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(選択を解除)(宮内公文書館)
「帝室例規類纂」は,明治期の宮内省に関係する公文書類を,年別・部門別に転写・集成したもので,明治22~43年(1889~1910)に宮内省の内部部局である図書寮(としょりょう)によって編纂された。画像は,明治7年(1874)の陵墓関係の部門に収録された,明治天皇皇子・稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこと)墓及び同皇女・稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)墓の営建に関する文書の一部である。
稚瑞照彦尊及び稚高依姫尊は,お二方とも明治6年(1873)の御誕生直後に薨去(こうきょ)され,護国寺(ごこくじ 現・東京都文京区大塚)の旧境内地に設定された墓域(現・豊島岡墓地(としまがおかぼち))に埋葬された。画像の絵図は,お二方の御墓の営建時に宮内省が作成した完成予想図である。円丘状の基壇上に自然石の墓標(ぼひょう)が載り,その周囲を石造と木造の二重の玉垣(たまがき)がめぐる。正面には木造の鳥居も描かれている。近代皇族墓制のはじまりを考える上で,貴重な資料といえる。
(図書寮文庫)
悠紀主基屏風は,大嘗会に際して卜定(ぼくじょう,占いによって決定される意)された悠紀・主基両国郡の名所風俗を絵に描き,悠紀・主基それぞれ六曲一双(6面で一隻の屏風2隻を一組としたもの)として制作されるもので,大嘗会毎に新調されるのを例とした。また,両国郡に因んだ和歌が詠進され,色紙形(しきしがた)とよばれる料紙に万葉仮名で書かれて屏風に貼られた。完成した屏風は,大嘗会後の節会で披露された。
大嘗会は応仁の乱(1467-77)以降行われなくなり,江戸時代前期の第113代東山天皇御即位の時(貞享4年,1687)に再興されたが,大嘗会の和歌詠進は,第115代桜町天皇の元文3年(1738)の大嘗会にようやく復活した。
掲出の図書は,その時の詠進者2名―悠紀国(滋賀県):烏丸光栄(からすまる みつひで),主基国(京都府):日野資時(ひのすけとき)―がそれぞれ18首ずつの和歌を自筆で記した懐紙原本である。詠進者の烏丸光栄・日野資時は共に日野一流で,当時著名な歌人として知られた公家であった。
文中にみえる六帖とは,1年12ヶ月を2ヶ月分で1回,月次和歌(つきなみわか)3首として詠進するため,その回数を6回(12ヶ月÷2ヶ月)と考えることによるもの。和歌は,悠紀・主基各18首(3首×6回)となる。もと外記局に伝来。
明治時代以降は歌数に変化があったが(明治各2首,大正以降各4首),令和度においても悠紀主基屏風は,名所が描かれた屏風一隻ごと(合計4隻)にそれぞれ和歌2首(合計8首)の色紙形が貼られ,大嘗宮の儀のあとに催された大饗の儀で披露された。
(図書寮文庫)
第113代東山天皇の御即位に伴う貞享度の大嘗会(貞享4年,1687)に際し調進された装束や調度品ほかを描いた小形の折本(おりほん,経典のように折りたたんだ形態の図書)。理由は不明であるが料紙に直接描いた絵と,別紙に描いて貼られた絵とがある。右の絵は,渡御の際に天皇の頭上を覆う御菅蓋(おかんがい)と呼ばれるものを描いたもので,令和度の大嘗会でも同様のものが用いられている。左の絵は,冠にさす挿頭(かざし,挿花頭とも書く)の一種で心葉(こころば)という。これらは金属で作られたが,絵はそのことがよくわかるように描いている。ほかにも大嘗宮内の調度品や神饌(しんせん,お供えの酒食)等の絵がある。
掲出の図書は,朝廷にあって出納(すいのう,儀式の調度品や文書類の出納を行う職)を務めていた平田家に伝来したもので,応仁の乱後中絶していた大嘗会がようやく再興されたところから,今後の参考資料とするため念入りに描いたものと推測される。
(陵墓課)
帯金具とは帯に取り付けられた金具であり,明治18年に現在の大塚陵墓参考地の石室から出土した。鉸具(かこ)・帯先金具(おびさきかなぐ)・円形把手付き座金具(えんけいとってつきざかなぐ)各1点と銙板(かばん)11点(うち1点は垂飾部分と銙板の一部のみ残存)が出土しており,帯金具の全容がわかる貴重な事例となっている。鉸具と帯先金具には横向きの龍,銙板には三葉文が,透彫り(すかしぼり)と蹴彫り(けりぼり)という彫金技術で表現されている。
形態,文様,製作技術に共通点が認められる帯金具が中国晋代(265年-420年)の墳墓で多く出土しており,本品も中国大陸で製作されたものであろう。晋王朝において帯金具は身分を表象するものであり,このモチーフは主に将軍職などの武官が身に帯びたものであったと考えられている。
一方,日本列島では,本品のような晋代の帯金具は他に兵庫県加古川市行者塚古墳で出土しているのみである。これらの帯金具がどのような経緯で日本列島に渡ってきたのかは定かではないが,当時の日本列島と中国大陸との交流を考える上で重要な事例となっている。
(陵墓課)
盾をかたどった埴輪である。墳丘に立て並べるための円筒部分の上半部に,盾面をかたどった四角い板状の部分がつく。盾には,手に持ったり,腕に装着したりして使う持ち盾と,地面に立てて使う置き盾がある。古墳時代の出土例の多くは置き盾であるので,本例を始めとする盾形埴輪の多くが置き盾をモデルとしているものと考えられる。
本品は,昭和46年に,奈良県奈良市に所在する垂仁天皇皇后日葉酢媛命(すいにんてんのうこうごうひばすひめのみこと)狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)で出土した。見張所の建替工事中に出土した不時発見であったため,残念ながら詳細な記録がないが,断片的な情報を総合すると,墳丘と外堤をつなぐ渡土堤の上面を横断するように並べられていた埴輪列のなかのひとつであったと推測される。
現状では破片を組み合わせて高さ116.5㎝に復元されている。しかし,盾面部分の上部は失われているため,本来の高さは150㎝以上あったものと考えられる。
本品を含め,同時に出土した埴輪の円筒部分はいずれも直径が50~60㎝あり,通常の円筒埴輪に比べるとかなり大きなものとなる。防具の形をした埴輪と,大きな円筒埴輪を渡土堤上に立て並べることで,墳丘内への侵入不可を表しているとの説がある。
(宮内公文書館)
「大礼調度図絵」は,明治天皇の即位礼に際して用いられた調度品を描いたものである。彩色されており,視覚的に調度の色や形状を知ることができる。同資料は,大正期に描かれた。国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,同資料と類似した絵図がみられる。写真箇所は,玉座である高御座(たかみくら)の正面と裏面を描いたもので,現代の即位礼で用いられる高御座と比べると簡素な造りであることがわかる。
明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)8月に挙行された。挙行に際して,岩倉具視は,津和野藩主亀井茲監(かめいこれみ)らに庶政一新の折に新たなる即位礼の様式も模索させた。結果として,唐制の礼服(らいふく)が廃止され,前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が献上した地球儀が儀式に用いられたほか,明治政府の官僚も参加するなど改められた。
(宮内公文書館)
本資料は,昭和大礼における即位礼・大嘗祭後に催された饗宴(きょうえん)(大饗〈だいきょう〉)の際の献立である。大礼とは,践祚(せんそ)(皇位を継承すること)の後,即位を内外へ広く知らせるために行われる一連の儀式である。昭和天皇の即位礼は,昭和3年(1928)11月10日に京都御所にて挙行された。11月14日・15日の大嘗祭(だいじょうさい)を終えると,16日・17日の2日間にわたって大饗が催された。京都御所の東側に仮設された饗宴場にて,天皇・皇后の御臨席のもと,皇族,内閣総理大臣以下閣僚,官僚,各国大公使などを招いて行われた。1日目の「大饗第一日の儀」は944名が,2日目の「大饗第二日の儀」は203名が,同日の「大饗夜宴の儀」は2,779名がそれぞれ参列した。
写真は,17日の「大饗第二日の儀」の献立である。朱塗りの門を彩色で描いた表紙(写真右側)を開くと,写真左側には西洋料理のコース(和文・仏文)が見える。献立には鼈清羹(スッポンのコンソメスープ),鱒蒸煮(マスの料理),鶉煮冷(ウズラの冷製),牛肉焙焼(牛フィレ肉),凍酒(シャンパンのシャーベット),蔬菜(セロリのサラダ),七面鳥炙焼(七面鳥のロティ),温菓(デザート)というメニューが並んでいる。
(陵墓課)
本資料は,いわゆる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」に分類される鏡である。三角縁神獣鏡とは,その名のとおり鏡の縁の断面が三角形であり,さらには,中央部にある紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形突起の周囲の区画(内区)に,古代中国に登場する神仙や神獣の文様が表現されている鏡の総称である。
三角縁神獣鏡は,神仙・神獣の数,その他の文様との組み合わせなどによるバリエーションが非常に多い。また,古代の鏡としては比較的大型の部類に属し,直径20㎝をこえるものが多いことが特徴である。
本資料の内区には,2体並んだ神像が2組と,2体が向き合う獣像2組が,鈕をはさんで配置されており,そこから,四神四獣鏡の名がある。本資料の2組の神像は,それぞれ「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」と呼ばれており,古代中国の神仙思想を反映したものである。
奈良県大塚陵墓参考地からは,34面の鏡が出土しているが,本品を含めて9面が三角縁神獣鏡に分類されるものである。
本資料の直径は22.6㎝。同じ鋳型から造られたと考えられる鏡が,京都府木津川市の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から出土している。
(陵墓課)
この鏡は,明治18年に奈良県大塚陵墓参考地の石室から出土したものである。直径28.0㎝。
背面の中央には紐を通すための鈕(ちゅう)と呼ばれる半球形の突起があり,鈕からは葉っぱのような文様が四方にのびている。そこから外側は同心円で3分割されており,最も内側の区画と最も外側の区画は日本の古墳時代特有の文様で,直線と曲線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)が鋳出(いだ)されている。
一方,2番目の区画に鋳出された8つの花文(弧文)は,中国大陸に起源を持つ「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」という種類の鏡と同じ特徴を持つ。ただし,本鏡の八花文は花文の一単位ごとで内区に近い部分に突出した箇所があり,単純に弧線を描くわけではなく独自のアレンジが加えられている。
つまりこの鏡は,大陸から伝わった鏡の文様に日本独自のアレンジを加えて,日本列島で製作されたものと考えられる。当時の鏡作り職人の創意工夫が感じられる資料である。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府羽曳野市に所在する応神天皇恵我藻伏崗陵から出土した蓋形埴輪である。
蓋とは,身分の高い人が外出する際にさしかける日傘のことで,衣笠や絹傘とも表記される。現在でも,お堂や厨子(ずし)の中に安置されている仏像の頭上に吊されているものや,寺院の儀式において身分の高い僧が歩く際にさしかけられているものを見ることができる。
蓋形埴輪のうち,蓋そのものを表現しているのは上半部で,下半部の台部は墳丘上に立て並べるためのものである。蓋部分は,スカート状に広がる笠部と,笠部の上の飾りを表現した立ち飾り部からなる例が多い。本品も,本来は上部の円筒部に立ち飾り部が差し込まれていたと思われるが,現在は失われている。
笠部には,横向きに粘土の帯を貼り付け,その上下の区画に,間隔を空けて縦向きの線が刻まれている。実物の蓋は,布や板などを骨組みに貼り合わせて作られていたと考えられており,粘土の帯や線刻はこれを表現したものと考えられる。現状高59.1㎝,笠部直径69.8㎝。
(陵墓課)
この鏡は,奈良県の佐味田(さみた)宝塚古墳から明治14年(1881)に出土したものである。鏡の裏面に四棟の建物が描かれていることから,家屋文鏡の名で呼ばれている。このような文様を持つ鏡はほかに知られておらず,唯一無二のものである。
中国からの輸入品ではなく日本で作られた鏡を「倭鏡(わきょう)」と呼ぶが,本鏡は,日本独自の発想により作られた,倭鏡の典型例といえよう。
四棟の建物は,写真上から時計回りに,高床住居(たかゆかじゅうきょ),平屋住居(ひらやじゅうきょ),竪穴住居(たてあなじゅうきょ),高床倉庫(たかゆかそうこ)をモデルにしていると考えられている。これらの建物の性格をどのように解釈するかについては諸説あるが,身分が高い人物が住む屋敷に建っていたものではないかとの指摘がある。また,建物以外にも,神・蓋(きぬがさ)・鶏・樹木・雷などが表現されており,当時の倭人の世界観を考える上でも重要である。
本鏡は,考古学の分野だけではなく,建築史や美術史などの分野の研究においても極めて重要な資料といえる。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(陵墓課)
本資料は,日本ではきわめて珍しい古墳時代の金銅製冠の破片である(推定最大幅63.9cm)。金銅とは銅板に金メッキを施したもののことで,現在は銹びて緑色となっているが,かつては金色に光輝いていた。
写真下側の左右に広がっている部分が,頭に巻く帯に相当する部分である。帯の幅は広く,上の辺と下の辺は平行ではない。上の辺に山のような盛り上がりが2つみられることから,こうした冠を「広帯二山式(ひろおびふたつやましき)」と呼んでいる。また,写真上側の中央に置かれているのは,正面に立っていたと思われる角(つの)の形の立飾(たちかざり)の破片である。
帯には透かし彫り(すかしぼり)が施されている。剣菱(けんびし)のような形を主文様とし,帯の上縁と下縁には波のような形が巡らされている。また,帯の表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる円形と魚形の飾りが,銅線で括り付けられている。魚形の歩揺には眼,口,鱗(うろこ),鰭(ひれ)の筋が鏨(たがね)で彫られており,写真を拡大すればその詳細を確認することができる。現在は銹び付いて動かないが,当時これらの歩揺は,ゆらゆらと揺れ動いていたであろう。
(陵墓課)
本資料は「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれる鏡の一種で,現状での直径は9.6㎝である。全体が銹(さび)に覆われているが,レントゲン写真によって文様や銘文の詳細が判明した。
鏡裏面の中心には紐(ひも)をとおすための「鈕(ちゅう)」と呼ばれる盛り上がりが作られ,その周りには,コウモリが翼を広げたような形の文様が4方向に配置されている。4つのコウモリ形の文様の間には,「長」,「宜」,「子」,「孫」の字が配置されている。これは,「長く子孫に宜(よろ)し」と読み,「(この鏡を持てば)子孫が長く繁栄します」という意味である。
本資料は,文様の特徴でみると,中国の後漢で2世紀前半に製作されたものとなる。一方,この鏡が出土した妻鳥陵墓参考地は,他の出土品からみて6世紀代に築造されたものだと考えられ,製作されてから日本で副葬されるまでに,四百年前後の時間差がある。この間,どのような人の手を経てきたのかは分からないが,日本の古墳時代における鏡の存在意義を考えるときには,非常に興味深い事例である。
(陵墓課)
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま:写真①)に代表される玉は,現代においても装飾品として馴染みがある。古墳時代には,これに加え,祭りの道具としての性格を重視した玉も作られた。この写真の勾玉(写真②)や臼玉(うすだま)とも呼ばれる小玉(こだま:写真③)は,形は装飾品の玉と変わらないが,一般に滑石(かっせき)と呼ばれる灰色を基調とした加工しやすい軟らかい石材で,祭りの道具として作られている。これらの玉とともに祭りに用いるための道具として石で作られたものには,小型のナイフをかたどったもの(石製刀子[せきせいとうす:写真④,⑤]),矢じりをかたどったもの(石製鏃[せきせいぞく:写真⑥]),剣をかたどったもの(石製剣[せきせいけん:写真⑦])などがあり,これらを「石製模造品」と呼んでいる。
これに対して,車輪石(しゃりんせき:写真⑧,⑨)や鍬形石(くわがたいし,[石製品残欠:写真⑩]はその一部だと考えられている)などと呼ばれる腕輪の形を模した製品は「石製品」と呼ばれ,見た目にもきれいな緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)などが使われており,権威の象徴としての宝物と考えられている。
これらの出土品から,当時の権力者が持っていた宝物や,権力者の葬儀に伴う祭りの一端を垣間見ることができる。
(参考:[石製刀子:写真⑤=長さ8.6センチ],[残欠(ざんけつ)=破片のこと])
(陵墓課)
本資料は,中国からもたらされた鏡で,バラバラに割れていたが,足りない部分を補って修復している(直径17.9センチ。)。中心部にある紐かけ=鈕(ちゅう)のまわりに,侍者を従えた2つの神像と,向かい合う2頭の獣像2対の図像が配置された,「二神四獣鏡」である。2神は,「東王父(とうおうふ)」と「西王母(せいおうぼ)」,向かい合う獣像は,龍と虎であろう。図像の外側には銘文(めいぶん)が巡らされており,現状で10字を確認できる。うち2字は部分的にしか残っていないが,ほかの鏡の例を参照することで,「竟 幽 湅 三 [商]」,「配 象 [萬] 彊 曽」と判読できる。その意味は,「この鏡(を作る際には),三種の金属をよく混ぜ合わせた。」,「・・・多くの図像を配置した。(寿命が)のび・・・」というものである。
鏡の縁の断面の形が左右対称の三角形状となる鏡を「三角縁」と呼ぶことは広く知られている。それに対し,この鏡は,鏡縁の外側斜面に比して内側斜面の角度が緩く,断面形が左右対称の三角形状とはならない。こうしたものを「半三角縁」,あるいは「斜縁」と呼称している。
(陵墓課)
この鏡は本参考地出土のなかでは最も残りがよいものであるが,現状では縁の一部が欠けており,その部分を補って修復している(直径13.3センチ)。主文様は,鈕(ちゅう)を取り囲むように配置された2体の獣像である。これらは胴部の表現が異なっており,鱗状の表現が認められるものが龍,もう1体が虎と考えられる。本来の龍虎の表現とは少し異なっているが,まだ見分けが付く段階のものである。龍と虎の外側には,直線を組合わせた記号のような文様が巡るが,ここは本来銘文(めいぶん)が巡る場所である。しかし,文字が認識できなかったため,記号のようなものになってしまっている。以上のことから,中国鏡を真似て日本列島で製作された鏡であると考えられる。
なお,発掘直後の報告では鈕の中に紐が残っていたとされるが,現状では何の痕跡もみられない。
(陵墓課)
本資料の弓弭(ゆはず)(写真左側,長さ6.6センチ)は弓の両端に付けて弦(つる)を掛ける部品,矢筈(やはず)は矢の後端に付けて弦に引っ掛けるための部品で,ともに銅の鋳造品である。弓筈の表面はほとんどサビで覆われているものの,金色のメッキもわずかに残る。矢筈についても弦を受ける部分にごく少量のメッキが残ることから,作られた当初は黄金色であったと考えられる。
(宮内公文書館)
本絵図は明治天皇の即位礼の場面を描いたものである。明治天皇の即位礼は,明治元年(1868)年8月27日に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で執り行われた。王政復古が実現し,古典を考証するなかで,それまでの唐風が排され,儀式に地球儀が用いられるなど,新しい趣向が凝らされた。
本絵図を収めている「明治天皇紀」附図の稿本は,宮内省に大正3年(1914)に置かれた臨時編修局(のち臨時帝室編修局)が作成したものである。この附図1帙(ちつ)は,「明治天皇紀」260巻とともに昭和8年(1933)に昭和天皇へ奉呈された。制作したのは,2世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)。奉呈された附図と稿本では構図や彩色等に微妙な差異があり,奉呈本が81題あるのに対して稿本は54題のみ伝わっている。鉛筆書のメモに見えるように,附図の作成に当たっての丹念な時代考証の跡がうかがえる。
(宮内公文書館)
明治天皇の即位礼の調度のうち,玉座(ぎょくざ)である御帳台(みちょうだい)の屋形内部の絵図。彩色を施した絵図からは,儀式で用いられた調度品について視覚的に形状を知ることができる。新政府内では,即位の礼を王政復古・庶政一新の時にふさわしい皇位継承の典儀として挙行すべく,古典などの考証が進められた。その結果,調度品からは唐風のものが一掃された。新しい点としては,幕末期に前水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)から孝明天皇へ献上された地球儀などが用いられた。
本図は宮内省内匠寮(たくみりょう)に伝わったものだが,国立公文書館所蔵「戊辰御即位雑記付図」の中には,これと類似した絵図がみられることから,原図は新たな式次第の検討に深く関わった亀井茲監(かめいこれみ)が中心となって作成させたものと思われる。