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(図書寮文庫)
本書は,従三位中納言紀長谷雄(きのはせお,845-912)の詩文集である。長谷雄は,菅原道真などの当時最高の学者に師事した文人貴族。本書は,巻14の断簡で,かつ巻頭が欠けてはいるが『紀家集』唯一の伝本である。延喜19年に大江朝綱(おおえのあさつな,886-958)によって書写されたもの。紙背には延喜10年代の11通余の申文(任官を願う上申文書)があり,これも貴重である。伏見宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,伏見天皇(第92代,1265-1317)の宸筆御集(御製集)である。能書で知られる伏見天皇であるが,なかでも緩急自在に書かれたこの御集の断簡は「広沢切」と称され特に珍重されている。本書の紙背(裏面)は嘉元5年(徳治2年,1307)の具注暦で,その裏に夏の歌を書写して一巻としている。恐らくは天皇御自身が,御製集編纂のために書写した草稿本と推測される。
(宮内公文書館)
明治2年(1869)3月10日付H・シーベル宛都築荘蔵・町田久成書簡。外国官(後の外務省)から在横浜スイス公使に明治天皇の東京再幸について知らせている。シーベルはスイス総領事代理を務め,シーベル・ブレンワルト商会を営んだ人物である。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治7年(1874),横浜灯台寮への行幸啓関係書類。洋式灯台を天覧した翌日には,横浜の実業家高島嘉右衛門(かえもん)が創業した横浜瓦斯(がす)会社にも行幸啓があった。洋式灯台や瓦斯灯は横浜の文明開化を象徴するものであった。
(宮内公文書館)
明治32年(1899),日本競馬会社から根岸競馬場への行幸を出願した書類。日本競馬会社社長アーネスト・サトウが英文で提出した。天覧競馬は計13回行われたが,不平等条約が改正された同年をもって,内外の社交場であった競馬場への行幸は最後となった。
(宮内公文書館)
明治43年(1910)・44年に行われた日本競馬会の入場チケットと番組表。根岸競馬場は慶応2年(1866)から昭和17年(1942)まで,近代競馬の中心的役割を果たした。明治天皇の行幸や優勝賞品の下賜(かし)など,皇室として競馬文化を積極的に奨励した。
(図書寮文庫)
本書は,中国南宋の陳実(ちんじつ,12世紀頃の人)が,仏教経典の集大成である大蔵経から,事項を抜粋・分類した索引・内容一覧的な仏教書である。
徳川家康が慶長20年(1615)に隠居所駿府(静岡)で出版を命じた「駿河版」(するがばん)と呼ばれる金属活字で印刷した図書のひとつ。家康を深く尊崇する徳川吉宗は,幕府の図書館である紅葉山文庫に,家康の出版物が欠けていたため,元文5年(1740),当時和歌山藩に伝来していたこの大蔵一覧集を取り寄せ紅葉山文庫に収蔵したのである。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代の律(刑法)の注釈書である故唐律義疏の序文。徳川吉宗は,中国の律令を知るために学者荻生観(おぎゅうかん,荻生徂徠の弟)に故唐律疏義の本文を校訂させ,さらに当時長崎に来ていた中国人沈炳(しんへい)も校訂を依頼した。沈は校訂した本文に刑部尚書(けいぶしょうしょ,清の法務大臣)励廷義自筆の序文を副えて献上したのである。本書はその自筆本。
(図書寮文庫)
本書は,中国清王朝第4代皇帝聖祖(康熙帝)が,康熙28年(1689)琉球国中山王尚貞の朝貢(臣下としての礼をとること)に対する答礼の書の写。前半が漢文(右端より始まる),後半が満洲文字(左端より始まる)で書かれ,下賜品の目録なども載る。本書は細部まで丁寧に模写されており,江戸中期に琉球国から幕府に提出されたものという。正徳6年(1716)6月10日に吉宗が本書を閲覧した記録が残る。
(図書寮文庫)
琵琶の3つの秘曲の譜面で,文永4年(1267)と5年に,刑部卿局から後深草上皇(1243-1304)へ3秘曲伝授が行われた際に作成されたもの。譜のあとに「さつけまいらせさふらひぬ」(お授け申し上げました)とみえることから,伝授状と分かる。刑部卿局は本名を藤原博子といい,下級貴族の出身ながら琵琶の名手として宮中に仕えた女性であった。上皇にたてまつる伝授状にふさわしく,上下藍色の雲紙が用いられ,3曲の中でも最秘曲にあたる啄木調(たくぼくちょう)には,金泥の界線が施されている。
(図書寮文庫)
我が国の琵琶のおこりは,遣唐使藤原貞敏(さだとし,807-67)が唐の廉承武(れんしょうぶ)より奏法を学び,その技術を持ち帰ったことに始まるとされる。本系図は,それから鎌倉時代に至るまでの相伝の系譜で,50余名におよぶ人名が記されている。中には「従三位源博雅」「太政大臣藤原師長」など朝廷に重きをなした公卿のほか,「賢円」「院禅」など僧侶や「尾張尼」「息女」などの女性もみえる。のちに琵琶の相伝には西流(にしりゅう)・桂流(かつらりゅう)の二つの流派が発生し,西流は鎌倉時代の公卿西園寺公経(さいおんじきんつね,1171-1244)までが本系図に記載される。公経は,朝廷の要職にあって鎌倉幕府とも緊密な関係を築いた公卿で,琵琶や和歌にも優れた功績をのこした。一方の桂流は僧春円まで記載され,その箇所に「系図に入れおわんぬ。正応四年(1291)十月五日清空(花押)」と書き込みがあり,本系図のおおよその成立年代が判明する。
(図書寮文庫)
寛喜元年(1229),楽人の多久行(おおのひさゆき,1179-1261)が著した番舞(つがいまい)の目録,すなわちプログラムの例である。番舞(舞番とも)とは,唐楽の舞(左方舞)と高麗楽の舞(右方舞)とを一曲ずつ組み合わせたもので,本文の上段が左方舞・下段が右方舞にあたる。その組み合わせはほぼ決まっていて,舞楽においてはこの内の数番が奏される。各曲にまつわる多氏所伝の秘説なども併記されており,跋文によれば,後堀河天皇(1212-34)の「勅問」により注進したという。久行が天皇に奉呈した原本そのものである可能性が高い。宮廷儀礼において実質的に奏楽を務めたのは多氏や狛氏のような楽人で,時に彼らは皇族や貴族の師範ともなった。
(図書寮文庫)
唐楽を相伝した南都興福寺の楽人狛氏の当主狛近真(こまのちかざね,1177-1242)が後代のために著した10巻から成る楽書。舞楽曲に関する故実口伝,器楽の奏法心得など,歌舞奏楽にかかわる一切を総合的にまとめたもの。狛氏相伝の教えにとどまらず他家に伝わる楽曲等についての言及も多い。天福元年(1233)の成立で,本書はその室町時代はじめ頃の写本である。近真は当代きっての名人とされたが,子息が跡を継がず,技術の途絶を憂いて本書が著されるに至った。本文中にも「(息子たちが)道を継承しないのは宝の山に入って手ぶらで出てくるようなものだ」とみえ,近真の口惜しさが伝わってくる。
(図書寮文庫)
催馬楽(さいばら)とは歌謡の一種。建治2年(1276)8月1日,当時12歳の熙仁親王(1265-1317,後の伏見天皇)が催馬楽の秘曲「安名尊」(あなとう)を権大納言四条隆顕から伝授された時の様子を,親王の御父後深草上皇がみずから記録されたものとみられる。いわば俗曲である催馬楽を皇族が習うことは稀であるとしながらも,かつて延喜の聖代に醍醐天皇(885-930)が歌謡を学ばれた例や,院政時代,鳥羽(1103-56)・後白河(1127-92)両院も好まれたことなどを挙げ,その佳例に連なるものとする。