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(選択を解除)(図書寮文庫)
本文書は、正安元年(1299)に鎌倉幕府が御家人長沼宗秀(ながぬまむねひで)に与えた下文で、宗秀の亡父宗泰の譲与のとおりに、美濃国石太・五里郷(いそほ・ごのりごう、現在の岐阜県大野町)や下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)等の領有を認めたものである。ときの執権「相模守」北条貞時と連署の「陸奥守」同宣時が花押をすえている。
長沼氏は長沼荘を本領とする御家人で、藤原秀郷の末裔、同国の大豪族小山氏の分流にあたる。家祖の宗政(小山政光の二男、宗秀の曾祖父)は、父や兄弟の小山朝政・結城朝光とともに治承・寿永の内乱(源平合戦)や承久の乱でも活躍し、陸奥国長江荘(現在の福島県南会津町ほか)や淡路国守護職を獲得した。この文書にも、長沼家が相伝した列島各地の所領等が列記されている。
本文書は本来、長沼家とその末裔皆川家の家伝文書(現在は個人蔵および文化庁所蔵などに分割)の一通だったと思われるが、いつしか分かれて園城寺(現在の滋賀県大津市)のもとに移り、のち当部の所蔵するところとなった。
(図書寮文庫)
本文書は、永徳元年(1382)に安房国守護結城直光(ゆうきただみつ、法名聖朝、1330?-1396)が、安房国長狭郡(あわのくにながさぐん、現在の千葉県鴨川市)の龍興寺に寺領の知行を保証したものである。土地を寺社に寄附する寄進状の体裁をとっているが、対象地はすでに寺領であり、実際には所領の領有を保証する安堵状というべきものである。4行目の「寺」の字には修正痕があり、その裏にすえられた花押は、本文書を作成した結城家の右筆のものかと推測される。南北朝期の東国守護家の右筆のものとして貴重である。
龍興寺は、鎌倉府の御料所(直轄領)長狭郡柴原子郷にあった寺院で、鎌倉公方の厚い保護を受け、のちに鎌倉府の祈願所となった。そうしたなかで守護結城氏も同寺を保護したことをうかがわせるのが、本文書である。龍興寺は戦国期に廃絶し、織豊期に龍江寺として再興されたという。
結城直光は、秀郷流藤原氏の一流、下総結城氏の当主で、足利方に属して父や兄の戦死後も南北朝の内乱を戦い抜き、鎌倉府の信任も得て安房国守護に任じられた。平安時代以来の源氏の威光を描いた軍記物『源威集』の著者ともいわれている。
(宮内公文書館)
明治天皇の利根川御渡船の様子を描いた絵図の写し。明治9年(1876)6月4日、明治天皇は巡幸の途中、栗橋宿(現久喜市)の池田鴨平宅で御小休になった。栗橋からその先の茨城県へ向かう間には利根川があり、明治天皇は御座船に乗って渡られている。この御渡船中に、明治天皇は利根川の鯉漁(こいりょう)を御覧になった。白衣を身にまとい潜水した漁夫数人がこぞって鯉を抱きかかえて捕獲したとされ、計48尾に上ったという。
史料は、昭和3年(1928)に宮内省臨時帝室編修局が「明治天皇紀」編修のため、池田家から借用して作成されたものである。絵図下部に池田鴨平宅、上部が茨城県の中田駅、中央にある利根川の堤と明治天皇の御座船が描かれている。画賛(がさん)には利根川御渡船の経緯と、この時供奉(ぐぶ)した宮内省皇学御用掛近藤芳樹が詠んだ次の歌2首が記されている。「龍の門登らで老し身にも猶/こひねがはるゝ/君の千代かな」「利根川の淀みに引し/網の目に洩ぬ恵みの/深さをぞ思ふ」。なお、近藤の歌については「十府の菅薦」と校合し、適宜濁点を付した。
(宮内公文書館)
宮内省では、巡幸(じゅんこう)中の現地での出来事などを記録した供奉(ぐぶ)日記を作成している。巡幸とは天皇が複数の地を行幸(ぎょうこう)になることで、特に明治前期のものを総称して「六大巡幸」と呼ばれ、明治天皇は、明治5年(1872)から同18年にかけて6度にわたり日本各地を巡幸になった。史料は、明治9年に東北・北海道へ巡幸された際の宮内省の巡幸供奉日記のうち、明治9年6月3日条の記事で、行幸啓に関する公文書がまとめられている「幸啓録」に収められている。
史料の記事は、巡幸の途中で埼玉県東部を通られた時のものである。明治9年6月3日、明治天皇は、埼玉県令白根多助(しらねたすけ)の進言により、草加駅(現草加市)と大沢駅(現越谷市)の間にある蒲生村(現越谷市)にてしばらく馬車を停め、挿秧(そうおう、田植え)を御覧になっている。同地では、200名ほどのたすき掛けの農夫による田植えの光景が見られたという。また、田植え御覧のことは各新聞社にも発表され、多くの人びとにも知られることとなった。六大巡幸で立ち寄られた各地では、このように明治天皇が自らその土地の風景や地域の生業(せいぎょう)を視察された。
(宮内公文書館)
埼玉県下の江戸川筋御猟場は、明治16年(1883)の設置後、史料が作成された明治24年まで「人民苦情」もなく運営を続けてきた。しかし、千葉県などに設置された他の御猟場からは、農作物の被害などが多く、解除願いを出されるなど、宮内省は「時勢之変遷ニ随ヒ猶数十年之後迄」御猟場を継続するためには、「今日より粗計画無之テハ難相成」と考えていた。そこで、宮内省は埼玉県と御猟場を区域とする町村との間に契約を結ばせ、手当金を支払うことを決定する。史料は、その件に関して主猟局長であった山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)から埼玉県知事の久保田貫一(くぼたかんいち、1850-1942)へ宛てた照会文書の決裁である。埼玉県との調整の末、向こう15年間の契約で1反歩(約1,000平方メートル)あたり5厘の手当金が出されることになった。この後、契約の切れる明治39年に御猟場のある町村では、契約の更新か、打ち切りかをめぐって「御猟場問題」が持ち上がることになる。
(宮内公文書館)
宮内省主猟局長を務めた山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)の日記の写本。山口は明治天皇からの内命を受けて狩猟をするため、あるいは御猟場を見回るために、しばしば各地の御猟場を訪れている。明治25年(1892)2月1日からは、出張を命じられ千葉・埼玉の両県にまたがる江戸川筋御猟場を訪ねた。千葉県側から御猟場に入った山口は、2月3日より埼玉県側に移り、翌4日には宝珠花村(ほうしゅばなむら、現春日部市)に至る。史料は、4日の記事である。宝珠花村の堤上から雁猟(がんりょう)を見ていた山口は、見回(猟師)に雁猟の方法を指示すると、14羽の雁を猟獲したという。その日は午後から降雪のため、宝珠花村の中島市兵衛宅に宿泊し、雁猟をしていた見回(猟師)らを招いて晩酌をし、見回(猟師)らは皆、的確な山口の指示を賞賛したことが述べられている。
(宮内公文書館)
明治39年(1906)3月、埼玉県下の江戸川筋御猟場は、埼玉県と町村とで結ばれた15か年契約の更新年を迎えた。町村からは鳥害なども多く、武里村(現春日部市)や豊春村(現春日部市)のように御猟場の解除を願い出て認められる村もあった。一方で、村内の一部だけが御猟場を解除されてしまい、一村の中で御猟場の境界が錯綜する村もあった。南桜井村(現春日部市)や幸松村(現春日部市)もその一つである。両村は、宮内省へ請願書を提出し、御猟場への再編入を目指し、結果として大正2年(1913)に御猟場への再編入が認められた。史料は、その際の様子を示しており、緑色が既存の御猟場で赤色が再編入された区域を示す図面である。御猟場が一村内で錯綜していた様子がうかがえる。
(宮内公文書館)
宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した埼玉鴨場の事業用総図。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現越谷市)に設けられた鴨猟の施設である。大正11年(1922)時点の総面積は35,215坪であった。史料右下にある建物は御休所で、明治41年12月に竣工された。史料中央にある池が元溜(もとだまり)と呼ばれる鴨池で、そこから小さな水路(引堀)が幾重にも広がり、独特な造形となっている。
皇室の鴨場で行われている鴨猟では、絹糸で作られた叉手網(さであみ)と呼ばれる手持ちの網を使った独特の技法が採られている。元溜に集まった野生の鴨を訓練されたアヒルを使って、引堀に誘導した後、叉手網を用いて鴨が飛び立つところを捕獲するものである。野生の鴨を傷つけることなく捕獲することができるこの技法は、江戸時代に将軍家や大名家などに伝わってきたもので、明治以降、皇室の鴨場でも継承して現在に至る。
(宮内公文書館)
埼玉県葛飾郡幸手(現在の幸手市)の権現堂新堤の位置を示した絵図。高須賀村から外国府間(そとごうま)村に至る区間の朱線に小さく「新堤」と記載されている。新築した堤には明治9年(1876)6月4日、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られ、ご視察になっている。同地では江戸時代より利根川の支流である権現堂川の洪水に悩まされ、堤防が決壊することたびたびであった。そこで、明治8年6月に堤防の新築工事を着工し、同年10月に長さ約1,370メートル、高さ4メートルの堤防が完成した。本史料は完成後の明治9年5月27日、第七区(現在の幸手市・久喜市等の一部)区長中村元治・水理掛田口清平が提出したものである。
新堤は明治天皇の行幸に因んで、「行幸堤」(みゆきづつみ)と命名された。また、築堤の功労者を後世に伝えるようにと建碑のための金100円が下賜され、明治10年に「行幸堤之碑」(題額は岩倉具視の揮毫(きごう)、撰文は宮内省文学御用掛近藤芳樹)が建立された。現在、桜の名所として知られる権現堂堤には今もこの記念碑が残されており、「行幸堤」の由来を伝えている。
(宮内公文書館)
御猟場とは、明治期以降、全国各地に設定された皇室の狩猟場のことである。明治17年(1884)、宮内省内に御猟場掛が設置され、明治21年には主猟局、同41年には主猟寮と改められ、全国の御猟場を管理していった。史料は明治16年6月に東京府(無色)・千葉県(朱色)・埼玉県(黄色)にわたる広範な範囲に設定された江戸川筋御猟場の範囲を示すものである。この時、習志野原(千葉県)、連光寺村(神奈川県、現在の東京都)、千波湖(茨城県)の3か所もあわせて御猟場に設定されている。江戸川筋御猟場では雁や鴨、鷭(ばん)、鷺、雉子(きじ)、千鳥などを対象に鳥猟が行われた。
東側はおよそ江戸川を、西側は陸羽街道(日光街道)を境界として、南側は東京湾まで範囲(史料中の朱線の内側)がおよんでいることがわかる。さらに、明治16年9月には東京府全域が削除され、明治17年6月には西側の境界が陸羽街道から岩槻街道へと広げられるなど、区域が改められた。この後、江戸川筋御猟場は縮小と拡大を繰り返しながらも存続し、昭和26年(1951)に廃止された。
(宮内公文書館)
山口正定(やまぐちまささだ、1843-1902)は水戸藩の出身で、明治期に長く侍従を務め、御猟場掛長、主猟局長、主殿(とのも)頭などを歴任した。史料は山口正定の日記で、大正9年(1920)に臨時帝室編修局が写したものである。宮内公文書館には、明治9年(1876)から亡くなる明治35年までの日記が断続的に残されている。
史料は、明治17年4月21日から25日に至る記事である。この時、山口は御猟場掛長として、江戸川筋御猟場の区域内を巡回している。記事を見ると、21日には巡回中に藤塚村(現在の春日部市)の高橋豊吉宅で鯉魚の饗宴があり、夜は幸手宿(現在の幸手市)の田口清平宅に宿泊している。22日には行幸堤(みゆきづつみ、現在の幸手市)を訪れ、土手に咲く満開の菜花を見て詩を詠んでいる。22日から24日までは西宝珠花村(にしほうしゅばな、現在の春日部市)の中島市平宅に宿泊しており、依頼を受けて揮毫をしたり、雉子(きじ)猟をしたりするなど、地域の人びとと交流している。山口にとって、御猟場の巡回は、区域内を見回るだけでなく、御猟場の運営に携わる地域の人びととの交流も目的にあったことがうかがえる。
(宮内公文書館)
御猟場は多くの場合、官有地ではなく民有地(民間の土地)に設定された。そのため宮内省では、各御猟場に監守長を置き、その下に監守を置いて御猟場の管理・運営にあたらせていた。監守の業務は、猟具の管理や担当する区域内の見回りなど多岐にわたるが、御猟場の境界に設置された標木の管理もその一つである。江戸川筋御猟場も多くの御猟場と同様に、ほとんどが民有地に設定されていた。そのため、御猟場の境界がわかりにくく、御猟場設置の当初から標木が設置されており、御猟場の縮小や拡大があるたびに、監守は標木の差し替えを行っていた。
史料はこうした標木のうち、明治32年(1899)に定められた江戸川筋御猟場に設置する標木の英文表記である。ここでは、“IMPERIAL PRESERVES”すなわち皇室の御猟場(直訳すると皇室の保護区)において鳥や動物を撃ったり、罠にかけたりすることを固く禁じている。こうした英文の標木が設置されたことは、明治32年当時において江戸川筋御猟場の利用者に日本人のみならず、一定程度の外国人もいたことを示している。
(宮内公文書館)
埼玉鴨場鴨池の写真。大正・昭和前期頃、宮内省内匠寮(たくみりょう)が作成した写真アルバムに収められた1枚である。埼玉鴨場は明治41年(1908)6月、埼玉県南埼玉郡大袋村(現在の越谷市)に設けられた、鴨猟の施設である。埼玉鴨場は元々農地であった民有地を御料地として取得したところで、元荒川沿いという立地から、鴨池には川からの引き水を取り入れて造成された。鴨池には2つの中島が設けられ、越冬のため飛来する野鴨の集まる場として自然環境が保全されている。
皇室の鴨場で行われる鴨猟は、元溜(もとだまり)とよばれる池に集まった野生の鴨を叉手網(さであみ)を用いて傷つけることなく捕獲するという独特の技法がとられている。埼玉鴨場には、設置後に昭憲皇太后(明治天皇皇后)、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟で行啓になったほか、外国人貴賓や各国大使・公使などの外賓接待の場としてもたびたび用いられた。現在、埼玉鴨場では、千葉県にある新浜鴨場とともに各国の外交使節団の長等が招待され、内外の賓客接遇の場となっている。
(宮内公文書館)
明治23年(1890)8月、北関東は暴風雨により洪水の被害に見舞われた。このときの水害では、利根川、荒川流域の堤防が決壊し、埼玉県にも被害をもたらした。
史料は、その際の被害状況を明治天皇に報告するために作成された書類のうち、南埼玉郡の浸水地域を示した図面である。南埼玉郡は、明治12年の郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)施行により成立した。史料右側が北の方角で、範囲は南埼玉郡(現在のさいたま市岩槻区、蓮田市、白岡市、久喜市、宮代町、春日部市、越谷市、草加市、八潮市)に相当する。史料の左側(南部)は垳川(がけがわ)を挟んで東京府南足立郡(現在の東京都足立区)と接している。史料中の緑色に着色された部分が浸水地で、南埼玉郡では5か町39か村が浸水したことが見て取れる。被害の大きな地域では、水が軒まで及ぶところもあったというほどである。
以上のような被害報告を受けて、救恤金(きゅうじゅつきん)として明治天皇から金700円、昭憲皇太后から金300円が埼玉県に下賜された。
(宮内公文書館)
明治天皇の御料馬として知られる金華山号の油絵を撮影した写真である。「明治天皇紀」を編修する宮内省臨時帝室編修局が取得したもので,写真の撮影自体は大正元年(1912)8月31日に行われた。金華山号は,明治2年(1869)4月に宮城県玉造郡鬼首村に産まれた。明治9年の東北・北海道巡幸の際に買い上げられ,はじめは臣下用の乗馬となった。明治12年4月の習志野演習では有栖川宮熾仁親王が乗用になっている。その後,宮内省御厩課の馭者(ぎょしゃ)であった目賀田雅周によって御料用に調教され,明治13年2月に御料馬に編入された。同年6月の甲州・東山道巡幸に乗馬し,7月29日の吹上行幸の際もお乗りになっている。その後,明治天皇の数々の行幸に従ったが,最後にお乗りになったのは明治26年2月7日の戸山陸軍学校への行幸であった。明治28年に亡くなった後は,亡骸が剥製にされ現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されている。
(宮内公文書館)
皇城・吹上御苑の図面。図面中央下のだ円形の箇所が,406間(約738メートル)の馬場である。明治6年(1873)の皇城炎上により,明治天皇が赤坂仮皇居にお住まいを移されてからも,吹上御苑にはしばしば行幸になった。
吹上御苑で催された天覧競馬は,初回の明治8年以降,明治宮殿が竣工する直前の明治17年まで続いた。競馬実施にあたっては,明治9年に皇室建築を担当する宮内省内匠課(たくみか)が吹上御苑内の広芝に廻馬場を整備した。馬場のコース両側には丸太柵を設けて,拡張したものであった。明治14年には,吹上御苑内での競馬を御覧になるための「御馬見所」が新設された。吹上御苑競馬は乗馬奨励を目的として,主に軍人や宮内官,華族らが参加し,勝者には賞品として織物が下賜された。
以後,明治天皇は皇居近郊の戸山競馬や上野不忍池競馬,三田育種場競馬などに行幸になった他,東京府外にも足を伸ばし,横浜根岸の天覧競馬では,明治32年を最後とするまで13回を数えた。
(宮内公文書館)
大正期に宮内省下総牧場(現成田・富里市域)で行われた,育成馬の追運動を捉えた写真。馬の躍動感溢れる1枚。牧場では離乳した後の育成馬の調教運動の一環として,馬場等で集団的に馬を追う追運動が行われていた。
宮内省下総牧場は,大正11年(1922)に下総御料牧場から改称された皇室専用の御料牧場である。そもそも現在の御料牧場の前身である下総種畜場は,明治14年(1881)6月に明治天皇が行幸した後,所管を農商務省から宮内省へと移すこととなった。明治18年6月に宮内省の所管となると,御料地(皇室の所有地)として管理された。その後,御料牧場は新東京国際空港(現成田国際空港)の設置に伴い,昭和44年(1969)に閉場し,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町へ移転して現在に至っている。
なお,本資料は,大正期の宮内省下総牧場の写真6枚のうちの1枚である。宮内省での「明治天皇紀」編修の参考資料として,臨時帝室編修官渡邊幾治郎から寄贈されたものである。
(宮内公文書館)
主馬寮庁舎の正面を写した写真。内匠寮(たくみりょう)において撮影した1枚である。明治6年(1873)の皇城炎上ののち,明治15年に皇居造営事務局が置かれ,明治宮殿(宮城)の建設が行われた。造営事業の一環として,主馬寮庁舎は,明治20年12月に現在の二の丸庭園のあたりに建設された。
主馬寮は,宮内省において馬事に関する事務を所管した部局で,他省庁には見られない宮内省特有の組織である。明治天皇の侍従などを歴任した藤波言忠は明治22年から大正5年(1916)までの長きにわたって主馬頭(主馬寮の長官)を務め,馬事文化の普及に力を尽くした。その他に主馬寮には馭者(ぎょしゃ),馬医など専門的業務に従事する職員が在籍した。
その後,昭和20年(1945)10月に主馬寮は廃止され,所管事務は主殿寮(とのもりょう)に引き継がれた。昭和24年6月,主殿寮は管理部に改称された。「主馬」という名称は宮内庁管理部車馬課主馬班に残り,現在もその伝統は受け継がれている。
(宮内公文書館)
大正12年(1923)の関東大震災の際,宮城内の主馬寮馬車舎は多大な被害を受けた。写真からは破損した馬車も確認できる。
宮内省各部局の被害状況を示した資料が,「震災録」という簿冊に収録されており,この資料によると主馬寮馬車舎270坪は全壊し,主馬寮庁舎253坪,厩舎160坪は半壊したと記されている。その後,主馬寮庁舎,厩舎は解体された。主馬寮庁舎前の広場は広大な敷地を活かし,罹災者の収容所となった。その他にも,赤坂分厩などの主馬寮所属施設が罹災者収容所として使用された。
震災による被害は施設だけでなく,馬車など主馬寮で管理していた物品にも及んだ。なかでも,儀装馬車(儀式の際に使用される馬車)の破損が著しく,宮内省内では儀装馬車の存廃をめぐって議論が交わされた。震災後,儀装馬車の再調・修理が検討され,昭和3年(1928)に行われた昭和大礼では儀装馬車が使用されている。
(図書寮文庫)
本書は,室町幕府政所の文書の手控えを江戸時代に写したもので,南北朝時代から戦国時代までの,洛中での徴税や九州の所領問題などさまざまな文書の写しが収められている。そのなかに,永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に関して,政所執事伊勢貞国(いせさだくに,?-1454)が関東の諸大名たちに送ったと思われる書状の草案も11通あり,いずれも他には伝わらない貴重な内容を含んでいる。
結城合戦とは,永享の乱(1438-39)で鎌倉公方足利持氏が室町幕府と対立して滅んだのち,下総の結城氏朝らがその遺児を擁して起こした反乱である。幕府は上杉氏や千葉氏など関東の諸将に対応を命じつつ,京都から軍勢も派遣して嘉吉元年(1441)4月に鎮圧した。掲出した画像は,永享12年3月末,謀反が発覚する直前の結城に伊勢が送った書状案の写し(日付などは次頁)で,当初幕府よりの態度を示した結城が褒美を与えられていたことなどが記されている。ただし,このときすでに結城は挙兵しており,幕府の予想をこえて関東の情勢が刻々と変化していたようすがうかがえる。