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(選択を解除)(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭に使用された調度品や儀式の模様を描いた画帖。上・下二冊からなり,作者は不詳である。上巻には祭具や神饌が,下巻には悠紀(ゆき)・主基(すき)国郡卜定(こくぐんぼくじょう)から大嘗祭当日までの諸儀の場面などが描かれている。本絵図は大嘗祭当日,明治天皇が廻立殿(かいりゅうでん)(沐浴をし,装束を改める殿舎)を出られ,柴垣内の斎殿に向かわれる場面を描いている。この後,悠紀殿(ゆきでん),続いて主基殿(すきでん)へと移り,祭儀が進められた。
「明治天皇紀」編修の過程で宮内省臨時帝室編修局が取得したが,その前は同省式部職が所蔵していた。作成年は不明であるが,画家浮田可成(うきたよしなり)が一部を模写したものが国立公文書館所蔵「公文附属の図」に含まれており,その奥書に明治27年(1894)3月と年紀があることから本資料はそれ以前の作だと判明する。
(宮内公文書館)
明治22年(1889)2月11日,憲法発布式が午前10時40分から宮中の正殿において催された。式典には,内閣総理大臣黒田清隆(くろだきよたか)や枢密院議長伊藤博文(いとうひろぶみ)をはじめ,皇族や元老,閣僚,陸海軍将官,地方長官,高級官僚,各国公使以下の外国人らが出席している。明治天皇は内大臣の三条実美から憲法の入った筥(はこ)を受け取った後,勅語を述べられ,憲法を黒田に授けられた。式典後,天皇は青山練兵場へ行幸し観兵式(かんぺいしき)に臨まれ,午後7時からは豊明殿(ほうめいでん)ほかで宴会が催された。
絵画は,薩摩藩出身で司法省検事の床次正精(とこなみまさよし)が描いた記録絵画のうちの1枚である。絵画は8枚組であり,観兵式臨幸之図(かんぺいしきりんこうのず)や豊明殿御陪食之図(ほうめいでんごばいしょくのず)などが含まれ,発布式当日に行われた一連の行事の様子が伝わる。
(宮内公文書館)
明治27年(1894)3月9日,明治天皇と昭憲皇太后の御結婚満25年を祝う式典が挙行された。天皇・皇后は鳳凰(ほうおう)の間に出御(しゅつぎょ)し,有栖川宮熾仁親王をはじめとした皇族方や,内閣総理大臣伊藤博文ら200余名の拝賀を受けた。その後,在日外交官を通じて外国元首からの祝賀を受けられ,青山練兵場にて観兵式(かんぺいしき)に臨まれた。還御(かんぎょ)後,豊明殿(ほうめいでん)にて祝宴が催され,さらに正殿にて舞楽を御覧になっている。
絵画は舞楽のうち,太平楽を御覧になっている場面で,記録に基づいて祝典当日の模様を再現描写したものである。正面中央の台座に着席された天皇の右側には皇族男子,及び宮内大臣をはじめとする高官・外国使臣とその夫人が,一方,皇后の左側には皇族女子が陪席している。舞楽の陪覧者は男子1072人,女子136人に上った。
(図書寮文庫)
黄赤緑紫白の5色の料紙を用いて作られた『源氏物語』の江戸時代の写本。かつて京都御所に伝えられ,天皇の手許におかれ読まれたと考えられる御所本のうちの一つ。
画像は源氏物語54帖のうちの須磨巻で,失脚して都を離れ,須磨に侘び住まいしていた源氏が,陰陽師を召して上巳(じょうし)の祓えを行わせる場面。「舟にことことしき人形のせて流すを見給ふに,よそへられて」と,祓えの後に人形が須磨浦に流される様子を,須磨の海辺に流浪する自身の身の上と重ね合わせている。
(図書寮文庫)
室町時代前期の陰陽師である賀茂在貞(かものあきさだ,1388-1473)が,2月の末に貴族の万里小路時房(までのこうじときふさ,1394-1457)に送った書状。上巳の祓に用いる人形を進上しますと伝えている。時房は,受け取った書状の紙背(裏面)を自分の日記『建内記』の嘉吉3年(1443)2月30日条の料紙として用い,「在貞から人形が到来したので枕元に置いた」と記している。人形を身近に置いて罪や穢れを移した後,また在貞に返して祓えが行われたと考えられる。伏見宮家旧蔵本。
(陵墓課)
奈良県桜井市に所在する倭迹迹日百襲姫命大市墓から出土した壺形埴輪である。
平成10年の台風7号は近畿地方を縦断して大きな被害を与えたが,大市墓においても墳丘上の樹木が多数倒れる被害が出た。本品は,その倒木の根起きによって出土したものである。
外見からは,通常の土器である「土師器(はじき)」の壺と区別することが難しいが,実は,焼き上げる前から底に孔があけられている。「貯める」という,壺の基本的な機能が否定されていることから,最初から「埴輪」として作られたことがわかる。
大市墓では昭和40年代にも壺形埴輪が出土しており,それと考え合わせると,前方部頂上の平坦面に,多数の壺形埴輪が置かれていたと考えられる。
(図書寮文庫)
本図は,紫宸殿の南庭で,相撲節会(すまいのせちえ)を行っている様子を描いたもの。天皇と相撲との関係は,『日本書紀』にみえる第11代垂仁天皇の時代まで遡り,野見宿祢(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が力を争ったのを御覧になったのが始めとされている。
平安時代以降は,相撲節会として毎年7月に諸国から集めた相撲人が行う相撲の取り組みを天皇が御覧(天覧)になる儀式となった。左右の近衛府が相撲人を分け,左方は葵,右方は夕顔の造花を頭に着けて犢鼻褌(たふさぎ,下帯)姿で相撲を取った。勝った方は着けていた挿花と狩衣等(入場時に着ていたもの)を次の番の相撲人に渡すことになっていた。この節会は平安時代の初頭から毎年行われていたが,院政期(11世紀)に停止・再興を数度繰り返し,やがて承安4年(1174)を最後に途絶えたとされる。本図は,天明3年(1783)に松岡辰方が書写したもの。
(図書寮文庫)
平安時代より行われた,宮中の年中行事である追儺の儀式の順序を記した図書。追儺は中国から伝わった疫病を払う儀式で,中国では季節の変わり目に,日本では大晦日の夜(午後8時前後)に行われていた。追儺は社寺や民間でも行われるようになり,室町時代になると節分の豆まきと結びつき現在のような形となったとされる。画像は,疫病の原因となる疫鬼(えきき)という鬼の姿。鬼は病を引き起こすものという認識があったことが分かる。本書は江戸時代末期に書写されたもの。
(宮内公文書館)
明治5年(1872)9月12日,横浜鉄道館で行われた鉄道開業式の写真。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業した。本写真から,式典や開業当初の駅舎の様子がうかがえる。神奈川県知事井上孝哉から大正10年(1921)に宮内省臨時帝室編修局へ寄贈されたもの。
(宮内公文書館)
明治4年(1871)の大嘗祭(だいじょうさい)に際して安房国は主基(すき)地方とされた。悠紀国・主基国の風俗を描いた2隻1双の屏風がそれぞれ作成されたが,本資料は主基国の左隻の写し。屏風絵の作者は樋口守保,狩野芳信。
(図書寮文庫)
江戸時代の宮廷行事を記録するために,岩倉具視の命により中山忠能(なかやまただやす)らが編纂した儀式書並びに折帖の附図よりなる。明治20年(1887)完成。恒例・臨時あわせて169の行事を記録し,39の行事を絵画化した。図は北小路随光(きたこうじよりみつ)・樋口守保(ひぐちもりやす)らの手になる。画像は豊明節会(とよのあかりのせちえ,新嘗祭に付随する行事)の五節舞姫(ごせちのまいひめ)の様子。
(図書寮文庫)
寛永5年(1628)正月28日から30日に行われた,任官儀式の作法を伝える資料。古代以来貴族にとってきわめて重要な儀式だったので,当時からこうした資料は文字により多くの資料が編纂された。しかしこの儀式は,戦国時代には事実上中絶してしまい,江戸時代になって復活する。そのため少しでも具体的な様子がわかるように,本資料では豊富な指図によって文書の様子や墨の持ち方などを図示している。
(図書寮文庫)
平安時代初期に成立した勅撰の儀式書。上中下の3巻よりなるが,当部所蔵書は中巻のみの1巻。表紙・本文第1紙は九条道房(くじょうみちふさ,1609-47)の筆により,本文第2紙以降は鎌倉時代末期の書写とみられる。
画像は冒頭の奏成選短冊式(じょうせんたんざくをそうすしき)の部分で,2月に行われる列見(れけん,位階の昇進の決まった官人を面接する儀式)に続いて,位階が昇進する官人の名簿等を奏上する儀式。ちなみに本書では4月11日となっているが,「本朝月令」(ほんちょうがつりょう)に引用された「貞観式」(じょうがんしき)の条文には同儀式は4月7日となっており,「貞観式」において式日が変更されたことが分かる。
(図書寮文庫)
10世紀前半の成立と考えられている惟宗公方(これむねのきんかた)の撰による現存最古の年中行事書。本書は建武3年(1336)の九条道教(くじょうみちのり)の一見奥書(一覧したことを記す奥書)を持つ現存最古写本であり,4月から6月までの行事を収める。
画像は5月6日の競馬(くらべうま)の箇所で,5月5日,6日の両日に騎射(うまゆみ)とともに行われる。本書の特徴は様々な典籍の引用であるが,画像に「弘仁馬寮式」「貞観馬寮式」「貞観内匠式」とあるのは,「弘仁式」(弘仁年間〈810-24〉に編纂,天長7年〈830〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮の式や,「貞観式」(「弘仁式」を訂正,増補し,貞観13年〈871〉に施行された律令等の附属法令)のうちの左右馬寮,内匠寮の式の条文の一部である。「弘仁式」や「貞観式」は典籍としては現存しないので,「本朝月令」に引用されたこれらの条文は,「弘仁式」や「貞観式」の内容を知るうえで貴重な史料となっている。
(図書寮文庫)
大江匡房(おおえのまさふさ,1041-1111)撰による朝儀・公事の次第を詳述した書。後西天皇宸筆とされる「行類抄」(ぎょうるいしょう)との外題があるが,内容より「江家次第」巻5とみられ,本来,東山御文庫に伝来する同書と一巻をなしていた。
画像は2月11日の列見の部分。東山御文庫本はこの巻5の冒頭を欠き,釈奠(せきてん,孔子及びその弟子をまつる儒教の儀礼)の途中から春日祭の途中までを収めているが,本書はそれに続く部分で,春日祭の途中から季御読経(きのみどきょう,季毎に天皇の安寧と国家の安泰を祈願する仏事)までを収めている。両者を合わせることにより「江家次第」巻5をほぼ網羅することとなる。
(図書寮文庫)
平安時代から清涼殿には,儀式や祭祀等が書き連ねてあった衝立障子が備え付けられていた。本書はそれを書写したものである。甘露寺親長(かんろじちかなが,1424-1500)の奥書を持つ。「百官唐名」(ひゃっかんとうめい,日本の官職名に唐の官職名をあてたもの)と合綴されている。
画像は5月の年中行事の部分で,「平家本」「中家本」といった諸家の本による注記が書き込まれていたり,色分けされた読み方が見えている。これらは本奥書によれば,諸家による読み方毎に色分けしたものであり,行事名の正確な読み方が重要視されていたことが分かる。現在の清涼殿の年中行事障子については,「《京都》御所と離宮の栞(其の三)」(PDF:http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori3.pdf)を参照。
(図書寮文庫)
「年中行事御障子文」をもとに,中原師遠(なかはらもろとお,1070-1130)が新規に行事を加えたり,注記を施した年中行事書で,一般に「師遠年中行事」と称されている。鎌倉時代初期の書写本で,対応する項目の裏書がある。
画像は5月の箇所。年中行事御障子文と比較してみると,項目の増減等が若干あるもののおおよそ同じであることが分かる。小字が書かれたものが新たに書き加えられた行事である。中原家は大外記(だいげき,書類の上奏や儀式等を執り行う実務官人の上位の官)を世襲する家で,師遠も大外記を務めた。
(図書寮文庫)
平安時代末期に後白河法皇(1127-92)の命により朝廷における年中行事の場面を描いた絵巻。もとは60巻と伝えられている。江戸中期写。
画像は巻14の賀茂斎院御禊東河儀(かもさいいんごけいとうがのぎ)の部分で,賀茂祭に際して,賀茂川の西岸の御禊所で賀茂斎王(さいおう,賀茂大神に奉仕する未婚の内親王または女王)が禊をされる儀式の場面である。本書は一般に知られている禁裏に伝えられた本を住吉如慶(すみよしじょけい,1599-1670)が書写した16巻本とは別系統の20巻本である。
(図書寮文庫)
『新儀式』は,平安時代に編纂された編纂者未詳の儀式書。本来は6巻あったとされているが,現存するのは巻4,5の2巻のみ。本書には天皇御賀に関わる儀式の次第を収録している。本書は,現存する写本の中で最も古い鎌倉時代に書写されたものである。天皇御賀の儀式は,既に聖武天皇(第45代,701-56,在位724-49)の時代にあったとされており,早い時期より宮廷の中で一般化していたと考えられる。