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(陵墓課)
帯鉤とは,ベルトのバックルに相当する部品である。馬形の帯鉤は朝鮮半島で多数見つかっており,本資料も,朝鮮半島で造られたものが持ち込まれ,副葬されたものと考えられる。
馬形帯鉤のモチーフは,中国北方の騎馬遊牧民(きばゆうぼくみん)にみられるもので,騎馬文化とともに朝鮮半島にもたらされたものと考えられている。
日本での確実な出土例はほとんどなく,本資料以外には,長野県長野市の浅川端遺跡(あさかわばたいせき)出土品があるだけである。
本資料は明治45年に榊山古墳から出土したとされるが,同時期に近接する千足古墳(せんぞくこふん)からも遺物が出土し,両方の出土品がまとめて取り扱われてしまったため,厳密にはどちらの古墳から出土したものなのかを確定することはできない。
当時の国際交流を考える上で重要な資料である。
(陵墓課)
大正5年に西塚古墳から出土した,衝角付冑と呼ばれる冑である。衝角の名称は,軍艦の艦首(かんしゅ)の尖った部分を連想してつけられた。
右側頭部~後頭部にかけて大きく欠損していたが,現在は保存処理をおこない欠損部を修復している。地板(じいた)に小札(こざね)と呼ばれる小型の鉄板が用いられ,伏板(ふせいた),胴巻板(どうまきいた),腰巻板(こしまきいた)の各部材と重ね合わせて,鋲(びょう)を打つことで接合される点が特徴である。
本資料は,古墳時代中期に製作されたものである。エリート層が競って武器武具を手に入れようとした時期であり,被葬者の権威を示す器物として機能していたと考えられる。
(宮内公文書館)
文久元年(1861)4月,和宮は14代将軍徳川家茂との婚儀が整うと内親王宣下(せんげ)を受け,兄である孝明天皇から「親子(ちかこ)」の名前を賜った。10月20日に京都を出発し中山道を進み,11月15日に江戸に到着,御三卿(ごさんきょう)の1つ清水家屋敷に入る。図はその行列と供奉(ぐぶ)した公卿や役人を描いている。史料の表題には,絲毛御車とあり,牛車で江戸まで下ったことがわかる。絲毛御車とは,牛車の車箱(しゃばこ)を色染めのより糸でおおって飾ったもの。おもに内親王,更衣(こうい)以上が乗用した。
(宮内公文書館)
明治維新後,和宮は明治2年(1869)2月に上洛し京都に住んだが,明治7年に再び東京へ上り,同10年に薨去(こうきょ)するまで麻布市兵衛町の旧南部家の屋敷を住まいとした。史料は明治8年1月28日に宮中で催された月次(つきなみ)歌会で詠進(えいしん)した短冊を綴じたもの。「水辺若菜(みづのほとりのわかな)」を題目に詠んだもので,右端が和宮の歌。「沢水にそでハぬるともきみがためちよをわかなにつミてさゝげむ」とあり,明治天皇の治世が幾久しく続くように,と詠まれている。後述のように,同月31日には明治天皇,昭憲皇太后の行幸啓を受けており,皇室と和宮の交流の一端をうかがえる。なお,和宮の隣の短冊は有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)のものである。和宮と熾仁親王は,嘉永4年(1851)に婚約し許嫁のなかであったが,和宮が家茂に嫁ぐことが決まり,婚約が破棄されたという経緯がある。
(宮内公文書館)
明治8年(1875)1月31日に和宮邸へ行幸啓した際の関係書類。和宮は明治7年に東京へ戻ると麻布市兵衛町に居を構えた。正午に宮邸に到着された明治天皇は,先に到着されていた昭憲皇太后と合流し,昼食,酒肴(しゅこう)を取られた。橋本実麗(さねあきら)らの陪席もあり,午後5時に皇后と共に還幸された。また明治9年5月にも和宮邸へ行幸啓があった。その際には式部頭の坊城俊政(ぼうじょうとしただ)らが演じる能楽が催された。能楽は午後9時まで続き,その後は酒が供され,宮内卿徳大寺実則(さねつね)らの陪席もあり,午後11時30分に還幸された。また,各行幸啓の数日後には英照皇太后の行啓もあり,和宮と皇室の交流がうかがえる。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)にご誕生になり,慶応3年(1867)に明治天皇の女御(にょうご)となると,明治元年(1868)入内(じゅだい)し皇后となった。明治2年3月,明治天皇が再幸されると,同年10月に昭憲皇太后も東京へ行啓になり,皇城(旧江戸城西の丸)をお住まいとされた。写真は,明治5年に写真師内田九一(くいち)によって初めて撮影された和装の昭憲皇太后の御肖像。小袿(こうちき)に長袴(ながばかま)をお召しになり,檜扇(ひおうぎ)を開いている。昭憲皇太后が初めて洋服をお召しになるのは明治19年(1886)の華族女学校行啓の際であり,よく知られる大礼服を召した御写真は明治22年に写真師鈴木真一らによって撮影されたものである。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)に制度局の蜷川式胤(にながわのりたね)によって作成された昭憲皇太后の服制図を,大正8年(1919)に臨時帝室編修局が写したもの。写真左には檜扇,右側には単衣(ひとえ)の地紋が描かれている。この他にも昭憲皇太后のお召しになった袴や袿(うちき),単衣,お使いになった櫛や鈿(かんざし)などが描かれており,当時の服制がうかがえる。また,当時は白黒写真であったため,当時の服制の色を伝えるといった点でも貴重な史料である。
(宮内公文書館)
昭憲皇太后は,早くから女子教育の大切さを説かれ,明治18年(1885)に華族女学校が開校するとたびたび行啓された。明治20年には「金剛石」と「水は器」の御歌(みうた)二首を同校へ下賜し,唱歌として広く歌われた。史料は明治天皇御紀附図稿本に収められている一枚で,昭憲皇太后が明治18年11月13日の華族女学校開校式に臨まれる場面。華族女学校長であった谷干城(たてき)の答辞をお受けになっている。明治天皇御紀附図稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のちに臨時帝室編修局)が作成した「明治天皇紀」附図の稿本。「明治天皇紀」に所載される主だった場面が描かれている。完成した附図は「明治天皇紀」260巻と共に昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。
(図書寮文庫)
『堤中納言物語』は,11世紀に成立したとされる10編から成る短編物語集。その一つ「虫めづる姫君」は,物事の本質を見極めたいと,好んで毛虫を収集する姫君を主人公にした物語。カマキリやケラ,カタツムリなど,様々な生き物が登場する。古典作品の中にはこのほかにも,蜂を手なずけて蜂飼大臣(はちかいのおとど)と称された藤原宗輔の逸話(『十訓抄』)など,虫を好む風変わりな貴族を題材にした物語があり,人々に親しまれた。
本書は江戸中期の写本で,かつて京都御所に伝えられ,天皇の手許におかれ読まれたと考えられる御所本のうちの一つ。
(図書寮文庫)
十五夜の頃,神楽岡に棲む様々な虫や動物たちが禁裏の御庭に集い,和歌を詠みあうという創作物語を,双六に仕立てたもの。物語は,建保6年(1218)8月13日に第84代順徳天皇(1197-1242)出御のもと中殿(清涼殿)で行われた,有名な和歌・管絃の催し「中殿御会」になぞらえた内容となっている。
双六には46個のマスがあり,それぞれの中には物語に登場する虫や動物が生き生きと描かれる。また,マスの一つ一つには名称が付けられ,賽の目に応じたマスの移動先も示されており,「飛び双六」のルールで進むことが分かる。賽の目は,1~6の数ではなく,「池・月・久・明・和・歌」(「池月久明」は建保6年中殿御会の和歌題)の6文字で構成されたと考えられる。典雅な趣向を凝らした,他に類例をみない珍しい双六である。昭和22年(1947)まで宮内省にあった御歌所旧蔵本。
(図書寮文庫)
本草学とは,薬用になる動植鉱物について研究する薬物学の一つ。中国では後漢時代より数多くの本草書が編まれ,奈良時代に遣唐使によってもたらされて以来,日本にも広められた。
本書は,北宋時代の医者宼宗奭(こうそうせき)によって著され,南宋~元の時代(13-14世紀頃)に版木で印刷されて出版されたもの。巻末には,「金沢文庫」印が捺され,かつて鎌倉幕府執権北条氏の一族金沢氏が創設した,金沢文庫旧蔵の書物であったことがわかる。
内容は,玉石部・草部・獣部・穀部など10部から成り,1057種におよぶ薬種について,形態や産地,効能などが記される。画像は,虫魚部のうちの一つ「露蜂房」(ろほうぼう)。いわゆるハチの巣で,現在でも漢方薬の一種として珍重される。
(図書寮文庫)
室町時代の文安元年(1444)に成立した古辞書。下学とは,手近で初歩的な学問という意味であり,その内容はとくに初学者・幼年者を対象としている。作者は不明だが,禅宗の僧侶と推定される。
3110語に及ぶ鎌倉・室町時代の言葉が,天地門・神祇門・時節門・飲食門・数量門などの18門に意義分類される。その一つに気形門(気形とは生き物のこと)があり,虫に関する言葉が掲載されている。それぞれの言葉の右側と左側には読み方がカタカナで配され,また半数以上の語に,詳細な注釈が漢文で添えられており,初心者の学習に適した,百科事典的な内容となっている。
本書は,室町時代の写本で,その後,塙保己一(1746-1821)が設立した和学講談所に所蔵されていた。
(図書寮文庫)
但馬国(現在の兵庫県)の人で,蚕の買い付けや品種改良に携わった上垣守国(うえがきもりくに,1753-1808)が著した養蚕技術書。品種,道具,技法,起源や伝説など,蚕にまつわるさまざまな事柄を網羅している。享和3年(1803)に版木で印刷され出版された。以後,国内では明治期に至るまで出版が続けられたロングセラーで,シーボルトによって国外に持ち出されたことでも有名。後に,フランス語訳・イタリア語訳も出版された。
(図書寮文庫)
虫を題材とした55篇の漢詩1冊と,絵1冊の2冊から成り,一名『蠕蠕集』(ぜんぜんしゅう,蠕はうごめくの意)ともいう。明治39年(1906)に出版されたものである。
著者山本復一(またかず,1840-1912)は京都の人で,本草学者山本亡羊(ぼうよう)の孫。岩倉具視の秘書となり,明治維新後は太政官に出仕。修史局御用掛,維新史料編纂会委員などを歴任した。
絵はすべて,復一の叔父山本渓愚(けいぐ,章夫)が描いたものの模写である。渓愚もまた亡羊の影響を受けて博物学を修め,写生に優れた才能を発揮した。その作品の数々は,絵画を志す人々のために広く有益であろうと,巻末の識語にある。
(図書寮文庫)
蹴鞠は,鞠を蹴り上げる技と回数を競う遊戯で,大陸から伝来したとされるが,その起源や伝来時期について,詳しいことはわかっていない。日本においては,12世紀には盛んに行われ,特に後白河天皇(1127-92)は,蹴鞠の名人であったとされる。後世「鞠聖(きくせい)」と神格化される藤原成通(なりみち)は,「蹴鞠は遊び事なのだから,夢中になって楽しめばよい」と語ったとされているように,本来は純粋な遊戯として,日本でも広く受け入れられて流行した。平安時代以降の貴族社会では,作法や装束・施設・用具などが細かく取り決められ,鎌倉時代後期の13世紀には,現在に伝わる蹴鞠の形がほぼ完成したと考えられている。
本書は,永徳元年(1381)3月と応永15年(1408)3月に開かれた蹴鞠会の様子を,古記録などから室町時代の末期に書き抜いたもので,画像は応永15年3月に足利義満の邸宅北山殿において開催された蹴鞠会の会場図。会場(鞠場)には「懸の木」と呼ばれる4本の柳が描かれ,その両脇に競技者(鞠足)が立って行われていた。懸の木は,蹴り上げられた鞠の軌道を不規則にして競技性を高めるために,鞠場には必須の設備とされていた。
(図書寮文庫)
本図は,寛政11年(1799)に出版された京都の名園案内書に描かれた蹴鞠の風景。本文の説明には,当時は七夕を恒例の開催日として,飛鳥井・難波両家で蹴鞠の会が開催されたとある。この両家は,蹴鞠が貴族社会に受け入れられていく中で,技術・故実(作法)を蓄積した家として成長し,いわば蹴鞠の家元として指導的な立場に立った。画像から鞠場の周囲に柵が設けられ,競技者と観覧者とが明確に分けられていることがわかる。技術の高度化・複雑化によって,蹴鞠は遊戯から競技として鑑賞・観覧の対象に変化していったと考えられる。
(図書寮文庫)
本図は,紫宸殿の南庭で,相撲節会(すまいのせちえ)を行っている様子を描いたもの。天皇と相撲との関係は,『日本書紀』にみえる第11代垂仁天皇の時代まで遡り,野見宿祢(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力を争ったのを御覧になったのが始めとされている。
平安時代以降は,相撲節会として毎年7月に諸国から集めた相撲人が行う相撲の取り組みを天皇が御覧(天覧)になる儀式となった。左右の近衛府が相撲人を分け,左方は葵,右方は夕顔の造花を頭に着けて犢鼻褌(たふさぎ,下帯)姿で相撲を取った。勝った方は着けていた挿花と狩衣等(入場時に着ていたもの)を次の番の相撲人に渡すことになっていた。この節会は平安時代の初頭から毎年行われていたが,院政期(11世紀)に停止・再興を数度繰り返し,やがて承安4年(1174)を最後に途絶えたとされる。本図は,天明3年(1783)に松岡辰方が書写したもの。
(図書寮文庫)
平安時代末期に相撲節会(すまいのせちえ)が途絶えた後,武士の世においては,相撲は武術として奨励され,また興行相撲など娯楽としても流行した。本書は江戸時代の寛政3年(1791)6月11日に,江戸城内の吹上で行われた第11代将軍徳川家斉臨席による初めての上覧相撲の様子を書きとめたもの。本書は,陪観(身分の高い人に付き従い見物すること)を許された幕府の旗本であった成島峯雄が書いた記録で,この時の出場力士には小野川・谷風の両横綱や最強と讃えられた雷電の名も見える。
本書は,寛政6年,松岡辰方が人に依頼し書写させたもの。
(図書寮文庫)
本図は,馬に乗らず,立った姿勢で弓を射る歩射(ぶしゃ)の種目の一つ草鹿(くさじし)の射場の見取図で,画像は,鹿をかたどった的の部分。本図は江戸時代中期頃に書写されたもので,松岡家に伝えられた。
草鹿は,本来野の鹿を狩る練習として行われるものであるため,鹿をかたどった作り物を的として掛けていた。射手から的までは25m前後の距離があり,的の大きさは胴体部分が55cm×25cm程度のもの。実際の射技は,伝統的な作法にのっとって射ることや,星(胴体の斑点模様)に的中すること,更にはどの星に的中したのかを申告することで初めて当たりとみなされるなど,的中以外の要素も求められる競技となっていった。
(図書寮文庫)
走り回る犬を騎馬で追って稽古する犬追物(いぬおうもの,犬を傷付けないよう蟇目という特殊な矢を使用)は鎌倉時代に始まったが,世の乱れに従って廃れた。やがて江戸時代になると,室町時代から続く大名の小笠原・島津両家と室町幕府の儀礼を担当した伊勢家の子孫が作法を伝えるだけとなった。
本図は,弓弦が袖を払わないよう犬追物で左腕に着用する「犬射籠手」(いぬいごて)の紙製の模型。外袋には,伊勢家伝来の室町幕府の様式だと書かれている。本品を所蔵していた松岡辰方は伊勢家の当主貞春の弟子であった人物。なお,ほかの2点は,辰方と交流のあった本多忠憲という有職故実研究家が所持していた小笠原流の仕様による籠手の紙製の模型。