明治9年に皇室建築を担当する宮内省内匠課(たくみか)が吹上御苑内の広芝に廻馬場を整備した。馬場のコース両側には丸太柵を設けて,拡張したものであった。明治14年には,吹上御苑内での競馬を御覧になるための「御馬見所」が新設された。吹上御苑競馬は乗馬奨励を目的として,主に軍人や宮内官,華族らが参加し,勝者には賞品として織物が下賜された。
以後,明治天皇は皇居近郊の戸山競馬や上野不忍池競馬,三田育種場競馬などに行幸になった他,東京府外にも足を伸ばし,横浜根岸の天覧競馬では,明治32年を最後とするまで13回を数えた。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。