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(選択を解除)(図書寮文庫)
フランスのオルトラン(Théodore Ortolan,1808-74)が著した"Règles internationales et diplomatie de la mer"(海の国際法と外交)のオランダ語訳。榎本武揚(えのもとたけあき,1836-1908)旧蔵本。
榎本武揚(通称釜次郎)は文久2年(1862)オランダに留学し慶応2年(1866)に帰国,幕府海軍副総裁となる。大政奉還後,新政府への軍艦引渡を拒み五稜郭(現在の北海道函館市)に籠もって抵抗したが(箱館戦争),明治2年(1869)5月降伏。入獄,特赦の後,明治政府に仕え,海軍卿・文部大臣・外務大臣などを歴任した。
本書は,冒頭に師フレデリックスから榎本に宛てた序文(印刷)があり,以降の本文はペンで浄書されている。欄外に榎本のオランダ語・日本語の注記がある。
榎本は降伏の際,本書が混乱で失われるのを惜しみ,官軍参謀の黒田清隆(1840-1900)に託した。掲出した"Geschenk aan de Admiraal van de Keizerlijk Japansche marine van Enomotto Kamadiro"「提督への贈り物」と筆で書かれた一文はこの時のものとされる。
明治13年海軍卿となった榎本は海軍省図書のうちに本書を見出し,許可を得て手元に戻した。その後,武揚の孫である榎本武英から大正15年(1926)に宮内省へ献納された。武英は,本文は「ふれでりつくす氏ノ手筆ニ係ル」とし,祖父の書き込みを「蝿頭ノ細字」(ようとうのさいじ)と評している(宮内公文書館蔵『図書録』大正15年第62号〈識別番号990292〉)。
(図書寮文庫)
この文書は,元弘3年(1333)7月に,後醍醐天皇(1288-1339,在位1318-39)が播磨(はりま)の寺田孫太郎範長に当知行地(実効支配している土地)の安堵(支配の保証)をしたものである。綸旨(りんじ)とは,天皇の命令を蔵人が奉じた文書で,宿紙(しゅくし)と呼ばれる漉き返した灰色の紙に書かれる。本文書の奉者は,後醍醐天皇の近臣である左少弁中御門宣明(なかみかどのぶあき,1302-65)。
後醍醐天皇はこの年の5月に足利尊氏らの力を得て鎌倉幕府を滅亡させ,6月に京都に還御して建武の新政を開始した。そのおり,後醍醐天皇は服従した勢力に対して大量に安堵の綸旨を発し,本文書もその一通となる。安堵された寺田範長は,播磨国矢野荘(やののしょう,現在の兵庫県相生市)の武士で,鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて同荘の支配をめぐって領主の東寺と対立し,「国中名誉の大悪党」と呼ばれた祖父法念とともに勢威をふるったが,のち東寺に敗れて没落した。
寺田氏が持っていた文書の多くは,その没落後に東寺に入ったが,本文書はいつしか東寺から流れて蒐集家の手に渡り,幕末~明治の国学者谷森善臣(1817-1911)を経て,当部の蔵するところとなった。
(陵墓課)
この埴輪は,大阪府の仁徳天皇陵から明治年間に出土した,人物形埴輪の頭部である。残念ながら胴体は見つかっていない。
長い髪を束ねて頭頂部付近で折り返す,島田髷(しまだまげ)に似た髪型が表現されており,ほかの出土例との比較から,祭祀に携わる巫女(みこ)のような性格の女性を表現した埴輪であると推測される。
眉,鼻,耳は粘土を盛り上げることで表現し,目はくり抜き,口・鼻孔・耳孔は工具を刺した孔で表現している。その素朴な作り方によって何ともいえない微妙な表情となっており,そこに魅力を感じる人は多い。
本品は,人物形埴輪が作られ始めた時期のものと考えられており,この種の埴輪の持つ意味を考える上でも重要な資料である。
(図書寮文庫)
本書は,中国唐の時代に著わされた大毘廬遮那成仏経巻20の注釈書を,鎌倉幕府の要職にあった安達泰盛(あだちやすもり,1231-85)が願主となり高野山で開版(版木を作成し印刷・出版すること)・刊行されたものである。ちなみに大毘廬遮那成仏経は,大日如来の功徳を説いた経典で,真言宗の基本経典の一つ。経疏とは注釈書の意である。
高野山では経典や注釈書などが開版され,地元産の厚手の和紙に印刷された。これらを高野版と称している。出版方法は,版木に文字を彫る整版法である。泰盛は,高野山に深く帰依しており,そのため開版の願主となったのであろう。本書には,泰盛開版を示す弘安2年(1279)の刊記(出版の趣旨を記した文章)がある。泰盛はのち霜月騒動(弘安8年)で一族とともに滅亡した。
(図書寮文庫)
本図に描かれた柿本人麻呂(人麿,生没年未詳)は持統・文武朝(690-707)に活躍した万葉集の主要歌人。古今和歌集仮名序で「歌の聖」と讃えられ,平安時代末期には歌道上達を願う人々の信仰の対象となった。粟田兼房(あわたのかねふさ)という人の夢に人麻呂が現れたので,その姿(直衣・指貫・烏帽子姿,右手に筆,左手に紙を持つ)を絵にして拝礼したところ歌が上手くなったという故事(人麿影供)による。影供に用いられる人麿像は,下図のようなものが典型例だが,ここでは葦手(平安末期頃から用いられた遊戯的な絵文字)書きの「柿本人丸」で姿を作っている。この葦手書きの人麿像も人々に好まれた。なお,人麻呂は平安時代中期から「人丸(ひとまる)」とも呼ばれていた。
本作品は第107代後陽成天皇(1571-1617)宸筆と伝えられる,伏見宮旧蔵のものである。好学の天皇のユーモラスな一面が見て取れる。
(図書寮文庫)
本図は「天神さま」として親しまれる菅原道真(845-903)の肖像画。左遷された道真が大宰府で失意の内に没した後,異変や災害が頻発したため,朝廷はこれを道真の怨霊の仕業と考え,名誉回復を図ることで鎮魂につとめた。永延元年(987)8月5日一条天皇は道真に「天満天神」の号を贈った。学問の神として広く信仰されたのは江戸時代以降,寺子屋の守り神として崇敬されたためと言われている。
その道真の肖像画には公家の装束である束帯姿のものと,中国風の法衣をまとったものがある。道真が神通力で唐に渡り,中国の高名な禅僧無準師範(ぶしゅんしはん)の弟子になったという「渡唐天神」伝説が室町時代に広まり,盛んに中国風の衣装の渡唐天神図が作られた。梅の枝を持つのは,道真が大宰府に流される時に詠んだ「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」による。本作品は室町期に描かれ,五摂家のひとつ九条家に所蔵されていたもの。
(図書寮文庫)
本図は百人一首の作者たち100人を描いた巻子本で江戸初期の作と考えられる。人名を記した小札が剥がれている箇所もあり,現在の百人一首の順序と肖像画の装束を比べると身分が合わず順序が異なると思われる部分もある。画像は絶世の美女と称された小野小町(生没年未詳)である。現在多く流通している歌がるたや著名な佐竹本三十六歌仙絵巻断簡など,小野小町は顔を見せていないものが多いが,本作品では顔を見せている。
なお百人一首の歌がるたはポルトガルから伝来したカードゲームから派生したもので,江戸時代初期に作られ始めたと言われている。日野家旧蔵。
(図書寮文庫)
剣豪として知られる宮本武蔵(1584?-1645)自筆と伝えられる肖像画。伝来は不明だが,明治期に皇室に献上されたものと考えられる。武蔵の伝記については不明な点が多いが,武道修行のため諸国をめぐり,のち二天一流(にてんいちりゅう)兵法の祖となった。巌流島での佐々木小次郎との決闘は著名。肥後藩に仕え兵法書『五輪書』(ごりんのしょ)を著している。本図はよく知られる二刀流の姿を描き,武蔵の独特の風貌を伝えている。
(図書寮文庫)
新井白石(1657-1725)は江戸時代中期の儒学者・政治家。久留里(現・千葉県君津市)藩士の子として,江戸に生まれる。名は君美(きんみ),白石は号。師である木下順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊に仕えた。綱豊が家宣と改名して6代将軍になると将軍侍講として活躍。7代家継の代にわたって7年あまりの間,幕政の改革にあたった(正徳の治)。白石の著作として自伝『折たく柴の記』や,日本に密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問した『西洋紀聞』などがある。
本図に見える威儀を正した白石の姿は,武士として,また儒者としての威厳を感じさせるものとなっており,新井家所蔵本の模写本ながら見事な出来栄えといえよう。有職故実で名高い松岡家旧蔵本のひとつ。
(図書寮文庫)
本図に描かれた有栖川宮熾仁親王(1835-95)は,幕末から明治にかけての皇族の一人で政治家・軍人でもあった。明治天皇の信頼も篤く,戊辰戦争において東征大総督をつとめ,以降,兵部卿,福岡藩知事,元老院議長,逆徒征討総督,陸軍大将を歴任し,博愛社(後の日本赤十字社)発足にも深く関わった。和宮親子内親王との婚約解消(和宮は徳川家茂に降嫁)の一件や「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節)の「宮さん」として人々に知られている。
肖像画の作者威仁親王(1862-1913)は熾仁親王の弟にあたり,皇子女に恵まれなかった熾仁親王の後継者となった。明治12年(1879)にイギリス海軍「アイアン・デューク」に乗組み,約1年間艦上作業に従事,その後英国に留学。元帥海軍大将で生涯を終えられた。
熾仁親王は明治28年1月15日薨去,その前後に菊花章頸飾・功二級金鵄勲章を授与されているが,この肖像画はそれらを帯びた姿であるので,薨去後,追善のために威仁親王が筆をとったものと考えられる。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,安政5年(1858)12月11日,高杉晋作(1839-67)らが師の吉田松陰(1830-59)に宛てた血判状。連署の高杉晋作・久坂玄瑞ら5人は松陰の門下生で,本文執筆は久坂とされる。高杉らは師松陰の過激な計画を思い止めようと血判状をもって諫止したのである。師を思う弟子たちの思いが込められた血判状による諫止ではあったが,やがて松陰は安政の大獄によりその短い生涯を閉じるのである。木戸家旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,有栖川宮熾仁親王(1835-95)から父である幟仁親王(たかひと,1812-86)に宛てた書状である。3点に及ぶ親王の書状は,慶応4年(1868),親王が東征大総督として江戸へ向かった際の様子を,父君へ報告するため執筆されたものである。なかでも新撰組の残党との戦闘に関する記載や,徳川慶喜の謝罪状を持参された公現法親王(後の北白川宮能久親王)と面会したこと等,幕末史の一齣を生き生きと伝えている。有栖川宮旧蔵。
(図書寮文庫)
本書は,薩摩藩士西郷吉之助(隆盛,1827-77)から木戸準一郞(孝允,1833-77)に宛てた書状で,閏4月6日とあるとことから慶応4年(明治元年,1868)のものと考えられる。東征大総督府参謀であった西郷が木戸に,徳川氏の処分や関東鎮撫策について面会して意見を聞こうと上京を促そうとしたのではないかと想像される内容をもっているが,木戸は10日に大阪を発ち,神戸へ向かったため,西郷は会うことはできなかったことがうかがえる。
(図書寮文庫)
本書は,平安時代後期に摂政・関白を歴任した藤原忠通(1097-1164)の自筆書状である。内容は,忠通の側にいたと思しき,ある貴人の病気に関するもので,このとき平癒のための御占や御祈が盛んに行われたことがうかがえる。宛所(宛先)が欠けているが,忠通の息女聖子(1122-82)の可能性が考えられる。土御門家旧蔵。
(宮内公文書館)
写真は,明治7年(1874)に司法省七等出仕井上毅(こわし)が,司法卿大木喬任(たかとう)へあてた建白書の草稿。井上は,法制局長官などを歴任したほか初代宮内省図書頭も務めた。後に,伊藤博文とともに憲法の起草に当たった人物として著名。本建白書は,国家の基本となる「建国法」(憲法)制定の必要性などを説いたもの。井上の明治初期の憲法構想が本資料から読み取れる。
(宮内公文書館)
本資料は,宮内卿・宮内大臣にあてられた建白書類をまとめたもので明治5年(1872)から明治41年まで全9冊の内の1冊。写真は,筑摩(ちくま)県・愛知県の農民が明治9年(1876)に宮内卿徳大寺実則(さねつね)へ宛てた建白書。歌会始での詠進歌を上梓・頒布したい旨を述べている。明治7年に一般からの詠進が認められ,歌会始という宮中行事が一般に知られるようになったことの一端がうかがえる。
(宮内公文書館)
本資料は,「諸願建白録」の内,明治24年(1891)分の簿冊。写真は,横浜の実業家である高島嘉右衛門(かえもん)が宮内大臣土方久元(ひさもと)に提出した建白書。祭政一致についての意見を述べた長文の建白書である。高島は,横浜港を埋め立て,鉄道敷設のために貢献したことで著名。埋め立て地には,「高島」の地名が付けられた。また,高島は『高島易断』の著者としても有名。
(宮内公文書館)
本資料は,三条実美の事蹟編集の過程で収集された資料の一つ。当時開拓次官であった黒田了介(清隆)が,明治天皇に言上したのち,改めて文書にして明治3年(1870)12月29日に右大臣岩倉具視(ともみ)へ提出した意見書。戊辰戦争で新政府軍に抗戦し,箱館五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚(たけあき)の処分などについて述べられている。箱館で新政府軍を指揮していた黒田は,敵将であった榎本の才覚を高く評価し,罪を赦してその能力を新しい時代に活かそうとしたとされる。
(宮内公文書館)
本資料には,明治4年(1871)9月に薩摩藩出身の伊地知正治(いじちまさはる)の名前で提出された建言書2通が綴じられている。一部に修正した痕跡があり,「本書は西郷隆盛自筆也」とあることから西郷隆盛が代筆した草案であると考えられる。祭政一致や勧農,租税などについての意見が記されている。
(宮内公文書館)
本資料は,明治2年(1869)8月26日に北沢正誠(まさなり)(乾堂(けんどう))が,木戸孝允に提出した建言書。北沢は,松代(まつしろ)藩の出身で佐久間象山に学び,廃藩後太政官に出仕した。本建言書では,同年7月に実施された版籍奉還後の国家のあり方について藩の体制,人材登用などの面で「旧習」を「御一新」するための構想が長文にわたって論じられている。本資料からは,地方の藩の一藩士が抱いていた国家構想がわかる。